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濃厚でおいしいイカ、その内臓をご飯にかけて…青森県の八戸市・十和田市の食文化・歴史を紹介

(画像素材:PIXTA)

濃厚でおいしいイカ、その内臓をご飯にかけて…青森県の八戸市・十和田市の食文化・歴史を紹介

青森県の八戸市・十和田市に関する歴史や魅力、独自の風習について、作家・文献学者の山口謠司さんが語った。

山口さんが登場したのは、J-WAVE『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは9月18日(月)~21日(木)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容をテキストで紹介。

また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが青森を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。

・ポッドキャストページ

八戸で有名な「イカ釣り」味わいは濃厚

今回のテーマは、本州の最北端に位置する青森県。その中でも山口さんは県内の東にある八戸市と十和田市をテーマにあげた。まず、八戸は太平洋に面し、漁業が盛んな地域として知られている。

その中でも有名なのは「イカ釣り」だ。山口さんが港を訪れると、漁船が並んでいて、特に夏は「スルメイカ」が近海でたくさん獲れると教えてもらったという。

山口:八戸港からすぐのところに蕪島海水浴場という場所があります。海水はものすごい濃く、昆布の味がしました。透明度はゼロです。多くのウミネコが鳴いていました。
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山口謠司コメント:太平洋を越えれば、アメリカ合衆国に行ける! イカはアメリカまで行く?

その近くの港で獲れるのが「スルメイカ」。八戸の方々は「生真イカ」と呼ぶそうです。新鮮なとれたての真イカというのを表しているのです。

八戸では新鮮な獲れたてイカの旨みを熟成させた「塩辛」も有名だ。戦後間も無く、日本で食べるものがなかった時代、イカを釣って加工品にして、全国に出荷していたそうだ。

山口:八戸でいただくイカは、ものすごく濃厚な味がします。食べていて、甘さが口の中に広がる感じです。色もイワシの銀色の鱗のような、燻銀(いぶしぎん)の中に茶色い光が滲み出てくるような感じ。ご飯にのせて食べたら、そのままイカの塩辛を食べているかのような、濃厚な味です。

八戸では、イカの内臓をたくさん食べるそうで、イカの内臓のことを「ゴロ」と呼ぶそうです。お料理が上手な方はイカの中にするっと手を入れて、内臓と骨を引きずり出すそうです。それを塩辛のようにして、ご飯にかけてズズズッと食す。ここでしか楽しめない味がします。

南部せんべいはお鍋にも入れる

山口さんが言うには、八戸港の近くには、今でも製氷会社がたくさんあるそうだ。イカの塩辛屋も並んでいるという。

一方で、八戸では広く食べられている「南部せんべい」も有名だ。小麦粉を水で練って、少しだけ塩を加えて、鉄器の焼型で焼いたものだ。

山口:これ、プレーンなものはほとんど味がしません。しかしポリポリ食べていると、不思議なのですが、いつまででも食べられる気がします。

しかし、今ではその味付けもバリエーション豊かです。「バニラ」「ごま」「ピーナッツバター」「エビ入り」などなど、たくさん味が用意されています。ですが、基本はプレーンが売れているそうです。

なぜ、プレーンが売れるかというと、お鍋を作ったときに、八戸の方は南部せんべいを鍋の中に放り込むんですね。もちろん形はぐずぐずになって壊れるんですが、うどんを作るのも小麦粉ですから、そういう意味では一緒かもしれません。

ウミネコの鳴き声を聞きながら、釣ったばかりのイカそうめん、南部せんべいをボリボリ食べるというのが、八戸ならではの食文化のようだ。

青森の地名と十和田ホテルの歴史

岩手から青森にかけて一戸から九戸までの地名があるが(四戸だけ存在しない)、山口さんは平安時代の後期につけられた地名だという。この「戸」は「戸籍」を意味するそうだ。

山口:戸籍が作られたのは平安時代の末期なんですが、一説によると、一戸というのは、「50のファミリーが住んでいる家」を意味したそうです。

それをひとつの里として考え、岩手県の南の方から、青森県に向かって人の集まりがあるところを「一戸」などと数えたのがそのまま残っているそうです。

十和田湖から1時間ほど、西北に行ったところに「変わった地名があります」と山口さんは言う。それが「田舎館村」だ。

山口:ここはすごく重要で、実は東北、特に青森で紀元前の時代に稲作が行われていた証拠を表す、非常に有名な場所なんです。
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山口謠司コメント:バッタも、稲作と一緒に渡ってきたのでしょうか、それともバッタも昔からいたのかなぁ。

九州に稲作が伝わったのは紀元前1000年くらいと言われています。九州に入ってきた稲作がどこまで北に伝わったのかを調べるときに、青森まで辿り着いていたと証明されたのが、「垂柳」という場所なんです。 籾殻をついた土器を発見したのが、仙台出身の東北大学の先生。それよりも前に秋田県の大潟村で籾殻のついた土器が出てきて、「もっと北にあるに違いない」という仮説のもと、しばらくして田舎館村で出現したそうです。

山口さんは青森県と秋田県にまたがる十和田湖にも訪れたそうだ。

山口:昭和13年(1938年)に建てられた「県営十和田ホテル」というところがございます。現在は「十和田ホテル」という名称です。当時は秋田県営のホテルで、秋田杉を使った造りとなっていて、皇族の方々もいらっしゃったそうです。

本当は一番最初に「東京五輪」を開こうとしたときに、外国の要人を呼ぼうと作ったのが「十和田ホテル」だと言われています。
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山口謠司コメント:十和田湖にはたくさんの小さな魚、エビも泳いでいました。ぼくも一緒に泳いできました。

青森独自の文化の歴史

山口さんは“古代青森人”をテーマに「縄文時代に生きた人」について話した。九州に伝わった稲作文化が青森にやってきていて、田舎館村で、水田が作られていたことが明らかになっているが、青森人はこの水田文化を間も無く放棄してしまったそうだ。

山口:面白いことが日本書紀に書いてあります。650〜700年、遣唐使として唐に行った日本人が、唐の皇帝に「日本にはどういう部族がいるの?」と聞かれたそうです。そうすると、その遣唐大使は「津軽というところがあります。我々がやっている律令体制にまったく従わないんです。我々は文明国家で米を作っている。しかし津軽の人々はいくら米を作れと言っても作らないんです」と言ったそうです。

日本というのは律令制度ができて、明治時代になるまで、ずっと稲作文化で国家を作っていくわけですけど、我々は日本といえば、稲作文化が広がっていて、律令体制も天皇の主権がずっとあって、そういう文化圏にいたんだと認識していました。しかし、そうではない文化圏が青森には広がっていたと言えそうです。

それから、山口さんは「知ることに対する畏敬」というテーマで話を始めた。

山口:現代人の我々は知識・情報を大事にしています。インフォメーションをかき集めて、博識であることは重要なことだと多くの人が認識していると思いますが、「インフォーム(inform)」というのは「形の中に何かを入れていく」ことを意味しています。

そういう意味では知識も「塊」のような感じというか。情報をカプセルのようにして、自分の頭の中に溜め込んで、喋るときにも理路整然とその情報を流していくと「頭いい・すごいな」となります。しかし、縄文人が稲作文化に頼らないことで幸せな時間を送っていたとしたら、彼らはそういう知識を必要としない人だったのではと思うんです。

お米というのは籾殻の中に種が入っていて、我々はその種を食べている。山口さんは「お米はインフォメーションと同じ形をしている」と指摘する。

山口:殻の中に種が入っていて、その殻をもいで、炊いて、体の中に入れていくわけです。我々の情報の取り入れ方は、それとまったく同じ感じがします。

縄文人の方々は恐らく「あるものをそのままいただく」そういうことを思っていたんじゃないかと。神道というのは「八百万(やおよろず)の神」を畏敬の対象にしているんですけど、ありのままをあるがままに自分の体の中に受け入れていくような感じ。そんなことを思っていただくのが、神道の人たちのご飯の食べ方なのかなと思います。
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山口謠司コメント:奥入瀬にて。小さな葉っぱを見ていると、「命」を感じます。

だとしたら縄文人というのも、同じようにご飯を体の中に入れていったんじゃないかなと思うんです。そのありがたさを忘れないために、古代の青森人の方々は「お米はいらない」と言って、稲作文化を捨てたのではと考えたりもしました。

J-WAVEで放送中の番組『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」は、月曜から木曜の15:10~15:20にオンエア。

(構成=中山洋平)

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