J-WAVEで放送中の『Mercedes-Benz THE EXPERIENCE』(ナビゲーター:スガ シカオ)。その時代、その場所で、どんな音楽を聴きたいか――時代を越えて、国境を越えて、ナビゲーターのスガ シカオが旅好き・音楽好きのゲストと共に音楽談義を繰り広げる、空想型ドライブプログラムだ。
10月18日(日)のオンエアでは、建築家の隈 研吾が登場。アフリカ、ニューヨーク、ロサンゼルスと、隈のルーツを探る旅を巡った。
スガ:最初から建築家になろうと思っていたんですか?
隈:小学4年生のときに、1回目の東京オリンピックがあったんです。そこにけっこうカッコいい建築があって、丹下健三が設計した国立代々木競技場を見たときに「こういうものを作る人になりたい」って思った。ちょうどその頃って新幹線とか首都高速道路とか新しい建築ができる建築ブームのような様子を見て、「ああいうの、やってみたいな」と思ったんですよね。
スガ:そこからブレることなく進んだのがすごいですよね。
隈:でも、ある種のブレはあって。丹下健三の建築はコンクリートで高度成長の建築で、そういうものがだんだん嫌いになって、辺境の地の集落に興味を持ちました。大学は悩みの時代で、それを探しにアフリカまで行っちゃおう、みたいな感じでしたね。砂漠やサバンナにある村の写真がカッコよく、ヨーロッパ的とかアメリカ的とは違う並び方とか、材料の使い方だったから、これは何かありそうだと思ったんですよね。
隈は1978年〜79年にかけてアフリカを旅する。当時の思い出として、Dollar Brand『Bra Joe From Kilimanjaro』を選曲した。
スガ:そのときは何カ国くらい周ったんですか?
隈:バルセロナから地中海を渡り、車でアルジェリアに入って、ニジェール、ガーナ、ブルキナファソなど5カ国を周りました。アフリカ大陸を真っすぐ南下して大西洋に出るルートですね。その頃やっていた「パリ-ダカール・ラリー」のコースとほとんど同じコースですね。
現地の村への許可など取れるわけがなく、どの場所も飛び込みで訪れたという。
隈:向こうの人たちが呆気にとられているうちに、写真をバシャバシャ撮って、大きな巻き尺でいろいろと計って、村全体をひとつの平面図におさめました。ほとんど断られなくて、アフリカの人たちは優しかったですね。
スガ:カルチャーショックは受けましたか?
隈:生活の仕方自体が全く違うんです。大家族で一人の夫に対して、6、7人の妻がみんな仲良く暮らしているわけです。
スガ:一夫多妻制なんだ。
隈:その幸せそうな家族の姿を見て、日本の核家族みたいに一つひとつが分離している家族のさみしさを感じましたね。
隈:子どもの頃から仲がよくて音楽の道に進んだ人間が何人かいたんです。そのひとりが、J-WAVEの番組『NIPPON EXPRESS SAÚDE! SAUDADE...』を手掛けるブラジル音楽ばっかりやっている中原 仁と、もうひとりが坂本龍一の育ての親みたいに言われている生田 朗で、そういうみんなが「今、このジャズ聴かなきゃダメだよ」って言われて、どうしても(ジャズの本場)ニューヨークで暮らしたいと憧れを持っていました。
スガ:実際にどれくらい暮らしたんですか?
隈:1年です。でも、暮らす理由が必要だから、建築でも有名なコロンビア大学の客員研究員という立場をもらって、アメリカ中を旅行して遊び回っていまいた(笑)。
スガ:いい時代ですね(笑)。
隈:ときどきレクチャーをすればいいだけでしたからね。
当時を思い出す一曲として、隈はMiles Davis『Bitches Brew』を選曲した。
スガ:その頃のニューヨークはどんな感じだったんですか?
隈:安全になりかけた1985年くらいで、経済的にもすごかったから、どんどんポストモダンの建物が建って。代表的なのは、その後ソニービルになったAT&Tビルが建ったんだけど、ヘンテコな超高層ビルがガンガン建って、ちょっと浮かれているけど、さみしい感じでしたね。その頃にトランプ・タワーも建って、今のトランプとは全然想像ができないくらい、細くてイケメンのトランプが登場してたね(笑)。
隈:ロサンゼルスは気候が気持ちいいですよね。
スガ:ロサンゼルスってニューヨークと逆で、いると自分がダメになっちゃうんですよ。ニューヨークにいると「俺、頑張らないとな」って気持ちになるけど、ロサンゼルスは「このままお金なくてもいいからここに住んじゃおうかな」って思うくらいの気候というか。
隈:食べ物もいいし海もあるから、ダメになりそうなくらい解放感がありますよね(笑)。
前述した生田 朗が当時、ロサンゼルスで、坂本龍一のマネージャーをしていた。3人で一緒に遊ぼうと声をかけられ、数日間楽しく過ごしたという。
隈:生田は子どもの頃からまわりの人に変な名前を付けるやつで、坂本龍一の「教授」ってあだ名も生田が付けて、今では世界中で「教授」って呼ばれているからね。音楽的にも坂本に影響を与えるくらいのやつだったんだけど、残念ながらその後、メキシコに行って、そこの崖から落ちて亡くなっちゃったの。
スガ:ええ……。
隈:「隈も一緒にメキシコに行こうぜ」って言われてたんだけど「仕事だからいちおう帰るよ」って言って僕は東京へ帰って、生田だけメキシコ行って亡くなっちゃって。だから、その前のロサンゼルスでの数日って本当に楽しかった。
スガ:それが最後になっちゃったんですね。
隈:生田は映画『ラストエンペラー』の撮影で、坂本について行ったら、ベルナルド・ベルトルッチ監督に気に入られて、医者役で出てるんです(笑)。だからロサンゼルスに行くと、いつも生田と過ごした数日とか、『ラストエンペラー』のことを思い出しますね。
隈は最後に坂本龍一が作曲した『The Last Emperor - Theme』を選曲、オンエアした。
隈が設計した所沢の『角川武蔵野ミュージアム』が11月6日(金)にグランドオープンする。
スガが空想ドライブをナビゲートする『Mercedes-Benz THE EXPERIENCE』のオンエアは、毎週日曜21時から。
10月18日(日)のオンエアでは、建築家の隈 研吾が登場。アフリカ、ニューヨーク、ロサンゼルスと、隈のルーツを探る旅を巡った。
幸せそうな家族の姿を見て、日本の家族のさみしさを感じた
隈が空想ドライブに指定したのは、「隈 研吾のルーツを探る旅」。隈がこれまで経験した思い出の旅を紹介した。スガ:最初から建築家になろうと思っていたんですか?
隈:小学4年生のときに、1回目の東京オリンピックがあったんです。そこにけっこうカッコいい建築があって、丹下健三が設計した国立代々木競技場を見たときに「こういうものを作る人になりたい」って思った。ちょうどその頃って新幹線とか首都高速道路とか新しい建築ができる建築ブームのような様子を見て、「ああいうの、やってみたいな」と思ったんですよね。
スガ:そこからブレることなく進んだのがすごいですよね。
隈:でも、ある種のブレはあって。丹下健三の建築はコンクリートで高度成長の建築で、そういうものがだんだん嫌いになって、辺境の地の集落に興味を持ちました。大学は悩みの時代で、それを探しにアフリカまで行っちゃおう、みたいな感じでしたね。砂漠やサバンナにある村の写真がカッコよく、ヨーロッパ的とかアメリカ的とは違う並び方とか、材料の使い方だったから、これは何かありそうだと思ったんですよね。
隈は1978年〜79年にかけてアフリカを旅する。当時の思い出として、Dollar Brand『Bra Joe From Kilimanjaro』を選曲した。
スガ:そのときは何カ国くらい周ったんですか?
隈:バルセロナから地中海を渡り、車でアルジェリアに入って、ニジェール、ガーナ、ブルキナファソなど5カ国を周りました。アフリカ大陸を真っすぐ南下して大西洋に出るルートですね。その頃やっていた「パリ-ダカール・ラリー」のコースとほとんど同じコースですね。
現地の村への許可など取れるわけがなく、どの場所も飛び込みで訪れたという。
隈:向こうの人たちが呆気にとられているうちに、写真をバシャバシャ撮って、大きな巻き尺でいろいろと計って、村全体をひとつの平面図におさめました。ほとんど断られなくて、アフリカの人たちは優しかったですね。
スガ:カルチャーショックは受けましたか?
隈:生活の仕方自体が全く違うんです。大家族で一人の夫に対して、6、7人の妻がみんな仲良く暮らしているわけです。
スガ:一夫多妻制なんだ。
隈:その幸せそうな家族の姿を見て、日本の核家族みたいに一つひとつが分離している家族のさみしさを感じましたね。
ジャズの街、ニューヨークにどうしても暮らしてみたかった
次に隈が選んだ地はニューヨーク。隈は独立して自身の事務所を始める前にニューヨークで暮らした当時を振り返る。隈:子どもの頃から仲がよくて音楽の道に進んだ人間が何人かいたんです。そのひとりが、J-WAVEの番組『NIPPON EXPRESS SAÚDE! SAUDADE...』を手掛けるブラジル音楽ばっかりやっている中原 仁と、もうひとりが坂本龍一の育ての親みたいに言われている生田 朗で、そういうみんなが「今、このジャズ聴かなきゃダメだよ」って言われて、どうしても(ジャズの本場)ニューヨークで暮らしたいと憧れを持っていました。
スガ:実際にどれくらい暮らしたんですか?
隈:1年です。でも、暮らす理由が必要だから、建築でも有名なコロンビア大学の客員研究員という立場をもらって、アメリカ中を旅行して遊び回っていまいた(笑)。
スガ:いい時代ですね(笑)。
隈:ときどきレクチャーをすればいいだけでしたからね。
当時を思い出す一曲として、隈はMiles Davis『Bitches Brew』を選曲した。
スガ:その頃のニューヨークはどんな感じだったんですか?
隈:安全になりかけた1985年くらいで、経済的にもすごかったから、どんどんポストモダンの建物が建って。代表的なのは、その後ソニービルになったAT&Tビルが建ったんだけど、ヘンテコな超高層ビルがガンガン建って、ちょっと浮かれているけど、さみしい感じでしたね。その頃にトランプ・タワーも建って、今のトランプとは全然想像ができないくらい、細くてイケメンのトランプが登場してたね(笑)。
忘れられないロサンゼルスの数日間
隈が最後に訪れた空想ドライブの地は、ロサンゼルス。ニューヨークで暮らしていた頃に、1カ月ほど滞在したという。隈:ロサンゼルスは気候が気持ちいいですよね。
スガ:ロサンゼルスってニューヨークと逆で、いると自分がダメになっちゃうんですよ。ニューヨークにいると「俺、頑張らないとな」って気持ちになるけど、ロサンゼルスは「このままお金なくてもいいからここに住んじゃおうかな」って思うくらいの気候というか。
隈:食べ物もいいし海もあるから、ダメになりそうなくらい解放感がありますよね(笑)。
前述した生田 朗が当時、ロサンゼルスで、坂本龍一のマネージャーをしていた。3人で一緒に遊ぼうと声をかけられ、数日間楽しく過ごしたという。
隈:生田は子どもの頃からまわりの人に変な名前を付けるやつで、坂本龍一の「教授」ってあだ名も生田が付けて、今では世界中で「教授」って呼ばれているからね。音楽的にも坂本に影響を与えるくらいのやつだったんだけど、残念ながらその後、メキシコに行って、そこの崖から落ちて亡くなっちゃったの。
スガ:ええ……。
隈:「隈も一緒にメキシコに行こうぜ」って言われてたんだけど「仕事だからいちおう帰るよ」って言って僕は東京へ帰って、生田だけメキシコ行って亡くなっちゃって。だから、その前のロサンゼルスでの数日って本当に楽しかった。
スガ:それが最後になっちゃったんですね。
隈:生田は映画『ラストエンペラー』の撮影で、坂本について行ったら、ベルナルド・ベルトルッチ監督に気に入られて、医者役で出てるんです(笑)。だからロサンゼルスに行くと、いつも生田と過ごした数日とか、『ラストエンペラー』のことを思い出しますね。
隈は最後に坂本龍一が作曲した『The Last Emperor - Theme』を選曲、オンエアした。
『角川武蔵野ミュージアム』
スガが空想ドライブをナビゲートする『Mercedes-Benz THE EXPERIENCE』のオンエアは、毎週日曜21時から。
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2020年10月25日28時59分まで
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番組情報
- Mercedes-Benz THE EXPERIENCE
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毎週日曜21:00-21:54
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スガ シカオ