ナビゲーターやタレントとして活躍するジョン・カビラが、自身のキャリアについて語った。
ジョン・カビラが登場したのは、J-WAVEで放送中の番組『ORIENT STAR TIME AND TIDE』(ナビゲーター:市川紗椰、槙野智章)。オンエアは8月10日(土)。ポッドキャストでも楽しめる。
市川:開局とともにいらっしゃるということで、我々ナビゲーターの大先輩です。長くナビゲーターを務める中、振り返ってみて「結局ここを大切にしているな」というのはありますか?
ジョン・カビラ:スタッフのみなさんと楽しむことですかね。まずは自分が楽しむ。でも楽しむために最低限しなければならない、いろいろな調べごとや準備をした上で、その楽しむ環境プラス、スタッフのみなさんも楽しんでいただける環境ですね。
槙野:その楽しむ姿勢みたいなのは最初からできていたのですか?
ジョン・カビラ:性格かもしれません。沖縄生まれで小さいころは首里の寒川町というところにいて、そこはわりと住宅街でしたが、その後、移転したらポツンと一軒家状態になってしまって。そうすると3兄弟で「どっちが面白い話ができるか」みたいな、一緒に濃密な時間を作るんです。「今日は学校でこんなことがあった」と競い合うみたいな感じ。「いつも楽しくやりたいよね」というのは、そこからきているかもしれません。
槙野:1つのテーマでディベートする、みたいなのはそのときから?
ジョン・カビラ:「ああでもない、こうでもない」というのがあって。母親が社会科の教師なんですよ。父が留学した先のアメリカから連れて日本に戻って来て、沖縄で結婚してそこで3人の子どもをもうけました。だから母親も議論好きですが、議論好きの母親をしても「もう、みんなうるさい! 夕飯のあいだぐらいは静かにしなさい」って、そんな毎日でした。濃密な沖縄の小学校から中学時代でした。
槙野:素敵な家族ですね。
市川:そこから東京にはいつ?
ジョン・カビラ:1972年の本土復帰で父の仕事が変わって、それで家族がそのまま東京にという。それ以来なので沖縄に対する想いはあれど、もう期間的には東京が圧倒的に長いです。
ジョン・カビラ:J-WAVEでの仕事が始まって2年目ぐらいのときですかね。高校の先輩との同窓会みたいな小さな会で一言言われました。「ジョン・カビラ、楽な仕事だよな。喋っているだけだろ」とニコニコしながら言われました。責めたり蔑んだりするような形ではなくて、笑いながら。膝を打ちましたよ。「そうか、僕はめちゃくちゃ単純な仕事をしているんだ。でも単純だからこそ難しいし、きっと価値がある」と。人間ほぼみなさん喋るわけですよね。だから喋るということを職業にさせてもらっているのは、実はありなんじゃない? 価値があるんじゃない? だからこそ難しいんじゃない? と、ドンと胸にくる言葉でした。当然、彼は冗談で言っているわけですよ。「なに調子こいているんだ」みたいな、たぶんですが。僕は一瞬「ん?」と思いましたが「いや、そうだな」と思って。だからこそ「ちょっと待てよ」的な、いまだに忘れられないですね。
槙野:それを言われて、自分の中で変えたことはありますか?
ジョン・カビラ:だからこそ正確に伝えないといけないし、聴いてくださっているみなさんの時間の価値を上げなきゃいけない。リスナー体験というものの価値を上げないと、やっている意味がないなと。
ジョン・カビラはさらに、ウディ・アレン、ダイアン・キートン出演の映画『アニー・ホール』でのあるシーンを取り上げた。登場人物が名門のスポーツクラブに入れたことを喜んだものの、スポーツクラブに入れたことがうれしいのではなく「名門スポーツクラブに入った実績」を求めていたことに気づく、という場面だ。
ジョン・カビラ:こういう考え方があるんだ、人間はこんなに俯瞰できるんだと。大学生なので若いから「自分が自分が」でいっぱいじゃないですか。でも俯瞰して「俺は実はスポーツクラブの価値以前に、承認してほしい俺がいるということに気づいた」みたいな。それに「おお……!」というのもありました。
市川:客観視する感じですね。
ジョン・カビラ:「自分が自分でいっぱいになっていないか、気をつけろ!」、みたいな。『アニー・ホール』の中の一文と、高校の先輩の「喋っているだけじゃん」という、これは残っていますね。
槙野:それはジョン・カビラさんがいくつのときですか?
ジョン・カビラ:『アニー・ホール』が20歳前後で、「喋っているだけじゃん」は31、32歳ぐらいでしょうか。
槙野:その言葉は自分的にはよかったなと思いますか?
ジョン・カビラ:よかったなと思います。一瞬もちろんムッとはしました。いやだって、俺はこれで食べているんだよと。真剣にやっているし、会社員の立場からこの世界に飛び込んだんだから、それなりの思いでやっていますが、「ちょっと待て」と、自分が自分でいっぱいになっていないか、という感じでした。
ジョン・カビラはソニーレコードの社員からDJへ転身する際の心境について振り返った。
市川:レコード会社からDJになるときは、飛び込むような感じだったんですか?
ジョン・カビラ:飛び込みですよね。だって、基本的に会社員は安定していますし、ありがたいことにそこそこの評価もいただいていて。でも、燃え尽き症候群になってしまって。いろいろなプロジェクトがあって、うまくいくんですけど、ある日、20代後半のカビラは、非常に失礼なことに、先輩を見て、その先輩の上司を見て「うまくいったとしても、僕が行きつく先はラッキーでもあの部長か」「めっちゃラッキーでも取締役? でも仕事の内容って充実しているかな」と。勘違いも甚だしいんですけど、ある日、「あれ?」と思ってしまったんです。それで月曜日に求人欄が載っているジャパンタイムズを買って広げながら見ていて「どうしよう」と思っていたその週に、お声がけをいただきました。
市川:沖縄出身のカビラさんですが、2025年は戦後80年の節目です。お父さまが戦後沖縄で琉球放送の初代アナウンサーを務められました。こういう放送に携わるものとして、どういったメッセージを意識されていますか?
ジョン・カビラ:重いテーマですよね。終戦、敗戦という表現も実はあります。沖縄で生まれているのですが、父は実は占領下にあった台湾で生まれ育って、戦争が終わって初めて沖縄に足を降ろしました。アメリカの軍が占領地の若者に、アメリカで教育を受ける機会を設けるために「ガリオア」という奨学金制度を作って。その奨学金をいただいてアメリカに渡り、そこでカンザス州出身の母と知り合い、結婚の約束をして、沖縄に戻って結婚して、川平家3兄弟をもうけました。
ジョン・カビラは「なんという複雑な構図」と父親の人生について語った。
ジョン・カビラ:戦争に巻き込まれて焼け野原だった沖縄に降り立った父。でもその復興のために奨学金をもらい、放送の勉強をする。放送の会社を立ち上げているほか、実は修士論文で修士号をとっています。「沖縄の復興には放送が不可欠だ」と、私の叔父の想いが託された留学ではあったんです。あってはならない戦争、そしてとてつもない被害の沖縄、その復興に放送が必要だという信念のもと帰ってきて今に至ります。もちろん引退して、かなり時間が経っていますが、ありがたいことに、そのときの想いを放送の内容として収めることができました。ありがたいことにギャラクシー賞も受賞させていただきました。
ジョン・カビラが、ギャラクシー賞を受賞した父・川平朝清をインタビューした番組『J-WAVE SELECTION GENERATION TO GENERATION ~STORIES OF OKINAWA~』は、現在ポッドキャストで聴取することができる。
【記事はこちら】戦後の沖縄でラジオが必要だった理由―父・川平朝清から息子 ジョン・カビラへ語り継ぐ
ジョン・カビラ:ポッドキャストでは、実は放送に乗らなかった内容も。要するにすべてで、長尺にはなってしまいますが、いわゆるアーカイブ的な内容もあります。ここで私がお話するよりも、お時間が許せば(聴いてみてください)。沖縄が翻弄されてきたという話ですが、そこに1人の男として復興に携わったのはどんな想いなのか、ということにぜひとも触れていただければと思います。
ジョン・カビラはリスナーへ、親や祖父母の世代に、当時について尋ねてほしいと訴えかけた。
ジョン・カビラ:おじいちゃん、おばあちゃん、若い方ですとひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん。まだ話が聞けるという方々はいらっしゃると思います。「話したくない」という方も多いかもしれませんが、「どうだったの?」と。戦争のことは知らない、戦後生まれだけれども、戦後の混乱期は見ているとか、あとはもっと身近は話で「高度成長期ってどうだったの?」という話も聞くと、すごく価値があると思います。夏の終戦の日、敗戦の日ですが、こういった機会は悲しい機会ですが、学べる機会なのかなと思っています。僕も父からよく話を聞いているつもりではありますが、また改めて「実際はどうだったの?」という。
市川:8月はいろいろなことを考えるきっかけになります。我々も歴史に翻弄されている沖縄について考えるのも大切だなと、お話を伺って思いました。
ジョン・カビラ:想いを寄せるときがあれば、ありがたいです。
ゲストのバリエーションの豊かさが、本番組の特徴だ。例えば映画監督だと、『ゴジラ-1.0』が世界的大ヒットを記録した山崎 貴監督が登場。「本当に恐いゴジラ」を再現したCG/VFX技術などについて話を聞いた。
料理人では、南インド料理店「エリックサウス」の稲田俊輔さんが登場。飲食店のプロデュースも手がける稲田さんには、自身の歩みのほか、食のトレンドを質問。「若い層ほど食に対して保守的になってきてしまっている」という現状や、人気が出やすいジャンルなど、プロならではのトークで盛り上がった。
8月17日(土)のオンエアでは、シシド・カフカが登場。8月24日まで、radikoで聴取可能だ。
ジョン・カビラが登場したのは、J-WAVEで放送中の番組『ORIENT STAR TIME AND TIDE』(ナビゲーター:市川紗椰、槙野智章)。オンエアは8月10日(土)。ポッドキャストでも楽しめる。
子どもの頃から「議論」を楽しんでいた
ジョン・カビラは沖縄生まれ。国際基督教大学(ICU)在学中にカルフォルニア大学バークレー校に留学。卒業後、現在のソニーレコードに入社。1988年J-WAVEの開局と同時にナビゲーターの道へ。スポーツ番組や情報番組のMC、ナレーター、さらにCM、サッカーゲームの実況など、幅広いフィールドで活躍している。市川:開局とともにいらっしゃるということで、我々ナビゲーターの大先輩です。長くナビゲーターを務める中、振り返ってみて「結局ここを大切にしているな」というのはありますか?
ジョン・カビラ:スタッフのみなさんと楽しむことですかね。まずは自分が楽しむ。でも楽しむために最低限しなければならない、いろいろな調べごとや準備をした上で、その楽しむ環境プラス、スタッフのみなさんも楽しんでいただける環境ですね。
槙野:その楽しむ姿勢みたいなのは最初からできていたのですか?
ジョン・カビラ:性格かもしれません。沖縄生まれで小さいころは首里の寒川町というところにいて、そこはわりと住宅街でしたが、その後、移転したらポツンと一軒家状態になってしまって。そうすると3兄弟で「どっちが面白い話ができるか」みたいな、一緒に濃密な時間を作るんです。「今日は学校でこんなことがあった」と競い合うみたいな感じ。「いつも楽しくやりたいよね」というのは、そこからきているかもしれません。
槙野:1つのテーマでディベートする、みたいなのはそのときから?
ジョン・カビラ:「ああでもない、こうでもない」というのがあって。母親が社会科の教師なんですよ。父が留学した先のアメリカから連れて日本に戻って来て、沖縄で結婚してそこで3人の子どもをもうけました。だから母親も議論好きですが、議論好きの母親をしても「もう、みんなうるさい! 夕飯のあいだぐらいは静かにしなさい」って、そんな毎日でした。濃密な沖縄の小学校から中学時代でした。
槙野:素敵な家族ですね。
市川:そこから東京にはいつ?
ジョン・カビラ:1972年の本土復帰で父の仕事が変わって、それで家族がそのまま東京にという。それ以来なので沖縄に対する想いはあれど、もう期間的には東京が圧倒的に長いです。
先輩から言われた一言
続いて時をさかのぼり「過去」について話を聞く。ジョン・カビラが人生の転機となったエピソードを語った。ジョン・カビラ:J-WAVEでの仕事が始まって2年目ぐらいのときですかね。高校の先輩との同窓会みたいな小さな会で一言言われました。「ジョン・カビラ、楽な仕事だよな。喋っているだけだろ」とニコニコしながら言われました。責めたり蔑んだりするような形ではなくて、笑いながら。膝を打ちましたよ。「そうか、僕はめちゃくちゃ単純な仕事をしているんだ。でも単純だからこそ難しいし、きっと価値がある」と。人間ほぼみなさん喋るわけですよね。だから喋るということを職業にさせてもらっているのは、実はありなんじゃない? 価値があるんじゃない? だからこそ難しいんじゃない? と、ドンと胸にくる言葉でした。当然、彼は冗談で言っているわけですよ。「なに調子こいているんだ」みたいな、たぶんですが。僕は一瞬「ん?」と思いましたが「いや、そうだな」と思って。だからこそ「ちょっと待てよ」的な、いまだに忘れられないですね。
槙野:それを言われて、自分の中で変えたことはありますか?
ジョン・カビラ:だからこそ正確に伝えないといけないし、聴いてくださっているみなさんの時間の価値を上げなきゃいけない。リスナー体験というものの価値を上げないと、やっている意味がないなと。
ジョン・カビラはさらに、ウディ・アレン、ダイアン・キートン出演の映画『アニー・ホール』でのあるシーンを取り上げた。登場人物が名門のスポーツクラブに入れたことを喜んだものの、スポーツクラブに入れたことがうれしいのではなく「名門スポーツクラブに入った実績」を求めていたことに気づく、という場面だ。
ジョン・カビラ:こういう考え方があるんだ、人間はこんなに俯瞰できるんだと。大学生なので若いから「自分が自分が」でいっぱいじゃないですか。でも俯瞰して「俺は実はスポーツクラブの価値以前に、承認してほしい俺がいるということに気づいた」みたいな。それに「おお……!」というのもありました。
市川:客観視する感じですね。
ジョン・カビラ:「自分が自分でいっぱいになっていないか、気をつけろ!」、みたいな。『アニー・ホール』の中の一文と、高校の先輩の「喋っているだけじゃん」という、これは残っていますね。
槙野:それはジョン・カビラさんがいくつのときですか?
ジョン・カビラ:『アニー・ホール』が20歳前後で、「喋っているだけじゃん」は31、32歳ぐらいでしょうか。
槙野:その言葉は自分的にはよかったなと思いますか?
ジョン・カビラ:よかったなと思います。一瞬もちろんムッとはしました。いやだって、俺はこれで食べているんだよと。真剣にやっているし、会社員の立場からこの世界に飛び込んだんだから、それなりの思いでやっていますが、「ちょっと待て」と、自分が自分でいっぱいになっていないか、という感じでした。
ジョン・カビラはソニーレコードの社員からDJへ転身する際の心境について振り返った。
市川:レコード会社からDJになるときは、飛び込むような感じだったんですか?
ジョン・カビラ:飛び込みですよね。だって、基本的に会社員は安定していますし、ありがたいことにそこそこの評価もいただいていて。でも、燃え尽き症候群になってしまって。いろいろなプロジェクトがあって、うまくいくんですけど、ある日、20代後半のカビラは、非常に失礼なことに、先輩を見て、その先輩の上司を見て「うまくいったとしても、僕が行きつく先はラッキーでもあの部長か」「めっちゃラッキーでも取締役? でも仕事の内容って充実しているかな」と。勘違いも甚だしいんですけど、ある日、「あれ?」と思ってしまったんです。それで月曜日に求人欄が載っているジャパンタイムズを買って広げながら見ていて「どうしよう」と思っていたその週に、お声がけをいただきました。
「沖縄の復興には放送が不可欠だ」
続いて未来について。ジョン・カビラは生まれ故郷の沖縄への想いを語った。市川:沖縄出身のカビラさんですが、2025年は戦後80年の節目です。お父さまが戦後沖縄で琉球放送の初代アナウンサーを務められました。こういう放送に携わるものとして、どういったメッセージを意識されていますか?
ジョン・カビラ:重いテーマですよね。終戦、敗戦という表現も実はあります。沖縄で生まれているのですが、父は実は占領下にあった台湾で生まれ育って、戦争が終わって初めて沖縄に足を降ろしました。アメリカの軍が占領地の若者に、アメリカで教育を受ける機会を設けるために「ガリオア」という奨学金制度を作って。その奨学金をいただいてアメリカに渡り、そこでカンザス州出身の母と知り合い、結婚の約束をして、沖縄に戻って結婚して、川平家3兄弟をもうけました。
ジョン・カビラは「なんという複雑な構図」と父親の人生について語った。
ジョン・カビラ:戦争に巻き込まれて焼け野原だった沖縄に降り立った父。でもその復興のために奨学金をもらい、放送の勉強をする。放送の会社を立ち上げているほか、実は修士論文で修士号をとっています。「沖縄の復興には放送が不可欠だ」と、私の叔父の想いが託された留学ではあったんです。あってはならない戦争、そしてとてつもない被害の沖縄、その復興に放送が必要だという信念のもと帰ってきて今に至ります。もちろん引退して、かなり時間が経っていますが、ありがたいことに、そのときの想いを放送の内容として収めることができました。ありがたいことにギャラクシー賞も受賞させていただきました。
ジョン・カビラが、ギャラクシー賞を受賞した父・川平朝清をインタビューした番組『J-WAVE SELECTION GENERATION TO GENERATION ~STORIES OF OKINAWA~』は、現在ポッドキャストで聴取することができる。
【記事はこちら】戦後の沖縄でラジオが必要だった理由―父・川平朝清から息子 ジョン・カビラへ語り継ぐ
ジョン・カビラ:ポッドキャストでは、実は放送に乗らなかった内容も。要するにすべてで、長尺にはなってしまいますが、いわゆるアーカイブ的な内容もあります。ここで私がお話するよりも、お時間が許せば(聴いてみてください)。沖縄が翻弄されてきたという話ですが、そこに1人の男として復興に携わったのはどんな想いなのか、ということにぜひとも触れていただければと思います。
ジョン・カビラはリスナーへ、親や祖父母の世代に、当時について尋ねてほしいと訴えかけた。
ジョン・カビラ:おじいちゃん、おばあちゃん、若い方ですとひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん。まだ話が聞けるという方々はいらっしゃると思います。「話したくない」という方も多いかもしれませんが、「どうだったの?」と。戦争のことは知らない、戦後生まれだけれども、戦後の混乱期は見ているとか、あとはもっと身近は話で「高度成長期ってどうだったの?」という話も聞くと、すごく価値があると思います。夏の終戦の日、敗戦の日ですが、こういった機会は悲しい機会ですが、学べる機会なのかなと思っています。僕も父からよく話を聞いているつもりではありますが、また改めて「実際はどうだったの?」という。
市川:8月はいろいろなことを考えるきっかけになります。我々も歴史に翻弄されている沖縄について考えるのも大切だなと、お話を伺って思いました。
ジョン・カビラ:想いを寄せるときがあれば、ありがたいです。
ゲストの歩みを深堀り
ゲストの過去・現在・未来に市川紗椰と槙野智章が迫る、J-WAVE『ORIENT STAR TIME AND TIDE』の放送は毎週土曜日の21時から。また、ポッドキャストでも配信中だ。ゲストのバリエーションの豊かさが、本番組の特徴だ。例えば映画監督だと、『ゴジラ-1.0』が世界的大ヒットを記録した山崎 貴監督が登場。「本当に恐いゴジラ」を再現したCG/VFX技術などについて話を聞いた。
料理人では、南インド料理店「エリックサウス」の稲田俊輔さんが登場。飲食店のプロデュースも手がける稲田さんには、自身の歩みのほか、食のトレンドを質問。「若い層ほど食に対して保守的になってきてしまっている」という現状や、人気が出やすいジャンルなど、プロならではのトークで盛り上がった。
8月17日(土)のオンエアでは、シシド・カフカが登場。8月24日まで、radikoで聴取可能だ。
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