文筆家の塩谷舞が、バズを起こすライターとして脚光を浴びるようになった経緯や、ニューヨークでの生き方が変わるきっかけとなった出会い、自身の著書などについて語った。
塩谷が登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストはこちら
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
塩谷:芸大生同士で何かを作る場合、写真を撮りたい人やイラストを描きたい人、デザインを手掛けたい人は集まるのですが、「文章を書きたい」という人はなかなか見つかりません。そこで、もともと文章を書くのが苦手ではなかったので、ライターデビューしました。ちょうど姉が出版社でファッション誌の編集を担当していたこともあり、勘所を教えてもらいながらインタビューをするなどして、ライターの真似事のようなことをしていましたね。
「SHAKE ART」は、学生が作るフリーマガジンながら発行部数1万部を記録。大反響の裏で、塩谷はライター業務のみならず、編集や営業、さらには配布作業も担当しており、その学生生活は多忙を極める。スーツケースに雑誌を詰め込み、関西圏だけでなく東京都内や別の地方の美術館や芸術系大学を巡る慌ただしい日々を送るなかで、ある業界への興味を深めていく。
塩谷:当時はフリーマガジンを詰め込んだスーツケースと共に全国行脚するのに疲れていたこともあって、フィジカルな、物理的なものを伴わないインターネットの世界で修行してみたいと考えていました。そうしていろいろ調べているうちに、Webメディア「CINRA NET」がアートや音楽など、さまざまなカルチャーをネットで発信していることを知ったんです。同社の社長・杉浦太一さんのブログもすべて読み「この人とは気が合うだろうな」と勝手に考えて、「お会いできませんか」と訪ねていき、インターンなどを経て就職したのが、2012年のことでした。
入社後はWebディレクターとして働いていたのですが、思っていたのと少し違う部署に配属されたこともあって、若干、不完全燃焼でした。仕事は本当に忙しく、寝る暇もなかったんですけど、なぜか毎晩のようにブログを書くようになって。このブログが「命の魂の叫び」みたいなものがあったからか、当時のインターネットで受け入れてもらい、バズるようになりました。そして、会社を3年勤めて退職する頃には、「バズライター」と呼ばれるようになっていたんです。
塩谷:最初は楽しかったんですよ。インターネットの追い風みたいなものがビュンビュン吹き、その追い風に乗って、自分の言葉や存在がぐるぐる世の中に回っていき「今の時代を生きているな」という実感がありましたから。でも、さまざまな広告会社やメディアからオファーをいただき、それらに対応する日々を送っているうちに、趣味で始めたブログがいつの間にか仕事になっていました。仕事になったからには、ある程度、(記事が読まれる回数など)数字的な期待もかけられます。そんな状況下で文章を書いていたら、果たして自分の言葉なのか、はたまた、アルゴリズムに操られているマリオネットのような言葉なのか、わからなくなってしまったんですよね。
そんなモヤモヤを抱えたままで塩谷は、人生を左右する大きな決断を迫られる。
塩谷:28、29歳のときですかね。当時の夫が「ニューヨークでアーティストになりたい」と言い出したんです。私はこのとき、東京でキャリアを積み上げている真っ最中でした。おまけに、英語もしゃべれなかったから、「付いて行ったところで何ができるんだろう?」と消極的な気持ちだったんですよ。ただ、当時はすごく忙しくて。仕事一つひとつに向き合うというよりはこなしていくという感覚で、睡眠時間もまともに取れないなか、家事を誰かに手伝ってもらいながらギリギリで生活を回していました。お金は溜まっていく反面、自分を削っているような毎日だったので、「この生活を3年、5年、10年と続けていった先に、果たしてどんな未来があるんだろう?」と想像したときに、あまりいいイメージがわきませんでした。
一方で、「若手の注目株」と持て囃され、その言葉に踊らされていたのかなとか、本当に自分がやりたいことはこれなのかなとか、自問自答する時間が長くなっていき、いつからか「ここではないどこかへ行ってしまいたい」と、逃避願望を持つようになっていたんですよね。こうしたなかでニューヨークという場所が提示されたので、「じゃあ、一緒に行ってみるか」と、どちらかといえばネガティブな気持ちで決断しました。それがある種の失敗の始まりでもあり、思っても見なかった道の始まりでもあったんです。
塩谷:私にとって大きかったのは、台湾系アメリカ人の画家エス・チャンとの出会いです。冬物のニットを買おうとたまたま立ち寄ったSOHOのブティックに、当時、美大を卒業したばかりの20代前半の彼女が働いていました。一緒に勤務している店員さんが「この子は販売員だけど画家でもあるんだよ。彼女が書いたポストカードもここで売っているんだ」と説明してくれたんです。
何か惹かれるものがあり、ポストカードを購入。「日本出身で大学時代は芸術を学んでいた」と告げると、エス・チャンは塩谷に興味を持ち、「お茶に行きませんか?」と誘われたという。
塩谷:お茶のときには、さまざまなことを訊かれました。日本で具体美術協会のあとには、どんなムーブメントがあったのかとか、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」のような日本の美意識が凝縮された本はほかにあるかとか。エス・チャンは、日本の美術、文化に大変な興味を持っている子でした。当時の私は英語力がなかったこともありますが、仮に日本語だったとしても、その問いに流暢に答えられるだけの引き出しを持っていなかった。そこで私も勉強しようと思い、日本の文化について本を読むなどして深堀していき、そのなかで「私って子どもの頃、こういうことがすごく好きだったんだよな」と思い出させてもらったんです。彼女の好奇心が私にも伝播してからは、すべての表現の営みの見え方、接し方が徐々に変わっていったような気がします。
エス・チャンに触発され、日本の文化を勉強するようになった塩谷。学びのなかで見出した一つの問題意識が、暗中模索していた彼女の心に使命感の火を灯すことになる。
塩谷:エス・チャンが感銘を受けた谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」では、生活の隅々にまで染み渡った美意識について美しい文章で語られています。また、彼女含めたニューヨークで暮らす日本の美術を好む人からは、いわゆる現代アートではなく、床の間にある掛け軸や屏風画など、暮らしのなかに取り入れられた美に対する称賛を多く耳にしました。でも、いざ自分が日本でどんな暮らしをしていたのか思い返すと、蛍光灯が輝く部屋のなかで北欧の食器を使ったりして。「侘び寂び」も「陰翳礼讃」もあったもんじゃないという暮らしぶりでした(笑)。なので、もしかしたら、暮らしを西洋化していくなかで置き去りにしたり、捨ててしまったりしたものがあるのではないかと、ちょっとしたショックを受けたんです。同時に、「暮らしの背骨をどうやって見つけていけばいいのだろう」と思い、暮らしと芸術を接続することに意欲と使命感を持つようになったんですよね。
塩谷:「ippo plus」を主宰しているのは、子どもの頃から知り合いの守屋加賀さんという女性です。かつてはパン屋さんだけをやっていて、当時の私は“加賀ちゃん”と呼んでいました。そんな加賀ちゃんが5~6年前から始めたギャラリーが本当に素敵なんです。ギャラリーがあるのは、住んでいる人以外は絶対に足を踏み入れないような住宅街の一角。にもかかわらず、日本各地、世界各地から美しいものを求めるお客さんがいらっしゃっているんですよ。私はもともと千里ニュータウンには何もないと思い、「早くこの狭い街を出たい」と願っていました。そんな街にこれほど立派な目的地を作ることができるんだと思いましたし、今の時代はSNSの力を借りながら、個人の熱量でどんな場所も目的地に変えることができるんだと感銘を受けました。
幼い頃から知る“加賀ちゃん”の運営する「ippo plus」に衝撃を受け、その後すぐに日本へ帰国。以降は、自分も暮らしに芸術を取り入れる同志のための「力」になりたいと考え始め、具体的なアクションを起こしたそうだ。
塩谷:日本各地にいる学芸員の友だちや研究員、日本画を書いてる方のもとへ訪ねていき、そこで何が行われているのか。そのささやかで小さな営みを文章にして、伝えていくということをずっとやっていました。今年4月に出版した新著「小さな声の向こうに」はその集積というべき本です。一冊にまとめられてよかったと思う反面、本当にやりたいことに対する全体の進捗でいうと、正味1~2%くらいの感覚でしょうか。とはいえ、急いでどんどん進めることでもないので、一歩一歩進めていければと思い、丁寧に文章をしたためています。
塩谷:まず挿画は、エス・チャンの絵を拝借しています。彼女の瑞々しく明るい表現を取り入れた絵は、私の今の気分と重なるところがありますし、本著は彼女と出会ったからこそ生まれた本でもあります。そんな親愛なる友人の絵を表紙にできてうれしいです。
中身については、登場人物が多くなっています。前作の『ここじゃない世界に行きたかった』は、どちらかといえば、ベクトルを内に向けてアイデンティティを確立させることを目的とした本でしたが、今回はある程度確立したアイデンティティをもって、さまざまな友人たちと話し、懐かしい場所を訪ねる描写が主となっています。たとえば、現代美術家のAKI INOMATAさんや世界で活躍するピアニストの務川慧悟くんといった友人も出てきますし。彼ら・彼女らを取材という形ではなく、友として、ささやかな発言・所作から覗くアーティストらしくない顔も含めて一緒に描けたらいいなとずっと考えていました。そういった立体的な書き方ができたと自信をもって言える作品に仕上がっています。
最後に「塩谷さんにとって未来への挑戦=FORWARDISMとは?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。
塩谷:やりたいことは、新著のタイトルを「小さな声の向こうに」としたように、資本主義社会のなかではかき消されてしまうような小さな営みや文化、人々の声にちゃんと耳を澄まし続けることです。それは一冊や二冊の本で終わらせられることではありません。積み重ねていくことで気付いてくれる人、仲間となって広めてくれる人が増えていくと思っています。なので、どんどん新しいことをやりたいというよりも、小さな声に耳を澄ませてその世界の知見を深め、感性を広げていくことをブラさずに継続していきたいと考えています。
(構成=小島浩平)
塩谷が登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
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芸術を学んでいた大学時代にライターデビュー
1988年大阪・千里生まれ。ライターとして活躍したのち、現在はライフスタイルから社会への問題提起まで幅広いテーマを独自の視点で綴る文筆家として人気を集める塩谷舞。著書に、『ここじゃない世界に行きたかった』『小さな声の向こうへ』(文藝春秋)などがある。 この日、J-WAVEがある六本木ヒルズを出発した「BMW iX1 xDrive30 xLine」。その車中で塩谷は、作家業に目覚めたきっかけとして大学時代の思い出を語り始めた。当時、京都市立芸術大学で美術館のキュレーターや学芸員を育てる学科を専攻していた塩谷。「これから花開く若い才能や、埋もれている才能を世の中に伝え広めたい」。そんな想いのもと、在学中に美大生に向けたフリーマガジン「SHAKE ART」を立ち上げたことが、彼女が筆を執る契機となった。塩谷:芸大生同士で何かを作る場合、写真を撮りたい人やイラストを描きたい人、デザインを手掛けたい人は集まるのですが、「文章を書きたい」という人はなかなか見つかりません。そこで、もともと文章を書くのが苦手ではなかったので、ライターデビューしました。ちょうど姉が出版社でファッション誌の編集を担当していたこともあり、勘所を教えてもらいながらインタビューをするなどして、ライターの真似事のようなことをしていましたね。
「SHAKE ART」は、学生が作るフリーマガジンながら発行部数1万部を記録。大反響の裏で、塩谷はライター業務のみならず、編集や営業、さらには配布作業も担当しており、その学生生活は多忙を極める。スーツケースに雑誌を詰め込み、関西圏だけでなく東京都内や別の地方の美術館や芸術系大学を巡る慌ただしい日々を送るなかで、ある業界への興味を深めていく。
塩谷:当時はフリーマガジンを詰め込んだスーツケースと共に全国行脚するのに疲れていたこともあって、フィジカルな、物理的なものを伴わないインターネットの世界で修行してみたいと考えていました。そうしていろいろ調べているうちに、Webメディア「CINRA NET」がアートや音楽など、さまざまなカルチャーをネットで発信していることを知ったんです。同社の社長・杉浦太一さんのブログもすべて読み「この人とは気が合うだろうな」と勝手に考えて、「お会いできませんか」と訪ねていき、インターンなどを経て就職したのが、2012年のことでした。
入社後はWebディレクターとして働いていたのですが、思っていたのと少し違う部署に配属されたこともあって、若干、不完全燃焼でした。仕事は本当に忙しく、寝る暇もなかったんですけど、なぜか毎晩のようにブログを書くようになって。このブログが「命の魂の叫び」みたいなものがあったからか、当時のインターネットで受け入れてもらい、バズるようになりました。そして、会社を3年勤めて退職する頃には、「バズライター」と呼ばれるようになっていたんです。
アルゴリズムに操られている? 活躍の裏にあった脚光
「バズライター」として一躍脚光を浴びたものの、「魂の叫び」だったはずのブログがビジネスになったことで、表現者として葛藤を感じるようになる。塩谷:最初は楽しかったんですよ。インターネットの追い風みたいなものがビュンビュン吹き、その追い風に乗って、自分の言葉や存在がぐるぐる世の中に回っていき「今の時代を生きているな」という実感がありましたから。でも、さまざまな広告会社やメディアからオファーをいただき、それらに対応する日々を送っているうちに、趣味で始めたブログがいつの間にか仕事になっていました。仕事になったからには、ある程度、(記事が読まれる回数など)数字的な期待もかけられます。そんな状況下で文章を書いていたら、果たして自分の言葉なのか、はたまた、アルゴリズムに操られているマリオネットのような言葉なのか、わからなくなってしまったんですよね。
そんなモヤモヤを抱えたままで塩谷は、人生を左右する大きな決断を迫られる。
塩谷:28、29歳のときですかね。当時の夫が「ニューヨークでアーティストになりたい」と言い出したんです。私はこのとき、東京でキャリアを積み上げている真っ最中でした。おまけに、英語もしゃべれなかったから、「付いて行ったところで何ができるんだろう?」と消極的な気持ちだったんですよ。ただ、当時はすごく忙しくて。仕事一つひとつに向き合うというよりはこなしていくという感覚で、睡眠時間もまともに取れないなか、家事を誰かに手伝ってもらいながらギリギリで生活を回していました。お金は溜まっていく反面、自分を削っているような毎日だったので、「この生活を3年、5年、10年と続けていった先に、果たしてどんな未来があるんだろう?」と想像したときに、あまりいいイメージがわきませんでした。
一方で、「若手の注目株」と持て囃され、その言葉に踊らされていたのかなとか、本当に自分がやりたいことはこれなのかなとか、自問自答する時間が長くなっていき、いつからか「ここではないどこかへ行ってしまいたい」と、逃避願望を持つようになっていたんですよね。こうしたなかでニューヨークという場所が提示されたので、「じゃあ、一緒に行ってみるか」と、どちらかといえばネガティブな気持ちで決断しました。それがある種の失敗の始まりでもあり、思っても見なかった道の始まりでもあったんです。
NYでの出会いが生んだ使命感「暮らしと芸術を接続すること」
当時の夫に連れ添うという消極的な理由で渡ったニューヨークでは、たびたび「なんでここに来たの?」と質問されてはうまく答えられず、自分の存在意義を問われたという。そんなある日、一つの出会いによって新たな道が開かれることになる。塩谷:私にとって大きかったのは、台湾系アメリカ人の画家エス・チャンとの出会いです。冬物のニットを買おうとたまたま立ち寄ったSOHOのブティックに、当時、美大を卒業したばかりの20代前半の彼女が働いていました。一緒に勤務している店員さんが「この子は販売員だけど画家でもあるんだよ。彼女が書いたポストカードもここで売っているんだ」と説明してくれたんです。
何か惹かれるものがあり、ポストカードを購入。「日本出身で大学時代は芸術を学んでいた」と告げると、エス・チャンは塩谷に興味を持ち、「お茶に行きませんか?」と誘われたという。
塩谷:お茶のときには、さまざまなことを訊かれました。日本で具体美術協会のあとには、どんなムーブメントがあったのかとか、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」のような日本の美意識が凝縮された本はほかにあるかとか。エス・チャンは、日本の美術、文化に大変な興味を持っている子でした。当時の私は英語力がなかったこともありますが、仮に日本語だったとしても、その問いに流暢に答えられるだけの引き出しを持っていなかった。そこで私も勉強しようと思い、日本の文化について本を読むなどして深堀していき、そのなかで「私って子どもの頃、こういうことがすごく好きだったんだよな」と思い出させてもらったんです。彼女の好奇心が私にも伝播してからは、すべての表現の営みの見え方、接し方が徐々に変わっていったような気がします。
エス・チャンに触発され、日本の文化を勉強するようになった塩谷。学びのなかで見出した一つの問題意識が、暗中模索していた彼女の心に使命感の火を灯すことになる。
塩谷:エス・チャンが感銘を受けた谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」では、生活の隅々にまで染み渡った美意識について美しい文章で語られています。また、彼女含めたニューヨークで暮らす日本の美術を好む人からは、いわゆる現代アートではなく、床の間にある掛け軸や屏風画など、暮らしのなかに取り入れられた美に対する称賛を多く耳にしました。でも、いざ自分が日本でどんな暮らしをしていたのか思い返すと、蛍光灯が輝く部屋のなかで北欧の食器を使ったりして。「侘び寂び」も「陰翳礼讃」もあったもんじゃないという暮らしぶりでした(笑)。なので、もしかしたら、暮らしを西洋化していくなかで置き去りにしたり、捨ててしまったりしたものがあるのではないかと、ちょっとしたショックを受けたんです。同時に、「暮らしの背骨をどうやって見つけていけばいいのだろう」と思い、暮らしと芸術を接続することに意欲と使命感を持つようになったんですよね。
幼少期からの知人が主宰するギャラリーに感銘を受ける
ニューヨーク滞在中は、度々日本に戻ってきていたとのこと。ある一時帰国のとき、彼女は故郷の千里ニュータウンで見つけたパン工房併設のギャラリー「ippo plus」に大きな感銘を受けたそう。心動かされた、そのわけとは?塩谷:「ippo plus」を主宰しているのは、子どもの頃から知り合いの守屋加賀さんという女性です。かつてはパン屋さんだけをやっていて、当時の私は“加賀ちゃん”と呼んでいました。そんな加賀ちゃんが5~6年前から始めたギャラリーが本当に素敵なんです。ギャラリーがあるのは、住んでいる人以外は絶対に足を踏み入れないような住宅街の一角。にもかかわらず、日本各地、世界各地から美しいものを求めるお客さんがいらっしゃっているんですよ。私はもともと千里ニュータウンには何もないと思い、「早くこの狭い街を出たい」と願っていました。そんな街にこれほど立派な目的地を作ることができるんだと思いましたし、今の時代はSNSの力を借りながら、個人の熱量でどんな場所も目的地に変えることができるんだと感銘を受けました。
幼い頃から知る“加賀ちゃん”の運営する「ippo plus」に衝撃を受け、その後すぐに日本へ帰国。以降は、自分も暮らしに芸術を取り入れる同志のための「力」になりたいと考え始め、具体的なアクションを起こしたそうだ。
塩谷:日本各地にいる学芸員の友だちや研究員、日本画を書いてる方のもとへ訪ねていき、そこで何が行われているのか。そのささやかで小さな営みを文章にして、伝えていくということをずっとやっていました。今年4月に出版した新著「小さな声の向こうに」はその集積というべき本です。一冊にまとめられてよかったと思う反面、本当にやりたいことに対する全体の進捗でいうと、正味1~2%くらいの感覚でしょうか。とはいえ、急いでどんどん進めることでもないので、一歩一歩進めていければと思い、丁寧に文章をしたためています。
未来への挑戦=FORWARDISMとは?
塩谷の著書『小さな声の向こうに』はどんな本なのだろうか?塩谷:まず挿画は、エス・チャンの絵を拝借しています。彼女の瑞々しく明るい表現を取り入れた絵は、私の今の気分と重なるところがありますし、本著は彼女と出会ったからこそ生まれた本でもあります。そんな親愛なる友人の絵を表紙にできてうれしいです。
中身については、登場人物が多くなっています。前作の『ここじゃない世界に行きたかった』は、どちらかといえば、ベクトルを内に向けてアイデンティティを確立させることを目的とした本でしたが、今回はある程度確立したアイデンティティをもって、さまざまな友人たちと話し、懐かしい場所を訪ねる描写が主となっています。たとえば、現代美術家のAKI INOMATAさんや世界で活躍するピアニストの務川慧悟くんといった友人も出てきますし。彼ら・彼女らを取材という形ではなく、友として、ささやかな発言・所作から覗くアーティストらしくない顔も含めて一緒に描けたらいいなとずっと考えていました。そういった立体的な書き方ができたと自信をもって言える作品に仕上がっています。
最後に「塩谷さんにとって未来への挑戦=FORWARDISMとは?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。
塩谷:やりたいことは、新著のタイトルを「小さな声の向こうに」としたように、資本主義社会のなかではかき消されてしまうような小さな営みや文化、人々の声にちゃんと耳を澄まし続けることです。それは一冊や二冊の本で終わらせられることではありません。積み重ねていくことで気付いてくれる人、仲間となって広めてくれる人が増えていくと思っています。なので、どんどん新しいことをやりたいというよりも、小さな声に耳を澄ませてその世界の知見を深め、感性を広げていくことをブラさずに継続していきたいと考えています。
(構成=小島浩平)
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