
(画像素材:PIXTA)
長野県・軽井沢に関する歴史や魅力、独自の風習について、作家・文献学者の山口謠司さんが語った。
山口さんが登場したのは、J-WAVE『PEOPLE'S ROASTERY』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは5月19日(月)~22日(水)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容の一部をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが軽井沢を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
・ポッドキャストページ
山口:軽井沢は憧れの別荘地ですね。夏は軽井沢の別荘で過ごしましょう……こんなことが言えたら素敵だなと思いますが、軽井沢という地名には、憧れを感じさせる日本語の秘密が隠されているのではないでしょうか。
「かるい」と「ざわ」という音の繋がり。皆さんはどんな風に感じられますか? 昔は「かるいさわ」と言っていたそうです。明治時代以降、たくさんの外国人の方が避暑地として軽井沢を選ぶようになり、言いやすいということで「かるいざわ」になったそうです。
響きの視点ですと「かるいさわ」だと軽すぎてダメだったのでしょうね。「ざわ」という濁音を混ぜることによって、ちょっと心をときめかせるような、ざわめきを誘発させることに成功したのでしょう。
山口さんは以下のような視点でも“軽井沢は特別な街”だと指摘する。
山口:上皇の明仁さまと上皇后の美智子さまが初めて出会った思い出の場所は軽井沢のテニスコートです。「テニスコートの恋」なんて言われましたね。まさに軽井沢だったからこそ、明るく爽やかで、それまでにイメージできなかった“日本の皇室のざわめき”のようなものが、人々の頭の中に浮かんできたのではないでしょうか。
昭和までにはなかった自由恋愛が、軽井沢で起こったんですよね。しかもそれがテニスコートで。
山口:「goodbye」という言葉は「God be with you=神があなたと共にあらんことを」が原型かと思いますが、フランス語の「Au revoir」は「また会いましょう」というニュアンスが含まれています。一方、日本語の「さようなら」は漢字で書くと、「左様なら」。「さようでございましたらまた今度」というのが語源ですね。
これには「まだまだあなたとのご縁がありますように」という意味も込められていますが、そう思うと「さようなら」はフランス語の「Au revoir」と似ているようにも感じますね。
軽井沢の西側には「追分(おいわけ)」と呼ぶ分かれ道もある。
山口:東京の方から中山道が続いてわけですが、追分というところで道が2手に分かれます。北の方に上がっていくと北陸街道で、富山・金沢に向かう道ですね。
それに対して、もう一方に分かれていくのが木曽を通って、京都に向かう中山道です。中山道第69次。江戸から数えて、20番目の宿場町・追分宿というところがありました。江戸時代にはここに大きな脇本陣の「油や」というお殿様がお泊まりになるお宿があったのです。
軽井沢にはこの街をこよなく愛した作家、堀辰雄に関する資料を展示・保管する「堀辰雄文学記念館」もある。
山口:堀辰雄の代表作は『風立ちぬ』。元々はフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩から引用されているものですが、秋がやってくるが、しっかり生きていかなくてはという思いで書かれた小説です。それが松田聖子さんの歌にも姿を変えていきました。
『風立ちぬ』の堀辰雄は、かわいそうな人なんです。1946年、戦争が終わった翌年に42歳になりますが、まもなく自分の体に肺結核が見つかってしまいます。まだまだ東京は瓦礫の街でした。食べ物がない東京にいては養生もできないということで、軽井沢にやってきて、文筆活動をしながら生活を送っていました。しかし、1953年5月28日に49歳という若さで亡くなってしまいました。
僕が「堀辰雄文学記念館」を訪ねたのは、4月3日のことでしたが「馬酔木」の花が満開でした。馬酔木は「あしび」または「あせび」と言う人がいますが、万葉集には「あしび」と書かれています。堀辰雄は「万葉時代の人たちのことを小説の題材にしたい」と言っていて、大和路を歩きながら「あせびの花を見たい」と思っていたそうです。ちなみに堀辰雄記念館にある馬酔木の木は京都の浄瑠璃寺から贈られたものだそうです。
軽井沢に魅せられた文豪は堀辰雄だけではない。
山口:堀辰雄が病に伏せていた床の間には、川端康成が描いた掛け軸が1本ありました。そこには「雨過ぎて、山洗うが如し」という文字が書かれてありました。
川端康成ももちろんですが、室生犀星、正宗白鳥も夏に軽井沢へとやってきて、文学談義をしていたそうです。堀辰雄記念館のそばには「ささくら」という老舗のお蕎麦屋さんがありますが、僕はそこで三味そばをいただきました。くるみだれ、長芋のとろろ、それから普通のお汁。三者三様でおいしいのですが、混ぜ方に変化を加えてみると、お蕎麦の味もどんどん変わっていきます。
三島由紀夫が書いた『美徳のよろめき』、川端康成が書いた『みずうみ』、堀辰雄の『美しい村』。これらはすべて軽井沢を題材にしたお話です。ひとすすりごと、変わっていく蕎麦の味の変化を楽しみながら、彼らの文章を読み比べてみてはいかがでしょうか。
山口:自転車で軽井沢を散策していらっしゃったそうで、交流していた方もいたのだとか。「うちのお店によくジョン・レノンが買いに来ていましたよ」と仰る方にも出会いました。
ジョン・レノンが滞在するところはいつも万平ホテルの「128号室」だった。
山口:ファンの方は「できたら128号室に泊まらせてください」とリクエストするそうです。ファンの方にはぜひその部屋に泊まってほしいと思いますが、そういうお客さんが多い場合は「くじ引きになってしまいます」とホテルの方は教えてくださいました。
万平ホテルの本館はアルプス館と言いますが、それに加え、愛宕館・碓氷館という2つの建物が去年の10月にリニューアルする際、新しく建てられました。
愛宕館の方は24時間温泉が楽しめます。温泉付きがいい方は、愛宕館に泊まられるといいと思います。そしてアルプス館から愛宕館に繋がる渡り廊下に128号室がございます。前を通ると「ここがジョン・レノンが泊まったお部屋のドアなんだ」としみじみ思います。
廊下には、複製ではあるが、ジョン・レノンのサインが飾ってある。さらに……。
山口:その下のほうに、三島由紀夫のサインもあります。三島由紀夫が万平ホテルに泊まったのは、1955年5月23日から25日まで。2泊3日の滞在ですが、この2年後に発表されたのが『美徳のよろめき』という小説です。
何不自由のない、若い人妻が若い青年と情事を重ねるという不倫小説です。舞台は「高原」と書かれてあるんですけど、読んでいると「軽井沢に決まっている」とわかってしまいます。
宿帳ですが、三島は自身の職業の欄に「文士」と書いていたそうです。「文筆家」あるいは「小説家」という書き方もあると思いますが、そこはさすが三島由紀夫ですね。そして当時はまだ文士という言葉があったのですね。
1977年にジョン・レノンが万平ホテルに滞在したとき、色紙にサインを書き、そこにオノ・ヨーコとショーンくんと自身のイラストも描いたそうだ。
山口:「もしかしたらそのうち価値が出るよ」と言って、部屋をあとにしたそうです。まさかそのとき、自分が3年後に亡くなってしまうとは考えていなかったと思いますが、ジョン・レノンが描いたその色紙は万平ホテルの第一の宝物として重要保管されているそうです。
万平ホテルとジョン・レノンの関係といえば、アップルパイが大好きなジョン・レノンが「こうやって作るんだよ」と教えたことがあるそうです。それが今も味わえる「伝統のアップルパイ」。ロイヤルミルクティーもイギリス人のジョン・レノンが「こうやって淹れるんだ」と教えたそうです。
ジョン・レノンといえば、中華料理「榮林 軽井沢店」の酸辣湯麺が大好きだったとか、色んな逸話が残されています。軽井沢はジョン・レノンや三島由紀夫のような芸術家が過ごした街ではありますが、一方で政治の密談が行われたところでもあります。
光と闇の軽井沢──そんなところを散策するのも軽井沢の楽しみのひとつかもしれませんね。標高1000メートルで味わえる空気は、人の脳を研ぎ澄ますと言われています。ぜひ軽井沢に出かけて脳を研ぎ澄ませて帰ってきてください。
(構成=中山洋平)
山口さんが登場したのは、J-WAVE『PEOPLE'S ROASTERY』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは5月19日(月)~22日(水)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容の一部をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが軽井沢を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
・ポッドキャストページ
軽井沢で起きた「テニスコートの恋」
避暑地として全国的に有名な軽井沢。首都圏から近く、夏でも涼しい気候であるため、多くの観光客が訪れ、賑わいを見せる。別荘地の市況として、長きにわたり、常にトップクラスの評価を得ているのも軽井沢だ。山口:軽井沢は憧れの別荘地ですね。夏は軽井沢の別荘で過ごしましょう……こんなことが言えたら素敵だなと思いますが、軽井沢という地名には、憧れを感じさせる日本語の秘密が隠されているのではないでしょうか。
「かるい」と「ざわ」という音の繋がり。皆さんはどんな風に感じられますか? 昔は「かるいさわ」と言っていたそうです。明治時代以降、たくさんの外国人の方が避暑地として軽井沢を選ぶようになり、言いやすいということで「かるいざわ」になったそうです。
響きの視点ですと「かるいさわ」だと軽すぎてダメだったのでしょうね。「ざわ」という濁音を混ぜることによって、ちょっと心をときめかせるような、ざわめきを誘発させることに成功したのでしょう。

(サワサワは爽爽、ザワザワは騒騒かな、軽井沢 やまぐちヨウジ)
山口:上皇の明仁さまと上皇后の美智子さまが初めて出会った思い出の場所は軽井沢のテニスコートです。「テニスコートの恋」なんて言われましたね。まさに軽井沢だったからこそ、明るく爽やかで、それまでにイメージできなかった“日本の皇室のざわめき”のようなものが、人々の頭の中に浮かんできたのではないでしょうか。
昭和までにはなかった自由恋愛が、軽井沢で起こったんですよね。しかもそれがテニスコートで。
『風立ちぬ』で有名な堀辰雄文学記念館
県道133号線沿いにある二手橋。かつて軽井沢が中山道の宿場だった頃、旅人たちはここで別れを惜しんだ。数多くの「さようなら」があった場所と言われている。山口:「goodbye」という言葉は「God be with you=神があなたと共にあらんことを」が原型かと思いますが、フランス語の「Au revoir」は「また会いましょう」というニュアンスが含まれています。一方、日本語の「さようなら」は漢字で書くと、「左様なら」。「さようでございましたらまた今度」というのが語源ですね。
これには「まだまだあなたとのご縁がありますように」という意味も込められていますが、そう思うと「さようなら」はフランス語の「Au revoir」と似ているようにも感じますね。

(風立ちぬ、ぼくが行ったときは、風が冷たい春でした。 やまぐちヨウジ)
山口:東京の方から中山道が続いてわけですが、追分というところで道が2手に分かれます。北の方に上がっていくと北陸街道で、富山・金沢に向かう道ですね。
それに対して、もう一方に分かれていくのが木曽を通って、京都に向かう中山道です。中山道第69次。江戸から数えて、20番目の宿場町・追分宿というところがありました。江戸時代にはここに大きな脇本陣の「油や」というお殿様がお泊まりになるお宿があったのです。
軽井沢にはこの街をこよなく愛した作家、堀辰雄に関する資料を展示・保管する「堀辰雄文学記念館」もある。
山口:堀辰雄の代表作は『風立ちぬ』。元々はフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩から引用されているものですが、秋がやってくるが、しっかり生きていかなくてはという思いで書かれた小説です。それが松田聖子さんの歌にも姿を変えていきました。
『風立ちぬ』の堀辰雄は、かわいそうな人なんです。1946年、戦争が終わった翌年に42歳になりますが、まもなく自分の体に肺結核が見つかってしまいます。まだまだ東京は瓦礫の街でした。食べ物がない東京にいては養生もできないということで、軽井沢にやってきて、文筆活動をしながら生活を送っていました。しかし、1953年5月28日に49歳という若さで亡くなってしまいました。
僕が「堀辰雄文学記念館」を訪ねたのは、4月3日のことでしたが「馬酔木」の花が満開でした。馬酔木は「あしび」または「あせび」と言う人がいますが、万葉集には「あしび」と書かれています。堀辰雄は「万葉時代の人たちのことを小説の題材にしたい」と言っていて、大和路を歩きながら「あせびの花を見たい」と思っていたそうです。ちなみに堀辰雄記念館にある馬酔木の木は京都の浄瑠璃寺から贈られたものだそうです。
軽井沢に魅せられた文豪は堀辰雄だけではない。
山口:堀辰雄が病に伏せていた床の間には、川端康成が描いた掛け軸が1本ありました。そこには「雨過ぎて、山洗うが如し」という文字が書かれてありました。
川端康成ももちろんですが、室生犀星、正宗白鳥も夏に軽井沢へとやってきて、文学談義をしていたそうです。堀辰雄記念館のそばには「ささくら」という老舗のお蕎麦屋さんがありますが、僕はそこで三味そばをいただきました。くるみだれ、長芋のとろろ、それから普通のお汁。三者三様でおいしいのですが、混ぜ方に変化を加えてみると、お蕎麦の味もどんどん変わっていきます。


(山は、雨によって洗われるなんて、素敵な表現ですね。やまぐちヨウジ)
ジョン・レノンが滞在した「万平ホテルの128号室」
軽井沢といえば、ジョン・レノンを思い浮かべる方も少なくないだろう。1970年〜1979年の間に何度も、妻のオノ・ヨーコ、息子のショーンの3人で、軽井沢に訪れていたそうだ。山口:自転車で軽井沢を散策していらっしゃったそうで、交流していた方もいたのだとか。「うちのお店によくジョン・レノンが買いに来ていましたよ」と仰る方にも出会いました。
ジョン・レノンが滞在するところはいつも万平ホテルの「128号室」だった。
山口:ファンの方は「できたら128号室に泊まらせてください」とリクエストするそうです。ファンの方にはぜひその部屋に泊まってほしいと思いますが、そういうお客さんが多い場合は「くじ引きになってしまいます」とホテルの方は教えてくださいました。

(万平ホテルの人気、ジョン・レノンが教えたというアップルパイ おいしかったー やまぐちヨウジ)
愛宕館の方は24時間温泉が楽しめます。温泉付きがいい方は、愛宕館に泊まられるといいと思います。そしてアルプス館から愛宕館に繋がる渡り廊下に128号室がございます。前を通ると「ここがジョン・レノンが泊まったお部屋のドアなんだ」としみじみ思います。
廊下には、複製ではあるが、ジョン・レノンのサインが飾ってある。さらに……。
山口:その下のほうに、三島由紀夫のサインもあります。三島由紀夫が万平ホテルに泊まったのは、1955年5月23日から25日まで。2泊3日の滞在ですが、この2年後に発表されたのが『美徳のよろめき』という小説です。
何不自由のない、若い人妻が若い青年と情事を重ねるという不倫小説です。舞台は「高原」と書かれてあるんですけど、読んでいると「軽井沢に決まっている」とわかってしまいます。
宿帳ですが、三島は自身の職業の欄に「文士」と書いていたそうです。「文筆家」あるいは「小説家」という書き方もあると思いますが、そこはさすが三島由紀夫ですね。そして当時はまだ文士という言葉があったのですね。
1977年にジョン・レノンが万平ホテルに滞在したとき、色紙にサインを書き、そこにオノ・ヨーコとショーンくんと自身のイラストも描いたそうだ。
山口:「もしかしたらそのうち価値が出るよ」と言って、部屋をあとにしたそうです。まさかそのとき、自分が3年後に亡くなってしまうとは考えていなかったと思いますが、ジョン・レノンが描いたその色紙は万平ホテルの第一の宝物として重要保管されているそうです。

(新しくなった万平ホテル、シカが外から、ぼくのことを見ていました。 やまぐちヨウジ)
ジョン・レノンといえば、中華料理「榮林 軽井沢店」の酸辣湯麺が大好きだったとか、色んな逸話が残されています。軽井沢はジョン・レノンや三島由紀夫のような芸術家が過ごした街ではありますが、一方で政治の密談が行われたところでもあります。
光と闇の軽井沢──そんなところを散策するのも軽井沢の楽しみのひとつかもしれませんね。標高1000メートルで味わえる空気は、人の脳を研ぎ澄ますと言われています。ぜひ軽井沢に出かけて脳を研ぎ澄ませて帰ってきてください。
(構成=中山洋平)
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