J-WAVEで放送中の番組『JAM THE WORLD』(ナビゲーター:グローバー)のワンコーナー「UP CLOSE」。6月13日(水)のオンエアでは、水曜日のニュース・スーパーバイザーを務めるフォトジャーナリスト・安田菜津紀が登場。映画『万引き家族』がカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した是枝裕和監督をゲストにお迎えし、映画業界やメディアへの思いなどを伺いました。
【本文中に『万引き家族』のストーリーに若干触れる記述があります。まだご覧になっていない方はお気をつけください。(編集部)】
■「産まないと親になれないのか」という疑問があった
映画『万引き家族』は、血の繋がりのない家族が、ある事件をきっかけにバラバラになってしまうというストーリーです。
安田:作中では、子どもたちが万引きをする、あるいは大人たちがそれをさせていることや、子どもたちを誘拐したことがニュースで報道されます。すると、「何て酷いことをしているんだ」と世間に断罪され、いつしか流れていって忘れ去られる。その繰り返しです。是枝さんの中には断罪とは違った角度の意識があり、それがこの映画の原点になっているのでしょうか。
是枝:そうですね。断罪して、排除していく。そうして安心することに対する違和感は日頃から抱いており、作品のベースにはあります。ただ、それがスタートだったわけではありません。
『そして父になる』は、「家族をつないでいるものは血なのか、共に過ごした時間か?」と問うた作品なのですが、「産まないと親になれないのか?」という疑問が湧いて。産まなくても親になろうとする人たちの話を作ってみたいという気持ちが、素直に出てきたんですね。そして、リリー・フランキーさんと安藤サクラさんが演じる、父親・母親の役が生まれた。彼らを、血縁ではない形で……親子関係を何で結ぶかというのを考えて、「犯罪でしかつながれなかったんだな」というふうに、彼らが事件化したあとに私たちが思うであろう、そういう目線で捉えてみようと思ったんです。
■「家族はこうあるべき」を描かない
「産めなくても親になろうとする人々」という観点で、安田が印象に残っているシーンを話しました。
安田:安藤サクラさんが演じる信代が、池脇千鶴さんが演じる方に取り調べを受けるシーンがありますよね。そこで、「子どもを産めないのがつらいのはわかるけどね」「産んでいる母親がうらやましかったの?」と問いかける。それを見て、なんとも言えない気持ちが沸き上がりました。それは「自分が子どもを生んでいない女性だから」ということではなく、「産んでこそ母親」であったり、「それでこそ家族を築けるのだ」であったりという、単一の価値観を押し付けられる感覚でした。世間では、「家族はこうあるべき」「血縁とはこうあるべき」といった「べき論」が蔓延していますが、それについてはどういった見方をしていますか?
是枝:ファミリードラマを作るときに最低限考えているのは、「家族はこうあるべきだ」という姿を描かない、「こうすると幸せになれるよ」というような形を提案しないこと。それが抑圧として働くような形で描かないようにしています。ただ、もしあの家族が、今回の映画のような事件として表に出たときには、おそらく社会の眼も報道も警察も、池脇さんの役が発したような言葉で、あの家族を解体していくというか、彼らが考える正しい方向に導くはずで。観ているお客さんは、そこに身をおかざるを得ない状態に、映画の後半は作っています。前半は、ともすればあの犯罪者集団に共感してしまうような描き方をしているので、それが後半で反転していくことが、居心地の悪さにつながっているのかなと思います。
■「社会が犯罪を生む」、その上で考えるのが大事
「犯罪者は理解できない」とレッテルを貼られ切り捨てられる人たちと、それを報じるメディアのありかたについて、是枝さんはこう話します。
是枝:切り捨てることは、人の醜い部分の本音だと思いますが、少なくともメディアは「犯罪は社会が生むんだ」という建前論を持つことが大事だと思っています。古臭いと言われるかもしれませんが。社会が犯罪を生む以上、犯罪も犯罪者も“社会の共有罪”だから、それについて考えて、再び社会に吸収していく。そういう視点に立たないと、報じる意味がないと思うんです。法的に制裁を受ける人間に社会的な制裁を加えて、断罪を重ねていくことになりかねない。そうなると、“正しい私たち”と“間違った彼ら”で分断していくだけ。本来的には、この二者は地続きだし、社会はそういう視点を持っていたほうがいいと思うんです。
最近、目黒区で5歳の女の子が父親から暴行を受けて亡くなる事件が起きましたよね。あの事件の両親はたしかにひどい。けれど、そこまで半歩しか離れていない父親、母親はたくさんいると思うんです。その人たちが足を踏み外さないようにどうするか、社会で考えて引き戻してあげる。そのために報じる必要があるし、そうした捉え方をしていきたいと思っています。
■ネット作品は「映画」か?
続いては今回のカンヌ映画祭で話題となった、Netflix (ネットフリックス)の不参加というトピックについて。「スクリーンで上映しない映画は映画なのか?」や「映画とはそもそも何か?」という議論について訊きました。
是枝:ネットの作品に対しては、映画祭ごとに態度がいろいろです。作品として選んでいる映画祭もたくさんありますから、個々の映画祭で判断すればいいことだと僕は思います。そして、今回のカンヌの判断は僕は支持しています。彼らが「映画とはどういうものだったか? 今、映画はどうなっているか? これから映画はどうなっていくのか?」ということを、すごく広い視野に立って、あの映画祭をとおして示すんですね。 それは、カンヌ・クラシックといって、私たちがどんな映画に支えられて映画を作っているかということも示します。カンヌは、オフィシャルセレクションという形で、メインの作品として40本も選びます。「今、映画がどうなっているか?」という地図を書く作業を彼らはします。その中には「これから映画がどうなっていくか?」という視野も含まれている。いろいろなしがらみがあるし、映画館との力関係ももちろん反映されるでしょうけれど、彼らは「映画は映画館と切り離せない」という捉え方をした、ということなんです。
是枝さんは今後について、「ネットに飲み込まれて行くだろうな」「映画は“コンテンツ”と呼ばれ、映画館と切り離されても消費される形になっていくだろう」と予想した上で、こう話します。
是枝:カンヌと同じように、僕も映画は映画館で観るものだと思っています。もちろん、優れたネットの作品もあるだろうし、僕も自分のやりたい企画が映画で成立しない場合には、AmazonやNetflixと組んで制作するかもしれません。でも、それを映画と呼ぼうとは思いません。
■政治をタブー視する風潮について
日本国内で極端に政治をタブー視する風潮についても、話題が及びました。安田が「写真家なのに、なぜ政治を語るのか?」と言われるように、是枝さんも「映画監督がなぜ?」と言われるそうです。
是枝:だとすると、誰が政治を語るんでしょうか。もちろん僕も、映画を撮って映画祭に参加したときは、もっと純度の高い映画という表現だけで終始できる場だと思っていましたし、思いたいです。ただ、カンヌとかに行くとすごくわかるんですけど、いろいろな国の事情で、反政府的だという理由で映画祭に参加できない監督がいる。イランとロシアの監督が2人いるんです。本人は呼ばれないけど作品は来て、名札はあるという。その態度自体が、映画という文化はそのような国の事情を越えてあるんだと、表現としては大きいものなんだと示すわけです。政治的な表明といってもいいと思う。
もちろんあの場所で、政治的なメッセージを声高に表明するということが、僕自身の感覚として馴染むかというと、そんなこともないんですね。取材に来た方に、「この家族が生まれている社会的な背景がどんなものか」と訊かれれば答えますが、壇上でかつてマイケル・ムーアがやったようなことをするかというと、そんなことはしない。ただ常に何かをすることが政治的な判断を迫られている場所であるということは間違いない。そこに身をさらされて帰ってくると、「何てこの国は非政治的なんだろう」と思う。「政治的な発言をしないということが、政治的な態度のひとつである」と捉えないと、たぶん間違った方向に行くんじゃないかという危機感を持っているので、僕はしゃべります。
映画監督としてのスタンスについては、こう述べます。
是枝:国益優先主義をナショナリズムと呼んでしまうと語弊がありますが、みんなが大きな物語に回収されている状態に差し掛かっていると、僕は思います。ひとりの映画監督として何ができるか考えると、多様な小さな物語を、それに対峙して作っていくと。大きな物語に取り込まれないスタンスを保ちながら、小さな物語を作り続けて、『こっちのほうが豊かだよ』と言ってあげる。それが一番かな、作り手としては。
是枝さんは次作で、パリに行ってフランス映画を撮影するのだそう。初の挑戦です。「東京でしか撮っていない日本語しかしゃべれない人間が、はたして言語と文化の壁を越えて外国で映画が撮れるのかというのは、かなりチャレンジです」と明かしました。日本を代表する映画監督である是枝さん。今後の作品も注目が集まりそうです。
【この記事の放送回をradikoで聴く】
PC・スマホアプリ「radiko.jpプレミアム」(有料)なら、日本全国どこにいてもJ-WAVEが楽しめます。番組放送後1週間は「radiko.jpタイムフリー」機能で聴き直せます。
【番組情報】
番組名:『JAM THE WORLD』
放送日時:月・火・水・木曜 19時-21時
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/jamtheworld
【本文中に『万引き家族』のストーリーに若干触れる記述があります。まだご覧になっていない方はお気をつけください。(編集部)】
■「産まないと親になれないのか」という疑問があった
映画『万引き家族』は、血の繋がりのない家族が、ある事件をきっかけにバラバラになってしまうというストーリーです。
安田:作中では、子どもたちが万引きをする、あるいは大人たちがそれをさせていることや、子どもたちを誘拐したことがニュースで報道されます。すると、「何て酷いことをしているんだ」と世間に断罪され、いつしか流れていって忘れ去られる。その繰り返しです。是枝さんの中には断罪とは違った角度の意識があり、それがこの映画の原点になっているのでしょうか。
是枝:そうですね。断罪して、排除していく。そうして安心することに対する違和感は日頃から抱いており、作品のベースにはあります。ただ、それがスタートだったわけではありません。
『そして父になる』は、「家族をつないでいるものは血なのか、共に過ごした時間か?」と問うた作品なのですが、「産まないと親になれないのか?」という疑問が湧いて。産まなくても親になろうとする人たちの話を作ってみたいという気持ちが、素直に出てきたんですね。そして、リリー・フランキーさんと安藤サクラさんが演じる、父親・母親の役が生まれた。彼らを、血縁ではない形で……親子関係を何で結ぶかというのを考えて、「犯罪でしかつながれなかったんだな」というふうに、彼らが事件化したあとに私たちが思うであろう、そういう目線で捉えてみようと思ったんです。
■「家族はこうあるべき」を描かない
「産めなくても親になろうとする人々」という観点で、安田が印象に残っているシーンを話しました。
安田:安藤サクラさんが演じる信代が、池脇千鶴さんが演じる方に取り調べを受けるシーンがありますよね。そこで、「子どもを産めないのがつらいのはわかるけどね」「産んでいる母親がうらやましかったの?」と問いかける。それを見て、なんとも言えない気持ちが沸き上がりました。それは「自分が子どもを生んでいない女性だから」ということではなく、「産んでこそ母親」であったり、「それでこそ家族を築けるのだ」であったりという、単一の価値観を押し付けられる感覚でした。世間では、「家族はこうあるべき」「血縁とはこうあるべき」といった「べき論」が蔓延していますが、それについてはどういった見方をしていますか?
是枝:ファミリードラマを作るときに最低限考えているのは、「家族はこうあるべきだ」という姿を描かない、「こうすると幸せになれるよ」というような形を提案しないこと。それが抑圧として働くような形で描かないようにしています。ただ、もしあの家族が、今回の映画のような事件として表に出たときには、おそらく社会の眼も報道も警察も、池脇さんの役が発したような言葉で、あの家族を解体していくというか、彼らが考える正しい方向に導くはずで。観ているお客さんは、そこに身をおかざるを得ない状態に、映画の後半は作っています。前半は、ともすればあの犯罪者集団に共感してしまうような描き方をしているので、それが後半で反転していくことが、居心地の悪さにつながっているのかなと思います。
■「社会が犯罪を生む」、その上で考えるのが大事
「犯罪者は理解できない」とレッテルを貼られ切り捨てられる人たちと、それを報じるメディアのありかたについて、是枝さんはこう話します。
是枝:切り捨てることは、人の醜い部分の本音だと思いますが、少なくともメディアは「犯罪は社会が生むんだ」という建前論を持つことが大事だと思っています。古臭いと言われるかもしれませんが。社会が犯罪を生む以上、犯罪も犯罪者も“社会の共有罪”だから、それについて考えて、再び社会に吸収していく。そういう視点に立たないと、報じる意味がないと思うんです。法的に制裁を受ける人間に社会的な制裁を加えて、断罪を重ねていくことになりかねない。そうなると、“正しい私たち”と“間違った彼ら”で分断していくだけ。本来的には、この二者は地続きだし、社会はそういう視点を持っていたほうがいいと思うんです。
最近、目黒区で5歳の女の子が父親から暴行を受けて亡くなる事件が起きましたよね。あの事件の両親はたしかにひどい。けれど、そこまで半歩しか離れていない父親、母親はたくさんいると思うんです。その人たちが足を踏み外さないようにどうするか、社会で考えて引き戻してあげる。そのために報じる必要があるし、そうした捉え方をしていきたいと思っています。
■ネット作品は「映画」か?
続いては今回のカンヌ映画祭で話題となった、Netflix (ネットフリックス)の不参加というトピックについて。「スクリーンで上映しない映画は映画なのか?」や「映画とはそもそも何か?」という議論について訊きました。
是枝:ネットの作品に対しては、映画祭ごとに態度がいろいろです。作品として選んでいる映画祭もたくさんありますから、個々の映画祭で判断すればいいことだと僕は思います。そして、今回のカンヌの判断は僕は支持しています。彼らが「映画とはどういうものだったか? 今、映画はどうなっているか? これから映画はどうなっていくのか?」ということを、すごく広い視野に立って、あの映画祭をとおして示すんですね。 それは、カンヌ・クラシックといって、私たちがどんな映画に支えられて映画を作っているかということも示します。カンヌは、オフィシャルセレクションという形で、メインの作品として40本も選びます。「今、映画がどうなっているか?」という地図を書く作業を彼らはします。その中には「これから映画がどうなっていくか?」という視野も含まれている。いろいろなしがらみがあるし、映画館との力関係ももちろん反映されるでしょうけれど、彼らは「映画は映画館と切り離せない」という捉え方をした、ということなんです。
是枝さんは今後について、「ネットに飲み込まれて行くだろうな」「映画は“コンテンツ”と呼ばれ、映画館と切り離されても消費される形になっていくだろう」と予想した上で、こう話します。
是枝:カンヌと同じように、僕も映画は映画館で観るものだと思っています。もちろん、優れたネットの作品もあるだろうし、僕も自分のやりたい企画が映画で成立しない場合には、AmazonやNetflixと組んで制作するかもしれません。でも、それを映画と呼ぼうとは思いません。
■政治をタブー視する風潮について
日本国内で極端に政治をタブー視する風潮についても、話題が及びました。安田が「写真家なのに、なぜ政治を語るのか?」と言われるように、是枝さんも「映画監督がなぜ?」と言われるそうです。
是枝:だとすると、誰が政治を語るんでしょうか。もちろん僕も、映画を撮って映画祭に参加したときは、もっと純度の高い映画という表現だけで終始できる場だと思っていましたし、思いたいです。ただ、カンヌとかに行くとすごくわかるんですけど、いろいろな国の事情で、反政府的だという理由で映画祭に参加できない監督がいる。イランとロシアの監督が2人いるんです。本人は呼ばれないけど作品は来て、名札はあるという。その態度自体が、映画という文化はそのような国の事情を越えてあるんだと、表現としては大きいものなんだと示すわけです。政治的な表明といってもいいと思う。
もちろんあの場所で、政治的なメッセージを声高に表明するということが、僕自身の感覚として馴染むかというと、そんなこともないんですね。取材に来た方に、「この家族が生まれている社会的な背景がどんなものか」と訊かれれば答えますが、壇上でかつてマイケル・ムーアがやったようなことをするかというと、そんなことはしない。ただ常に何かをすることが政治的な判断を迫られている場所であるということは間違いない。そこに身をさらされて帰ってくると、「何てこの国は非政治的なんだろう」と思う。「政治的な発言をしないということが、政治的な態度のひとつである」と捉えないと、たぶん間違った方向に行くんじゃないかという危機感を持っているので、僕はしゃべります。
映画監督としてのスタンスについては、こう述べます。
是枝:国益優先主義をナショナリズムと呼んでしまうと語弊がありますが、みんなが大きな物語に回収されている状態に差し掛かっていると、僕は思います。ひとりの映画監督として何ができるか考えると、多様な小さな物語を、それに対峙して作っていくと。大きな物語に取り込まれないスタンスを保ちながら、小さな物語を作り続けて、『こっちのほうが豊かだよ』と言ってあげる。それが一番かな、作り手としては。
是枝さんは次作で、パリに行ってフランス映画を撮影するのだそう。初の挑戦です。「東京でしか撮っていない日本語しかしゃべれない人間が、はたして言語と文化の壁を越えて外国で映画が撮れるのかというのは、かなりチャレンジです」と明かしました。日本を代表する映画監督である是枝さん。今後の作品も注目が集まりそうです。
【この記事の放送回をradikoで聴く】
PC・スマホアプリ「radiko.jpプレミアム」(有料)なら、日本全国どこにいてもJ-WAVEが楽しめます。番組放送後1週間は「radiko.jpタイムフリー」機能で聴き直せます。
【番組情報】
番組名:『JAM THE WORLD』
放送日時:月・火・水・木曜 19時-21時
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/jamtheworld
この記事の続きを読むには、
以下から登録/ログインをしてください。