
(画像素材:PIXTA)
東京・中央区の銀座に関する歴史や魅力、独自の風習について、作家・文献学者の山口謠司さんが語った。
この内容をお届けしたのは、J-WAVE『PEOPLE'S ROASTERY』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。放送日は2025年7月23日(水)〜7月25日(金)。同コーナーでは、独自の文化のなかで育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口さんが解説する。ここではその内容をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが実際に銀座を訪れ、そこで営む人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
・ポッドキャストページ
山口:銀座、僕は大好きです。夜の銀座は知りませんが、『点と線』、それから『黒革の手帖』などで知られる松本清張も銀座をよくご存知でしたね。
松本清張は下戸で全くお酒が飲めませんでした。そんな彼が、銀座のBARに通って、ネタを集めるんですけれども、自分はオレンジジュースをちびちびと飲みながら、ホステスさんにお酒をたくさん飲ませて、お客さんの噂話を聞いていました。面白いと思うと「ちょっとすまん」とトイレに駆け込み、忘れないようにその言葉を小さな革の手帳にメモしていたそうです。これが本当の“黒革の手帖”だったと言われています。
銀座に通ってネタを仕込むぐらいのことをやらないと、やはり小説というのは書けないものなんでしょうね。
銀座には多くの寿司の名店が集まっている。
山口:ネタといえばお寿司です。もともとは種と言っていたのを、業界用語の影響でネタと言うようになりました。銀座のことをザギン、お寿司のことをシースーと言うのも、特に80年代の業界人たちの影響だと思います。
日本で一番おいしいお寿司屋が集まっている街は銀座だと言いますね。銀座の和光から鳴るあのチャイムを聞くと、「今日のお昼はお寿司にするかな」と思ったりもします。予約して行く、あるいは予約がなかなか取れないところに行く機会もあれば、足繁く通っているお店に「空いてる?」と聞いて、入っていくことも。とにかく銀座には、たくさんのお寿司屋さんがございます。それにしても、なぜザギンのシースーはそんなにおいしいのでしょうか。
山口さんは「それは銀座からすぐ近くに築地の市場があったから」と指摘する。
山口:2018年10月6日に、豊洲に市場は移ってしまいましたが、築地には水産青果の市場が併設してありました。築地の市場が開かれたのは、昭和10年(1935年)のことです。以降83年にわたって、日本中あるいは世界中から集まった、最高の食材がここで競りにかけられていました。
だとすれば、やはりおいしいものは高い値段でも取引される。築地に集まるおいしいものを使って、お寿司を作る。市場に走ってでも、買いに行けるところ、それが銀座だったのです。
明治5年(1872年)銀座は大火に見舞われた。
山口:丸の内や築地、あの辺りが全て焼けてしまいました。和田倉門の内側にあった会津藩邸からの出火だったと言われていますが、この大火こそ、ある意味、銀座を大きく変える、あるいは日本全体を近代化するきっかけだったのです。
この火事によって昔の江戸全体が焼けてしまいました。これを受け、銀座を中心として、新しい日本を作っていくことになったのです。銀座の四丁目交差点のところを歩くと、なんだか心がワクワクしますよね。オートクチュールの新作、ウィンドウショッピングをしているだけでも、「日本の中心に来ているんだよな」という印象を受ける方も多いんじゃないかと思います。銀座の通りの広さは、他の街に比べても“ちょうどいい感じがする”と思いませんか?
土日祝祭日の午後、銀座の中央通りは歩行者天国になります。銀座のホコ天は「ホリデープロムナード」と呼ばれているそうです。ホリデープロムナードが始まったのは、1970年8月2日だったそうです。万博が開催された年でした。銀座、夏になると浴衣を着て歩くカップルもたくさんいらっしゃいます。素敵な感じがしますよね。2人でどこに行くんでしょうか。やっぱりシースーなのかな。
山口:去年の8月30日に『ザギンでシースー!?』という映画が公開されました。銀座で和食でおいしいものと言ったらお寿司、そしてもう一つは天ぷらですね。
天ぷらはもちろん揚げ物です。でも実は素材のおいしさを閉じ込める“蒸し料理”と仰る方もいます。おいしさを逃がさないで、高温の油でそのおいしさを凝縮しているんですね。
山口さんは普段あんまり天ぷらを食べないが、“疲れたな”と感じたときに天丼を食べたくなるそうだ。
山口:銀座で天ぷらといえば、やはり「銀座 天一」というお店が有名ですね。インバウンドの方もカウンターに座り目の前で揚げてくれる天ぷらを見ると、「天ぷらショー」と言いながら「見ていて楽しい、食べておいしい」と感激します。
僕が好きな天ぷらのお店は「よこ田」。何故かというと欲張りだからです。よこ田に行くと、おいしいお寿司と天ぷらの両方をいただくことができます。そして何と言っても一緒においしいお茶をいただくことができるんですね。
最近はお料理に合わせてワイン……ペアリングというのが当たり前になってきましたが、よこ田ではお茶もペアリングしてくださるんです。おいしさが倍増しますよ。
山口さんが天ぷらや夏の食材として最もおいしいと感じるのは「キス」だという。
山口:あの淡白な味わい。キスの骨に小麦粉をまぶして、ジューっと揚げる骨せんべい。とってもおいしいです。灼熱のホコ天、熱中症に気をつけながら、銀座でプラテンとでもいきたいものですね。
山口:木村屋のお店の看板の字は幕末から明治にかけて活躍した剣客・政治家の山岡鉄舟が書いたものですが、とても良いですね。この山岡鉄舟は、江戸城を無血開城させた立役者です。
山岡鉄舟の字は京都の古い料亭なんかに行くとよく見かけることができますけども、オリジナルを見るとやはり背筋がピンと伸びる気がします。
木村屋のあんぱんを作ったのは、幕末に茨城県牛久から上京した木村安兵衛という人だった。
山口:明治7年(1874年)のことです。銀座大火の後、赤レンガで再建された近代的な街並みになっているところ、今の木村屋がある場所に、木村屋總本店の創業者・木村安兵衛さんがお店を出されます。
西洋のイースト菌で作るパンではありません。酒種と呼ばれるものを使いました。お酒を作るときの麹を使い酒饅頭にして、中にあんこを入れて、そしてオーブンで焼くという和洋折衷型のあんぱんを作ったのです。
山岡鉄舟と木村安兵衛は剣術家仲間として親交があったそうだ。
山口:山岡鉄舟はよく銀座にやってきていました。するとある日、木村安兵衛が「こんなもの作っているんだ」と言って、あんぱんを食べさせたそうです。それを食べた山岡鉄舟は「これはおいしい。ぜひ明治天皇に召し上がってもらおう」と提案しました。
木村安兵衛がお店を開店してから1年後の明治8年、木村屋のあんぱんが明治天皇のところへと持っていかれます。天皇が「おいしい」と感心するのと同時に、昭憲皇太后もお口に召されて、「とてもおいしいので引き続きお納めを」と仰られたそうです。そこから現在まで木村屋のあんぱんの歴史が続いているんですね。
木村屋のあんぱんにはおへそがあり、桜の花びらが塩漬けされたものが貼りついている。
山口:明治天皇がお召し上がりになったとき、この桜の花びらの塩漬けは、奈良の吉野の桜が使われていたそうですが、この桜の花びらが、餡の甘さを上手に引き立てていますよね。そして酒饅頭が伝えるほんのりとした酸っぱさ。この3つの味わいが上手く重なって、木村屋のあんぱんは出来ていると思います。
ところで、山岡鉄舟という人は、木村屋のあんぱんの桜の花の塩漬けのような役目をした人だったのではないでしょうか。幕末、明治維新の日本をあんぱんに例えるならば、餡は明治天皇でしょう。この天皇を皆でほんわかと包みながら、塩加減を見て、ぎゅっとおへそを握っていたのが山岡鉄舟。時代の大きな転換点に立った人の心が、木村屋という看板のあの字に映し出されているのではないかと思います。
(構成=中山洋平)
この内容をお届けしたのは、J-WAVE『PEOPLE'S ROASTERY』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。放送日は2025年7月23日(水)〜7月25日(金)。同コーナーでは、独自の文化のなかで育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口さんが解説する。ここではその内容をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが実際に銀座を訪れ、そこで営む人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
・ポッドキャストページ
松本清張、下戸でも銀座に通った理由は?
東京駅近くの言わずと知れた観光地である銀座。「松屋銀座」などの一流百貨店がそこにあり、近年も「GINZA SIX」などの施設が生まれるなど、紛れもなく日本の商業の中心地として発展を続けている。世界に名を知られる飲食店も集まる銀座。高級クラブも数多くあり“大人の街”として人々を魅了している。山口:銀座、僕は大好きです。夜の銀座は知りませんが、『点と線』、それから『黒革の手帖』などで知られる松本清張も銀座をよくご存知でしたね。
松本清張は下戸で全くお酒が飲めませんでした。そんな彼が、銀座のBARに通って、ネタを集めるんですけれども、自分はオレンジジュースをちびちびと飲みながら、ホステスさんにお酒をたくさん飲ませて、お客さんの噂話を聞いていました。面白いと思うと「ちょっとすまん」とトイレに駆け込み、忘れないようにその言葉を小さな革の手帳にメモしていたそうです。これが本当の“黒革の手帖”だったと言われています。
銀座に通ってネタを仕込むぐらいのことをやらないと、やはり小説というのは書けないものなんでしょうね。

画像素材:PIXTA
山口:ネタといえばお寿司です。もともとは種と言っていたのを、業界用語の影響でネタと言うようになりました。銀座のことをザギン、お寿司のことをシースーと言うのも、特に80年代の業界人たちの影響だと思います。
日本で一番おいしいお寿司屋が集まっている街は銀座だと言いますね。銀座の和光から鳴るあのチャイムを聞くと、「今日のお昼はお寿司にするかな」と思ったりもします。予約して行く、あるいは予約がなかなか取れないところに行く機会もあれば、足繁く通っているお店に「空いてる?」と聞いて、入っていくことも。とにかく銀座には、たくさんのお寿司屋さんがございます。それにしても、なぜザギンのシースーはそんなにおいしいのでしょうか。
山口さんは「それは銀座からすぐ近くに築地の市場があったから」と指摘する。
山口:2018年10月6日に、豊洲に市場は移ってしまいましたが、築地には水産青果の市場が併設してありました。築地の市場が開かれたのは、昭和10年(1935年)のことです。以降83年にわたって、日本中あるいは世界中から集まった、最高の食材がここで競りにかけられていました。
だとすれば、やはりおいしいものは高い値段でも取引される。築地に集まるおいしいものを使って、お寿司を作る。市場に走ってでも、買いに行けるところ、それが銀座だったのです。

山口:丸の内や築地、あの辺りが全て焼けてしまいました。和田倉門の内側にあった会津藩邸からの出火だったと言われていますが、この大火こそ、ある意味、銀座を大きく変える、あるいは日本全体を近代化するきっかけだったのです。
この火事によって昔の江戸全体が焼けてしまいました。これを受け、銀座を中心として、新しい日本を作っていくことになったのです。銀座の四丁目交差点のところを歩くと、なんだか心がワクワクしますよね。オートクチュールの新作、ウィンドウショッピングをしているだけでも、「日本の中心に来ているんだよな」という印象を受ける方も多いんじゃないかと思います。銀座の通りの広さは、他の街に比べても“ちょうどいい感じがする”と思いませんか?
土日祝祭日の午後、銀座の中央通りは歩行者天国になります。銀座のホコ天は「ホリデープロムナード」と呼ばれているそうです。ホリデープロムナードが始まったのは、1970年8月2日だったそうです。万博が開催された年でした。銀座、夏になると浴衣を着て歩くカップルもたくさんいらっしゃいます。素敵な感じがしますよね。2人でどこに行くんでしょうか。やっぱりシースーなのかな。
天ぷらの名店もひしめく銀座
銀座では旬の食材を使ったこだわりの天ぷらも堪能できる。
天ぷらはもちろん揚げ物です。でも実は素材のおいしさを閉じ込める“蒸し料理”と仰る方もいます。おいしさを逃がさないで、高温の油でそのおいしさを凝縮しているんですね。
山口さんは普段あんまり天ぷらを食べないが、“疲れたな”と感じたときに天丼を食べたくなるそうだ。
山口:銀座で天ぷらといえば、やはり「銀座 天一」というお店が有名ですね。インバウンドの方もカウンターに座り目の前で揚げてくれる天ぷらを見ると、「天ぷらショー」と言いながら「見ていて楽しい、食べておいしい」と感激します。
僕が好きな天ぷらのお店は「よこ田」。何故かというと欲張りだからです。よこ田に行くと、おいしいお寿司と天ぷらの両方をいただくことができます。そして何と言っても一緒においしいお茶をいただくことができるんですね。
最近はお料理に合わせてワイン……ペアリングというのが当たり前になってきましたが、よこ田ではお茶もペアリングしてくださるんです。おいしさが倍増しますよ。

山口:あの淡白な味わい。キスの骨に小麦粉をまぶして、ジューっと揚げる骨せんべい。とってもおいしいです。灼熱のホコ天、熱中症に気をつけながら、銀座でプラテンとでもいきたいものですね。
木村屋のあんぱんにまつわる歴史
山口さんは「銀座のお土産と言ったら木村屋のあんぱんです」と話した。山口:木村屋のお店の看板の字は幕末から明治にかけて活躍した剣客・政治家の山岡鉄舟が書いたものですが、とても良いですね。この山岡鉄舟は、江戸城を無血開城させた立役者です。
山岡鉄舟の字は京都の古い料亭なんかに行くとよく見かけることができますけども、オリジナルを見るとやはり背筋がピンと伸びる気がします。
木村屋のあんぱんを作ったのは、幕末に茨城県牛久から上京した木村安兵衛という人だった。
山口:明治7年(1874年)のことです。銀座大火の後、赤レンガで再建された近代的な街並みになっているところ、今の木村屋がある場所に、木村屋總本店の創業者・木村安兵衛さんがお店を出されます。
西洋のイースト菌で作るパンではありません。酒種と呼ばれるものを使いました。お酒を作るときの麹を使い酒饅頭にして、中にあんこを入れて、そしてオーブンで焼くという和洋折衷型のあんぱんを作ったのです。
山岡鉄舟と木村安兵衛は剣術家仲間として親交があったそうだ。
山口:山岡鉄舟はよく銀座にやってきていました。するとある日、木村安兵衛が「こんなもの作っているんだ」と言って、あんぱんを食べさせたそうです。それを食べた山岡鉄舟は「これはおいしい。ぜひ明治天皇に召し上がってもらおう」と提案しました。
木村安兵衛がお店を開店してから1年後の明治8年、木村屋のあんぱんが明治天皇のところへと持っていかれます。天皇が「おいしい」と感心するのと同時に、昭憲皇太后もお口に召されて、「とてもおいしいので引き続きお納めを」と仰られたそうです。そこから現在まで木村屋のあんぱんの歴史が続いているんですね。
木村屋のあんぱんにはおへそがあり、桜の花びらが塩漬けされたものが貼りついている。
山口:明治天皇がお召し上がりになったとき、この桜の花びらの塩漬けは、奈良の吉野の桜が使われていたそうですが、この桜の花びらが、餡の甘さを上手に引き立てていますよね。そして酒饅頭が伝えるほんのりとした酸っぱさ。この3つの味わいが上手く重なって、木村屋のあんぱんは出来ていると思います。
ところで、山岡鉄舟という人は、木村屋のあんぱんの桜の花の塩漬けのような役目をした人だったのではないでしょうか。幕末、明治維新の日本をあんぱんに例えるならば、餡は明治天皇でしょう。この天皇を皆でほんわかと包みながら、塩加減を見て、ぎゅっとおへそを握っていたのが山岡鉄舟。時代の大きな転換点に立った人の心が、木村屋という看板のあの字に映し出されているのではないかと思います。
(構成=中山洋平)
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