スポーツマーケティングジャパン代表で実業家の日置貴之さんが、スポーツビジネスを始めたきっかけや東京2020オリンピックに携わることになった経緯、プロ野球・日本ハムファイターズ北海道移転時の裏話などについて語った。
日置さんは1974年生まれ。長らくスポーツビジネスの第一線で活躍し、東京2020オリンピック・パラリンピック開閉会式では統括プロデューサーを務めた人物だ。
日置さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストページ
同社の代表取締役を務める日置さん自身も、中学時代はバスケットボール部、高校時代はアメリカンフットボール部に熱中したスポーツマン。高校卒業後は新聞記者を志して上智大学文学部新聞学科へ進学し、在学中にジャーナリズムの本場・アメリカに留学する。そこで現在の職業に就くきっかけとなる体験をしたという。いったいどんな体験だったのか――六本木ヒルズを出発した「BMW X7 M60i xDrive」の車中にて語り始めた。
日置:僕が留学していたのは、エンターテイメントとスポーツが盛んなニューヨークでした。当時は学生でお金がなかったのですが、NBAやNFL、メジャーリーグ、アイスホッケーなどの試合を一番安い席でよく観戦しました。そこではチアリーダーが踊ったり、華やかにライトアップされたりと観客を楽しませるための様々な演出が繰り広げられ、大きな衝撃を受けたのを覚えています。それが僕にとっての原体験となりました。
日置:大学の先輩が「日置、2002年の日韓ワールドカップに向けてFIFA(国際サッカー連盟)が日本で人材募集してるんだけど、ちょっと一緒に申し込んでみないか?」と誘ってくれたんです。「いいですね」と履歴書を送ったところ、先輩とともに受かっちゃって(笑)。おそらく、日本語を話せて英語ができてスポーツに興味のある人材があまりいなかったのでしょうね。このときの僕はまだ25、6歳で、下っ端中の下っ端でした。フランス人やドイツ人の上司のもと、様々な国の混合チームで僕が担当していたのは、マーケティング領域。スポンサーさんと一緒にファンやお客さんを増やし、グッズ販売に繋げるための様々な施策を考案していました。また、試合当日に会場運営のお手伝いをすることもありました。特に印象に残っているのが、試合のときにフィールドの上に立てたこと。当時20代だった僕からするともう奇跡みたいな体験で「こんなところにいられるんだ!」と、とにかくうれしかったです。さらに試合終了後、ロッカールームに行くと、選手が脱ぎ捨てたユニフォームなどの衣類が転がっているんですよ。「これ、ブラジルのロナウドが着てたものじゃないの?」「これはロベカルのだ!」なんて言いながら、仲間と一緒にキャッキャしながら写真を撮ったことを覚えています。
2002年日韓ワールドカップの熱狂と興奮を現場で体験した日置さんは大会終了後、より深くスポーツビジネスに関わることになる。
日置:また広告の世界に戻る選択肢もあったのですが、当時FIFAの日本支社長をしていたアメリカ人の方が「このまま日本で起業したい」と言っていました。当時20代の僕は深く考えず、特別な経験ができて面白そうだと思い、その会社へ入社することにしたんです。そこからその人とはもう20年ほどずっとパートナーとして仕事をし続けています。彼はもともと世界最大規模を誇る選手の代理人事業を行う会社に所属し、メジャーリーグの商品の権利をマネジメントするなど、世界的な仕事をしていた人でした。彼に学びながら、アメリカのプロレス団体「WWE」が日本でビジネスする際の受け皿の業務を担当したり、国際的な野球大会の権利を獲得して世界大会の運営に携わったりして経験を積んでいきました。
日置:オリンピック当時、ここに仮設住宅のようなオフィスがあって4か月ほど住んでいました。朝の7時から深夜4時くらいまで仕事をしてソファーで寝たりして。体重は1週間で6キロも痩せました。今はもう公園になっていますね。
五輪に向けて身を粉にして働いていた日置さんだが、そもそもどのようにして、この国を挙げての一大事に携わることになったのか?
日置:一時、シンガポールに拠点を移して活動していたのですが、ある日突然、オリンピックの組織委員会の方から「次に日本へ戻ってくるときに一度寄れよ」と連絡がきて。寄ったらそれが面接で。行く直前に「履歴書とかある?」と聞かれたので持参したら、突然役員室に通されて、当時の会長に「じゃあ、よろしく」と。「これどういうことですか?」と尋ねたら、「日置、国のために働いてくれ」みたいなことを言われて、外堀を埋められてやることになったのです。
国のために働いてくれ――。その言葉を受けた日置さんが手始めに取り組んだのは、2016年リオデジャネイロオリンピックの閉会式で行われたフラッグハンドオーバーセレモニー。シンガーソングライターの椎名林檎が音楽を担当し、演出振付家のMIKIKOさんが振り付けと演出を担当したことで、大きな反響を呼んだ。そして、いよいよ東京五輪が近づいてきた2020年の春。世界的なパンデミックに襲われ、大会の開催が危ぶまれる事態となる。結果的には翌年に延期され、無観客での開催となったが、難しい立場に立たされた当時の日置さんの心境はどうだったのだろうか。
日置:本当に地獄でしたね。当時は色々なことが起きて、社会悪的な役割になっていましたから。毎日のように週刊誌の記者さんが自宅に張り付き、子供の学校にまで来たりもして。本当に実施するべきか、それとも中止にするべきか相当悩みましたし、厳しい時間を過ごしました。世の中では「中止にすべきだ」という意見が多い中、五輪の本質的な価値はどこにあるのか考え抜いた末に、僕は「やるべき」という結論に至りました。スポーツは喜怒哀楽を発露するものです。あの頃はコロナ禍で閉塞感が強まり、興奮することや喜ぶこと、悲しむことがなく日々が過ぎていきました。こうした状況だからこそ、見る人の感情を揺さぶるスポーツの存在は、人間にとって大事ではないかと思ったんですよね。当時は賛否両論ありましたが、始まってしまえば、みんなアスリートの活躍に一喜一憂していましたし。色々な意味でガス抜きの機能を果たしたのではないかと考えています。
日置:最初に行ったのが、とにかく色々な人の話を聞くことでした。北海道では住民の方はもちろん、メディア関係者、自治体の方、元々の本拠地があった東京ではステークホルダーの方など。100人ほどへのインタビューで収集した情報をもとにチームのなるべき姿を考案し、ロゴマークやユニフォームデザインなどを決めてブランドアイデンティティーを作り上げていきました。日ハムでは左右非対称のユニフォームを長らく採用していますが、当時世界的に見てもそのようなユニフォームはありませんでした。そこには、北海道という土地が持つパイオニア精神や「野球そのものを変えていきたい」という当時の球団社長のお話を受けて、今までにないモノを作っていこうという思いがあったのです。また、当時のプロ野球においてはそれほど盛んではなかったファンサービスファーストも推進しました。2003年からヒルマン監督が指揮を執り、北海道移転元年の2004年に新庄(剛志)さんが選手として移籍してくれたことも相まって、強さとエンタメ性を併せ持ったチームの土台ができたように思います。
スポーツビジネスを通じて多様な価値の創出に挑み続ける日置さん。最後に自身にとっての挑戦、そしてその先にあるFreude=喜びとは何かと尋ねると、こんな答えが返ってきた。
日置:スポーツビジネスの世界において、世界と日本にはいまだ格差があるように感じます。例えばサッカーでいうと、有力選手がヨーロッパに次々と移籍していますが、日本から出て行く際にJリーグのクラブに残るお金はさほど多くありません。しかし一方で、ヨーロッパに渡った日本人選手が別の欧州のチームに移籍した場合、日本円にして10億円や20億円の移籍金が保有元のクラブに支払われます。要するに、売上規模が世界と日本では全く違うわけです。その差を埋める努力をしていかなければいけないと考えています。また僕は、スポーツが環境問題やジェンダー、高齢化、人種など様々な課題を解決する手段になると考えていて、そのための活動も現在展開しています。なので、日本のスポーツビジネスを大きくしていくことと、課題解決によりスポーツの社会的価値を高めていくこと。この2つをライフワークとして今後も続けていきたいです。
構成=小島浩平
日置さんは1974年生まれ。長らくスポーツビジネスの第一線で活躍し、東京2020オリンピック・パラリンピック開閉会式では統括プロデューサーを務めた人物だ。
日置さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストページ
留学先でのスポーツ観戦が原体験に
スポーツブランディングジャパンは、海外スポーツチームおよびリーグの日本におけるビジネス支援や国内プロスポーツチームのマネジメント業務など、スポーツビジネスを幅広く展開している。同社の代表取締役を務める日置さん自身も、中学時代はバスケットボール部、高校時代はアメリカンフットボール部に熱中したスポーツマン。高校卒業後は新聞記者を志して上智大学文学部新聞学科へ進学し、在学中にジャーナリズムの本場・アメリカに留学する。そこで現在の職業に就くきっかけとなる体験をしたという。いったいどんな体験だったのか――六本木ヒルズを出発した「BMW X7 M60i xDrive」の車中にて語り始めた。
日置:僕が留学していたのは、エンターテイメントとスポーツが盛んなニューヨークでした。当時は学生でお金がなかったのですが、NBAやNFL、メジャーリーグ、アイスホッケーなどの試合を一番安い席でよく観戦しました。そこではチアリーダーが踊ったり、華やかにライトアップされたりと観客を楽しませるための様々な演出が繰り広げられ、大きな衝撃を受けたのを覚えています。それが僕にとっての原体験となりました。

日韓W杯をきっかけにスポーツビジネスの世界へ
ニューヨークで体感した刺激が忘れられず、スポーツに関わる仕事がしたいと考えた日置さんは大学卒業後、Jリーグと関係が深かった大手広告代理店に就職。ある日、先輩からの何気ない誘いを承諾したことで、人生が大きく動き出す。日置:大学の先輩が「日置、2002年の日韓ワールドカップに向けてFIFA(国際サッカー連盟)が日本で人材募集してるんだけど、ちょっと一緒に申し込んでみないか?」と誘ってくれたんです。「いいですね」と履歴書を送ったところ、先輩とともに受かっちゃって(笑)。おそらく、日本語を話せて英語ができてスポーツに興味のある人材があまりいなかったのでしょうね。このときの僕はまだ25、6歳で、下っ端中の下っ端でした。フランス人やドイツ人の上司のもと、様々な国の混合チームで僕が担当していたのは、マーケティング領域。スポンサーさんと一緒にファンやお客さんを増やし、グッズ販売に繋げるための様々な施策を考案していました。また、試合当日に会場運営のお手伝いをすることもありました。特に印象に残っているのが、試合のときにフィールドの上に立てたこと。当時20代だった僕からするともう奇跡みたいな体験で「こんなところにいられるんだ!」と、とにかくうれしかったです。さらに試合終了後、ロッカールームに行くと、選手が脱ぎ捨てたユニフォームなどの衣類が転がっているんですよ。「これ、ブラジルのロナウドが着てたものじゃないの?」「これはロベカルのだ!」なんて言いながら、仲間と一緒にキャッキャしながら写真を撮ったことを覚えています。
2002年日韓ワールドカップの熱狂と興奮を現場で体験した日置さんは大会終了後、より深くスポーツビジネスに関わることになる。
日置:また広告の世界に戻る選択肢もあったのですが、当時FIFAの日本支社長をしていたアメリカ人の方が「このまま日本で起業したい」と言っていました。当時20代の僕は深く考えず、特別な経験ができて面白そうだと思い、その会社へ入社することにしたんです。そこからその人とはもう20年ほどずっとパートナーとして仕事をし続けています。彼はもともと世界最大規模を誇る選手の代理人事業を行う会社に所属し、メジャーリーグの商品の権利をマネジメントするなど、世界的な仕事をしていた人でした。彼に学びながら、アメリカのプロレス団体「WWE」が日本でビジネスする際の受け皿の業務を担当したり、国際的な野球大会の権利を獲得して世界大会の運営に携わったりして経験を積んでいきました。
「国のために働いてくれ」と口説かれ、五輪に携わることに
「BMW X7 M60i xDrive」は、東京オリンピックのメイン会場・国立競技場に到着。車窓の景色を眺める日置さんの脳裏に浮かぶのは、当時経験した激務の記憶だった。日置:オリンピック当時、ここに仮設住宅のようなオフィスがあって4か月ほど住んでいました。朝の7時から深夜4時くらいまで仕事をしてソファーで寝たりして。体重は1週間で6キロも痩せました。今はもう公園になっていますね。

日置:一時、シンガポールに拠点を移して活動していたのですが、ある日突然、オリンピックの組織委員会の方から「次に日本へ戻ってくるときに一度寄れよ」と連絡がきて。寄ったらそれが面接で。行く直前に「履歴書とかある?」と聞かれたので持参したら、突然役員室に通されて、当時の会長に「じゃあ、よろしく」と。「これどういうことですか?」と尋ねたら、「日置、国のために働いてくれ」みたいなことを言われて、外堀を埋められてやることになったのです。
国のために働いてくれ――。その言葉を受けた日置さんが手始めに取り組んだのは、2016年リオデジャネイロオリンピックの閉会式で行われたフラッグハンドオーバーセレモニー。シンガーソングライターの椎名林檎が音楽を担当し、演出振付家のMIKIKOさんが振り付けと演出を担当したことで、大きな反響を呼んだ。そして、いよいよ東京五輪が近づいてきた2020年の春。世界的なパンデミックに襲われ、大会の開催が危ぶまれる事態となる。結果的には翌年に延期され、無観客での開催となったが、難しい立場に立たされた当時の日置さんの心境はどうだったのだろうか。
日置:本当に地獄でしたね。当時は色々なことが起きて、社会悪的な役割になっていましたから。毎日のように週刊誌の記者さんが自宅に張り付き、子供の学校にまで来たりもして。本当に実施するべきか、それとも中止にするべきか相当悩みましたし、厳しい時間を過ごしました。世の中では「中止にすべきだ」という意見が多い中、五輪の本質的な価値はどこにあるのか考え抜いた末に、僕は「やるべき」という結論に至りました。スポーツは喜怒哀楽を発露するものです。あの頃はコロナ禍で閉塞感が強まり、興奮することや喜ぶこと、悲しむことがなく日々が過ぎていきました。こうした状況だからこそ、見る人の感情を揺さぶるスポーツの存在は、人間にとって大事ではないかと思ったんですよね。当時は賛否両論ありましたが、始まってしまえば、みんなアスリートの活躍に一喜一憂していましたし。色々な意味でガス抜きの機能を果たしたのではないかと考えています。

日ハムの北海道移転時には舵取り役を任される
ワールドカップやオリンピックをはじめ、数々のビッグプロジェクトに参画してきた日置さんだが、忘れられないプロジェクトの一つが2004年のプロ野球・日本ハムファイターズの北海道移転だ。舵取りを任された初めての大仕事だったという。日置:最初に行ったのが、とにかく色々な人の話を聞くことでした。北海道では住民の方はもちろん、メディア関係者、自治体の方、元々の本拠地があった東京ではステークホルダーの方など。100人ほどへのインタビューで収集した情報をもとにチームのなるべき姿を考案し、ロゴマークやユニフォームデザインなどを決めてブランドアイデンティティーを作り上げていきました。日ハムでは左右非対称のユニフォームを長らく採用していますが、当時世界的に見てもそのようなユニフォームはありませんでした。そこには、北海道という土地が持つパイオニア精神や「野球そのものを変えていきたい」という当時の球団社長のお話を受けて、今までにないモノを作っていこうという思いがあったのです。また、当時のプロ野球においてはそれほど盛んではなかったファンサービスファーストも推進しました。2003年からヒルマン監督が指揮を執り、北海道移転元年の2004年に新庄(剛志)さんが選手として移籍してくれたことも相まって、強さとエンタメ性を併せ持ったチームの土台ができたように思います。
スポーツビジネスを通じて多様な価値の創出に挑み続ける日置さん。最後に自身にとっての挑戦、そしてその先にあるFreude=喜びとは何かと尋ねると、こんな答えが返ってきた。
日置:スポーツビジネスの世界において、世界と日本にはいまだ格差があるように感じます。例えばサッカーでいうと、有力選手がヨーロッパに次々と移籍していますが、日本から出て行く際にJリーグのクラブに残るお金はさほど多くありません。しかし一方で、ヨーロッパに渡った日本人選手が別の欧州のチームに移籍した場合、日本円にして10億円や20億円の移籍金が保有元のクラブに支払われます。要するに、売上規模が世界と日本では全く違うわけです。その差を埋める努力をしていかなければいけないと考えています。また僕は、スポーツが環境問題やジェンダー、高齢化、人種など様々な課題を解決する手段になると考えていて、そのための活動も現在展開しています。なので、日本のスポーツビジネスを大きくしていくことと、課題解決によりスポーツの社会的価値を高めていくこと。この2つをライフワークとして今後も続けていきたいです。
構成=小島浩平
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