“コーヒーハンター”の愛称で呼ばれる、コーヒー栽培技師で実業家のJosé. 川島良彰さんが、そのニックネームの由来や幻のコーヒーの樹を発見した際のエピソードなどについて語った。
川島さんは1956年、静岡県生まれの66歳。18歳で中米に渡って以来、世界各地のコーヒー農園の開発や現地での技術指導、さらには絶滅危惧種の探索と幅広い活動を展開し、現在は自ら立ち上げたコーヒー専門企業「ミカフェート」の代表取締役を務める。
川島さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストはこちら
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
静岡県の珈琲焙煎卸業の家に生まれた川島さん。子どもの頃、コーヒー豆が保管されている倉庫の中を遊び場としていた彼は、いつしかコーヒーが誕生した遥か遠い大地へと憧れを募らせていく。
川島:小学生の頃「コーヒーといえばブラジル」というイメージがあり、また、ラテン音楽が好きだったこともあって、「ブラジルのコーヒー園で働いてみたい」という思いが募るようになりました。親にもその意思を伝えたんですけど、もちろん「何を寝ぼけたことを言ってるんだ」と取り合ってもらえずで。ただ、僕は昔から行動に移さなければ気が済まない性分。小学6年生のとき、東京のブラジル大使館宛に「ブラジルへ行ってコーヒー園で働きたいから、相談に乗ってほしい」と書いた手紙を送ったんです。最初は返事が来なかったのですが、諦めきれず、もう1度手紙を書いたら返事が来て。でも、そこに書かれていたのは「日本政府に相談しなさい」という期待外れの言葉でした。その手紙は親に見つかり、「ふざけたことを言うんじゃない!」と、こっぴどく怒られたことを覚えています(笑)。
川島:父と東海寺の大嶽和尚は幼馴染でした。初めてお会いしたのは、高校1年生のときの夏休み。一学期の終業式が終わった次の日、「静岡で夏休みを過ごしたところでお前はくだらないことしかしないだろうから、お寺に入れ」という父に東海寺へ連れられてこられて、「鍛えてくれ」と、和尚に預けられたんです。最初は嫌で嫌でしかたがありませんでしたが、和尚はすごい面白い人だったんですよ。
和尚は当時、お寺でお金のない5人の大学生に食・住を提供し、長期休みを利用してアルバイトをさせていました。彼らと一緒に僕は、毎朝5時半から30分座禅を組んで、その後、お寺の掃除を1時間していました。7時からは自由時間になるのですが、朝ご飯は抜きで、昼はご飯とお味噌汁だけ。夜はそれに少しおかずが付くくらいでした。ある日、僕だけ5時に起こされて、自転車に乗った竹刀をもったラグビー部の学生と一緒に、山手通りを走らされたこともありましたね(笑)。
厳しくも楽しい東海寺での夏休み。そんな日々の中で、大嶽和尚から送られた言葉が、川島さんの人生に小さくない影響を与えていく。
川島:東海寺にある古い茶室では一週間に一度、表千家の師範がお茶を教えに来ていたのですが、あるときから僕もそこで教えてもらえるようになったんです。勉強するようになったのは、和尚から「コーヒーの道に進みたいからといって、コーヒーだけを勉強すればいいってもんじゃない。日本の文化であるお茶も習いなさい」と促されたからでした。今思えば、あの人は常に「色んなものに興味を持ち、広い視野を持て」と、僕に教え続けてくれたような気がします。そんな和尚の話が、とにかく楽しくて。当初、東海寺には高校1年の夏休みだけ行く予定だったんですけど、長期休みの度に通うようになり、いつしかお寺が、僕にとって大事なよりどころになっていたんです。
あるとき、「父がなかなか中南米に行かせてくれない」と和尚に相談したら、「もっと自分の意志をしっかり持て」と諭されたことがありました。でも、僕にはそう言いつつ、和尚は裏でこっそり「あいつは世界に羽ばたかせてやれ」と、父を説得してくれていたみたいなんです。そんな和尚の後押しもあって、高校2年のとき、メキシコへ留学する話が出たんですよ。
川島:高校2年のとき、中米ミッションを終えて帰国した父から「メキシコの自治大学に行かないか」と提案されました。当時僕はメキシコの自治大学のことも、メキシコのことも知りませんでしたが、「中南米に行けるんだったら、もう喜んでいきます!」と乗り気でした。ちなみに中米ミッションは、エルサルバドル大使館が日本のコーヒー屋さんを集めて、中米のコーヒーを知ってもらうために実施した使節であり、そこで父とベネケ大使は知り合ったようです。
そのベネケ大使に、メキシコの大学へ行くための相談に乗ってもらおうと、静岡から父とともに、当時、有楽町電気ビルに入っていたエルサルバドル大使館を訪問しました。大使の第一印象は、「めちゃくちゃ豪快な人」。父が「メキシコの自治大学に息子を行かせたい」と切り出したら、「なんでメキシコに行くんだ! 俺の国に来い」と言われ、そこから、大学を手配しよう、ホームステイ先は自分の妹の家にしよう……といった具合にどんどん決めちゃうんですよ(笑)。急展開に圧倒されつつ帰宅後、父が事のあらましを母に話したら「大使がそこまでしてくれるなら……」と、すんなり両親ともにエルサルバドル留学をOKしてくれたんです。だいぶたってから、父が亡くなる前に「あのとき、よく許してくれたね」と聞いたら、「勢いで飲まれてしまったんだ」と話していました(笑)。
川島:あの頃はまだ、今みたいにセキュリティが厳しい時代ではありませんでした。そのため、エルサルバドル国立コーヒー研究所に訪れて、いきなり飛び込みで「所長に会わせてほしい」とお願いしたらすぐに会わせてくれたんですよ。所長室に通されて「僕はコーヒー屋の息子で、ここでコーヒーの栽培について勉強したい」と伝えたのですが、所長のDr.メイソンは、かなり気難しい人で。僕が話している最中に受話器を取ってスペイン語で何かを話したと思ったら、すぐに警備員がやってきて、外に放り出されてしまったんです(笑)。それでも諦めきれなくて、毎日研究所に通い、所長がくるたびにすがりついて「頼むから勉強させてくれ」と懇願しました。そしたら1か月後、「特別にお前の願いを叶えてやる」とお許しが出て、勉強させてもらえるようになったんですよ。
このときにDr.メイソンが紹介してくれたのが、後の僕の恩師で、当時新進気鋭の農学研究者だったアギレラ博士でした。アギレラ博士は、僕のためにコーヒーを体系的に学べるカリキュラムを組んでくれた。それだけでなく、研究所の地方支所に出張する際に僕も同行させてくれて、手伝いをさせてくれたり、どんな研究をしているのか話を聞かせてくれました。信じられないんですけど、授業料もなかったですからね。振り返ってみると、あんな幸運なことがあるのかというくらい幸運な日々でした。
川島:“コーヒーハンター”というニックネームは、自分でつけたわけではありません。マダガスカルで絶滅したと言われていたコーヒーの原種「マスカロコフェア」を探しに行き、マダガスカルのジャングルで2週間かけて発見したとき、現地の通訳が「You are Coffee Hunter!」と叫んだことがきっかけでした。
マダガスカルは、食べ物はおいしいけど、道が悪いんですよ。この国は日本の約1.6倍もあって、悪路のせいで移動に毎日10時間くらいかかかり、2週間、様々な山の中を歩き回りました。あるとき、橋が流されてしまい、いかだに四輪駆動車を乗せて川を渡ったこともありました。そんなことをやっていたので、コーヒーハンターとかコーヒーのインディジョーンズと言われるようになったんですよね。とにかくあの旅は過酷でした。だから、マスカロコフェアが見つかったときはとにかくうれしかったですし、「これぞ、コーヒーのロマン」と思いましたね。
川島:レユニオン島におけるコーヒーの起源は、1715年くらいにルイ14世の命令で苗を植えたことが始まりでした。そのコーヒの樹からすごく香りのいい「ブルボンポワントゥ」という突然変異種が生まれたのですが、今では絶滅したとされていたんです。エルサルバドル国立コーヒー研究所時代にその文献を読み、「自分の手で探し当てたい」と24年間思い続けていました。
その思いが1999年に結実し、ブルボンポワントゥを探しにレユニオン島へ訪れることができました。ところが、なかなか手掛かりがつかめずで。最終手段としてレユニオン県庁にアポなしで尋ねて、農務局長に直談判したところ、「何年前の話をしているんだ。この島にはコーヒーなんてない」と言われてしまいました。その言葉が癪に障った僕は、ホワイトボードに品種の相関図を書き、この島がどれほど今の世界のコーヒー栽培に影響を与えているか説明したんですよ。そしたらどんどん局長の顔色が変わって、一緒に探してくれることになったんです。
結局、僕が現地に滞在している期間内に見つけることはできなかったのですが、樹の特徴などを伝えて現地の方たちに捜索をお任せしたら、3か月後に「似ている樹が28本見つかったから、すぐに来てほしい」と連絡が来ました。そこですぐにレユニオン島へ飛び、現地で樹を確認したところ、何本かかなり文献に近いものがあったんです。その後、局長が頑張ってフランス政府から3億円の開発資金を引っ張り出してくれて、僕は技術担当に任命され、ブルボンポワントゥの再開発プロジェクトに携わることになりました。
現在も世界各地を巡って栽培指導を行うなど、コーヒーの第一線で活躍する川島さん。コーヒー一筋に生きるコーヒーハンターが、未来に向けて挑戦したいこととは?
川島:サステイナブルコーヒーをもっと世の中に広めたいです。今、「SDGs」が流行り言葉のようになっていますが、本来のサステイナビリティは、消費者と生産者がWin-Winの関係にならなければいけません。その前提で考えると、サステイナブルコーヒーの意味が、まだ世間にしっかりと伝わっていないように感じるんです。そして、最も重要なのは、品質に対する対価を払う市場を作ること。しかしながら、いまだにコーヒーは国際相場に振り回されているのが現状です。だから、今の市場がより品質に対する対価を払うような仕組みを作ることが、僕の使命だと考えています。
『BMW FREUDE FOR LIFE』では、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招いて話を 聞く。オンエアは毎週土曜11:00-11:30。公式サイトはこちら(https://www.j-wave.co.jp/original/freudeforlife/)。
(構成=小島浩平)
川島さんは1956年、静岡県生まれの66歳。18歳で中米に渡って以来、世界各地のコーヒー農園の開発や現地での技術指導、さらには絶滅危惧種の探索と幅広い活動を展開し、現在は自ら立ち上げたコーヒー専門企業「ミカフェート」の代表取締役を務める。
川島さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストはこちら
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
小学6年生の頃、ブラジルへの憧れから大使館に手紙を送る
夏の日差しを浴びながら走り出した、鮮やかなブルーの「BMW M340i xDrive」。シートに腰掛け、窓越しに流れる都心の景色に目をやりながら川島さんは、幼少期の記憶に思いを馳せる。静岡県の珈琲焙煎卸業の家に生まれた川島さん。子どもの頃、コーヒー豆が保管されている倉庫の中を遊び場としていた彼は、いつしかコーヒーが誕生した遥か遠い大地へと憧れを募らせていく。
川島:小学生の頃「コーヒーといえばブラジル」というイメージがあり、また、ラテン音楽が好きだったこともあって、「ブラジルのコーヒー園で働いてみたい」という思いが募るようになりました。親にもその意思を伝えたんですけど、もちろん「何を寝ぼけたことを言ってるんだ」と取り合ってもらえずで。ただ、僕は昔から行動に移さなければ気が済まない性分。小学6年生のとき、東京のブラジル大使館宛に「ブラジルへ行ってコーヒー園で働きたいから、相談に乗ってほしい」と書いた手紙を送ったんです。最初は返事が来なかったのですが、諦めきれず、もう1度手紙を書いたら返事が来て。でも、そこに書かれていたのは「日本政府に相談しなさい」という期待外れの言葉でした。その手紙は親に見つかり、「ふざけたことを言うんじゃない!」と、こっぴどく怒られたことを覚えています(笑)。
忘れられないお寺での修行体験
のちのコーヒーハンターが一度親に怒られたくらいで、諦めるはずもない――。その後も川島さんは、ブラジルや中南米への思いを両親に訴え続けたという。最終的にその夢を実現させたわけだが、気難しい父親を説得し、留学への道を切り開いてくれた恩人が二人いるそうだ。一人目は、旧東海道品川宿にある東海寺の大嶽和尚だった。川島:父と東海寺の大嶽和尚は幼馴染でした。初めてお会いしたのは、高校1年生のときの夏休み。一学期の終業式が終わった次の日、「静岡で夏休みを過ごしたところでお前はくだらないことしかしないだろうから、お寺に入れ」という父に東海寺へ連れられてこられて、「鍛えてくれ」と、和尚に預けられたんです。最初は嫌で嫌でしかたがありませんでしたが、和尚はすごい面白い人だったんですよ。
和尚は当時、お寺でお金のない5人の大学生に食・住を提供し、長期休みを利用してアルバイトをさせていました。彼らと一緒に僕は、毎朝5時半から30分座禅を組んで、その後、お寺の掃除を1時間していました。7時からは自由時間になるのですが、朝ご飯は抜きで、昼はご飯とお味噌汁だけ。夜はそれに少しおかずが付くくらいでした。ある日、僕だけ5時に起こされて、自転車に乗った竹刀をもったラグビー部の学生と一緒に、山手通りを走らされたこともありましたね(笑)。
厳しくも楽しい東海寺での夏休み。そんな日々の中で、大嶽和尚から送られた言葉が、川島さんの人生に小さくない影響を与えていく。
川島:東海寺にある古い茶室では一週間に一度、表千家の師範がお茶を教えに来ていたのですが、あるときから僕もそこで教えてもらえるようになったんです。勉強するようになったのは、和尚から「コーヒーの道に進みたいからといって、コーヒーだけを勉強すればいいってもんじゃない。日本の文化であるお茶も習いなさい」と促されたからでした。今思えば、あの人は常に「色んなものに興味を持ち、広い視野を持て」と、僕に教え続けてくれたような気がします。そんな和尚の話が、とにかく楽しくて。当初、東海寺には高校1年の夏休みだけ行く予定だったんですけど、長期休みの度に通うようになり、いつしかお寺が、僕にとって大事なよりどころになっていたんです。
あるとき、「父がなかなか中南米に行かせてくれない」と和尚に相談したら、「もっと自分の意志をしっかり持て」と諭されたことがありました。でも、僕にはそう言いつつ、和尚は裏でこっそり「あいつは世界に羽ばたかせてやれ」と、父を説得してくれていたみたいなんです。そんな和尚の後押しもあって、高校2年のとき、メキシコへ留学する話が出たんですよ。
もう一人の恩人・ベネケ大使
思い出話をしているうちに「BMW M340i xDrive」は、有楽町駅前にある電気ビルへと到着。このビルは、もう一人の恩人との出会いの場所なのだという。川島:高校2年のとき、中米ミッションを終えて帰国した父から「メキシコの自治大学に行かないか」と提案されました。当時僕はメキシコの自治大学のことも、メキシコのことも知りませんでしたが、「中南米に行けるんだったら、もう喜んでいきます!」と乗り気でした。ちなみに中米ミッションは、エルサルバドル大使館が日本のコーヒー屋さんを集めて、中米のコーヒーを知ってもらうために実施した使節であり、そこで父とベネケ大使は知り合ったようです。
そのベネケ大使に、メキシコの大学へ行くための相談に乗ってもらおうと、静岡から父とともに、当時、有楽町電気ビルに入っていたエルサルバドル大使館を訪問しました。大使の第一印象は、「めちゃくちゃ豪快な人」。父が「メキシコの自治大学に息子を行かせたい」と切り出したら、「なんでメキシコに行くんだ! 俺の国に来い」と言われ、そこから、大学を手配しよう、ホームステイ先は自分の妹の家にしよう……といった具合にどんどん決めちゃうんですよ(笑)。急展開に圧倒されつつ帰宅後、父が事のあらましを母に話したら「大使がそこまでしてくれるなら……」と、すんなり両親ともにエルサルバドル留学をOKしてくれたんです。だいぶたってから、父が亡くなる前に「あのとき、よく許してくれたね」と聞いたら、「勢いで飲まれてしまったんだ」と話していました(笑)。
エルサルバドルでの幸運な学びの日々
ベネケ大使は、28歳の若さで教育大臣を務め、8カ国語を操る国家的エリート。その口利きで、エルサルバドルの首都サンサルバドルの大学に通うことになったのだが、川島さんは大学よりはるかに魅力的な場所を探し当ててしまう。それは、エルサルバドル国立コーヒー研究所だった。川島:あの頃はまだ、今みたいにセキュリティが厳しい時代ではありませんでした。そのため、エルサルバドル国立コーヒー研究所に訪れて、いきなり飛び込みで「所長に会わせてほしい」とお願いしたらすぐに会わせてくれたんですよ。所長室に通されて「僕はコーヒー屋の息子で、ここでコーヒーの栽培について勉強したい」と伝えたのですが、所長のDr.メイソンは、かなり気難しい人で。僕が話している最中に受話器を取ってスペイン語で何かを話したと思ったら、すぐに警備員がやってきて、外に放り出されてしまったんです(笑)。それでも諦めきれなくて、毎日研究所に通い、所長がくるたびにすがりついて「頼むから勉強させてくれ」と懇願しました。そしたら1か月後、「特別にお前の願いを叶えてやる」とお許しが出て、勉強させてもらえるようになったんですよ。
このときにDr.メイソンが紹介してくれたのが、後の僕の恩師で、当時新進気鋭の農学研究者だったアギレラ博士でした。アギレラ博士は、僕のためにコーヒーを体系的に学べるカリキュラムを組んでくれた。それだけでなく、研究所の地方支所に出張する際に僕も同行させてくれて、手伝いをさせてくれたり、どんな研究をしているのか話を聞かせてくれました。信じられないんですけど、授業料もなかったですからね。振り返ってみると、あんな幸運なことがあるのかというくらい幸運な日々でした。
“コーヒーハンター”と呼ばれるようになった理由
川島さんはあとから知ったそうだが、エルサルバドルの国立コーヒー研究所は、コーヒーに関しては世界のトップ3に入る重要で権威ある研究所なのだとか。ここで学んだコーヒーの基礎知識と経験が活き、いよいよコーヒーハンターとして、その名を轟かせることになる。川島:“コーヒーハンター”というニックネームは、自分でつけたわけではありません。マダガスカルで絶滅したと言われていたコーヒーの原種「マスカロコフェア」を探しに行き、マダガスカルのジャングルで2週間かけて発見したとき、現地の通訳が「You are Coffee Hunter!」と叫んだことがきっかけでした。
マダガスカルは、食べ物はおいしいけど、道が悪いんですよ。この国は日本の約1.6倍もあって、悪路のせいで移動に毎日10時間くらいかかかり、2週間、様々な山の中を歩き回りました。あるとき、橋が流されてしまい、いかだに四輪駆動車を乗せて川を渡ったこともありました。そんなことをやっていたので、コーヒーハンターとかコーヒーのインディジョーンズと言われるようになったんですよね。とにかくあの旅は過酷でした。だから、マスカロコフェアが見つかったときはとにかくうれしかったですし、「これぞ、コーヒーのロマン」と思いましたね。
24年間追い求めてきたコーヒーの樹を捜索
エルサルバドル国立コーヒー研究所を離れた後、川島さんは、その知識と経験をUCC上島珈琲の創業者に見出されて、同社へ入社した。会社員としてUCC上島珈琲のジャマイカ農園をはじめ、世界各地の農園を開発する一方、研究所時代に文献で目にしたフランス領・レユニオン島生まれの希少なコーヒーの樹のことが、長年、頭から離れなかったようだ。川島:レユニオン島におけるコーヒーの起源は、1715年くらいにルイ14世の命令で苗を植えたことが始まりでした。そのコーヒの樹からすごく香りのいい「ブルボンポワントゥ」という突然変異種が生まれたのですが、今では絶滅したとされていたんです。エルサルバドル国立コーヒー研究所時代にその文献を読み、「自分の手で探し当てたい」と24年間思い続けていました。
その思いが1999年に結実し、ブルボンポワントゥを探しにレユニオン島へ訪れることができました。ところが、なかなか手掛かりがつかめずで。最終手段としてレユニオン県庁にアポなしで尋ねて、農務局長に直談判したところ、「何年前の話をしているんだ。この島にはコーヒーなんてない」と言われてしまいました。その言葉が癪に障った僕は、ホワイトボードに品種の相関図を書き、この島がどれほど今の世界のコーヒー栽培に影響を与えているか説明したんですよ。そしたらどんどん局長の顔色が変わって、一緒に探してくれることになったんです。
結局、僕が現地に滞在している期間内に見つけることはできなかったのですが、樹の特徴などを伝えて現地の方たちに捜索をお任せしたら、3か月後に「似ている樹が28本見つかったから、すぐに来てほしい」と連絡が来ました。そこですぐにレユニオン島へ飛び、現地で樹を確認したところ、何本かかなり文献に近いものがあったんです。その後、局長が頑張ってフランス政府から3億円の開発資金を引っ張り出してくれて、僕は技術担当に任命され、ブルボンポワントゥの再開発プロジェクトに携わることになりました。
コーヒーハンターが考える、これからの使命
絶滅種であるブルボンポワントゥの発見によって、長い間途絶えていたコーヒー産業が再びレユニオン島で復活。この功績により川島さんは、海外のコーヒー関係者から「ムッシュ・ブルボン」と呼ばれることもあるようだ。現在も世界各地を巡って栽培指導を行うなど、コーヒーの第一線で活躍する川島さん。コーヒー一筋に生きるコーヒーハンターが、未来に向けて挑戦したいこととは?
川島:サステイナブルコーヒーをもっと世の中に広めたいです。今、「SDGs」が流行り言葉のようになっていますが、本来のサステイナビリティは、消費者と生産者がWin-Winの関係にならなければいけません。その前提で考えると、サステイナブルコーヒーの意味が、まだ世間にしっかりと伝わっていないように感じるんです。そして、最も重要なのは、品質に対する対価を払う市場を作ること。しかしながら、いまだにコーヒーは国際相場に振り回されているのが現状です。だから、今の市場がより品質に対する対価を払うような仕組みを作ることが、僕の使命だと考えています。
『BMW FREUDE FOR LIFE』では、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招いて話を 聞く。オンエアは毎週土曜11:00-11:30。公式サイトはこちら(https://www.j-wave.co.jp/original/freudeforlife/)。
(構成=小島浩平)
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渡辺 祐 / 山田玲奈