神奈川県に関する歴史や魅力、独自の風習について、作家・文献学者の山口謠司さんが語った。
山口さんが登場したのは、J-WAVE『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは5月1日(月)~3日(水)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが神奈川を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
山口:落花生はマメ科の植物で、ツルを伸ばしていきます。ツルの先に花が咲くんですけど、その花が萎れるようにして土に向かって垂れていくんだそうです。そして土に落ちると、その花の先にピーナッツがなるんですね。
5月の連休明けに落花生の苗を植えると、だいたい8月15日、お盆くらいにピーナッツができるそうです。そのまま放っておくとそのピーナッツから苗ができるそうなんですけど、すぐに引っこ抜いて、カラカラに乾燥させると、我々が普段食べているピーナッツになります。大磯のあたりでは新鮮なピーナッツができると、塩茹でにして食べるそうです。ぜひ、お盆過ぎくらいに行ってみられるといいと思います。
山口:伊藤博文の奥様は肺が悪かったそうです。そんな中、小田原に療養所があり、医者に勧められ、小田原に通っていたそうです。伊藤博文が奥様のお見舞いをしたときに通ったのが大磯。「ここはいい」と感じて、小田原よりも東京にちょっと近い大磯に家を構えたのが「滄浪閣(そうろうかく)」です。
伊藤博文は大磯をあまりにも気に入って、最終的には自分の本籍にしてしまいます。初代内閣総理大臣・伊藤博文が大磯に家を造ったとなると、大の友だちだった山縣有朋や、側近だった末松謙澄、西園寺公望、早稲田大学を作った大隈重信といった面々が皆、大磯にやってきます。
彼らは「東京・永田町で話せないようなことを大磯で話していました」と、山口さんは語る。大日本帝国憲法の草案を書いたのも、実は大磯だったそう。
山口:戦後に長い間、首相をしていた吉田茂も大磯に家を構えました。吉田茂は大磯町の初代名誉町民になられたんですけど、よくイカ釣りをしている漁師さんと話をして、お米や麦などが今どれだけの物価なのかというのを聞いていたそうです。これは伊藤博文も同様でした。
自らの邸宅に「滄浪閣(そうろうかく)」という名前を付けた伊藤博文。滄浪とはどんな意味なのか? 山口さんが解説する。
山口:滄浪という言葉は実は中国古典「楚辞」の中に出典があります。滄浪というのは水の流れを意味します。
<滄浪の水清まば以て我が纓【えい】を濯【あら】うべし>
これは世の中が汚く濁ってしまったら、そのときは自分の汚い足を洗って、その時代をやり過ごせばいいということ。時勢の移り変わりに応じた生き方をする喩えです。世の中の流れによって、自分の身の処し方を考えるというのが、「滄浪」という言葉の意味するところです。
恐らく、吉田茂をはじめ、伊藤博文、末松謙澄、西園寺公望、大隈重信にしても、大磯でピーナッツを食べながら、自分の身の処し方を考えていたのではと思います。東京からそんなに遠くはありませんので、ぜひ大磯に行かれて、ピーナッツをぽりぽりと食べながら、これからの世での身の処し方を考えるのも、乙なものなのかなと思います。
山口:どんな曲かというと、城ヶ島に雨が降って、その空の色は、利休鼠(りきゅうねずみ)の色だと。利休鼠の色というのは、少しだけ緑がかった灰色です。江戸時代の方々は利休鼠色の着物を着ていて、当時はよく使われていた色です。北原白秋は<雨はふるふる 城ヶ島の磯に/利休鼠の 雨がふる/雨は真珠か 夜明けの霧か/それともわたしの 忍び泣き>と書いています。北原白秋は大正2年(1913年)に約10ヶ月ほど、三崎に住んでいました。
当時、詩人として地位を築いていた白秋は、隣に住んでいた既婚者、松下俊子と不倫関係となり、「姦通罪」で俊子の夫に告訴され拘置所に入れられてしまう。釈放されるも傷心の白秋は、俊子と三崎へと逃げたのだ。拘置所では、自分と俊子に毎回の食事にフランス料理のフルコースを用意させるほど贅沢をしていたという白秋。しかし、三崎での暮らしは貧しかったという。
山口:食べるものが魚しかないんですね。2人がよく食べていたのは、金目鯛の煮付けなんです。詳しくは拙著『炎上案件 ドロドロ文豪史』集英社インターナショナルを参照ください。そんな環境下で北原白秋は、自分の友だちで詩人の木下杢太郎宛に年賀状を書きました。
そこには、「極々内緒で新年おめでとう。僕はこの5~6日くらいからここ(三崎)に来ているのだけど、何一つ、おもしろいことはない。何一つ、おいしいものはない。恐ろしい夢ばかり、見ています」というような内容が綴られていたという。『城ヶ島の雨』は、その頃に生まれた作品だ。
山口:少し緑がかった鼠色の空から、雨がしとしと降っている……恐らく『城ヶ島の雨』というのは、北原白秋の心の中に降っていた雨でもあるんですね。その後、北原白秋と俊子さんはうまくいかなくなります。そして北原白秋は小田原に居を移して、詩を書き始めます。
山口さんは丹沢・大山に登ったときのエピソードを話した。頂上まで30分の地点にある大山阿夫利神社 奥社にて、「これから雨が降ります。一緒に降りましょう」と言われ、途中で降りることに。その際に、蕎麦屋に立ち寄り、大山について話を聞いたという。
山口:猪鍋を食べながら、お話をしてくださいました。阿夫利神社はもともと、「雨降山(あめふりやま)」と呼ばれているそうです。相模湾から真っ直ぐ風が吹いてきて、大山にあたって、低気圧ができて雨が降るそうなんです。いつ降り出すかわからないので、「雨降神社」と言われていたのが、いつの間にか阿夫利神社に名前を変えたそうです。
山口さんは訪れたお店で貴重な「お土産」を渡されたそうだ。
山口:このお店、おじいさんが6代目「先導師」だったそうです。先導師とは大山で特別に使われている言葉で、大山の神様の教えを全国に広めていった人を指します。実はこの方、1966年に「相州大山」という本を書いています。「何冊かしか残っていないけれど、この貴重な本を読んで勉強しなさい」と仰ってくださったので、大事にもらってきました。
実はこの本には縄文時代から1996年に至るまでの、大山の歴史が全て書かれています。読むと、縄文時代後期の紀元前2500年くらい、土器が大山の山頂からたくさん出てくることがわかります。つまり、縄文の方々がすでに大山に住んでいたということですね。そして面白いことに千葉・千葉市の検見川遺跡というところで発掘された同系統のものだそうです。つまり千葉と大山は、恐らく何らかの形で繋がっているんですね。
「大山とうふまつり」というイベントが行われるなど、大山エリアといえば豆腐料理が有名。山口さんは大山と豆腐の関係性について話す。神奈川県のスーパーでは「大山豆腐」が売られており、その豆はだいたいが秦野で作られているそう。
山口:大山豆腐が作られるようになったのは、江戸時代からです。しかし江戸時代から秦野でたくさん豆が作られていたかというと、そんなことはありません。江戸時代には士農工商という身分を超えて、みんなが大山にお参りにいらっしゃったそうです。農家の方もたくさんいらっしゃるんですけど、江戸時代では農家の方がお金を使うことはほとんどありません。お米、あるいは大豆をたくさん持ってきて、「ここで一泊させてください」としていたそうです。
食べ物を持ってくるときに一番便利だったのが豆でした。神社に行く前・後には精進料理を食べると言うことで、大山豆腐が生まれました。豆腐は生でも食べますが、田楽にしたり、大山にはそれぞれの店で味噌も作られるそうで、味も異なります。春、夏……と季節ごとのお味噌を出して来られたそうです。ぜひ、大山に行かれたときは豆腐やお味噌をお食べになられてください。
J-WAVEで放送中の番組『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」は、月曜から木曜の15:10~15:20にオンエア。
(構成=中山洋平)
山口さんが登場したのは、J-WAVE『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは5月1日(月)~3日(水)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが神奈川を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
ピーナッツを「落花生」という理由
普段何気なく食べているピーナッツは、日本各地でさまざまな呼び方がある。沖縄では「ジーマミー」、鹿児島では「だっきしょ」、長崎では「銅八銭」とも呼ばれるという。そんな呼び名のひとつが「落花生」だ。なぜ、こういう字を書くのか。山口さんは落花生を古くから扱うお店でその語源について教えてもらったそうだ。山口:落花生はマメ科の植物で、ツルを伸ばしていきます。ツルの先に花が咲くんですけど、その花が萎れるようにして土に向かって垂れていくんだそうです。そして土に落ちると、その花の先にピーナッツがなるんですね。
5月の連休明けに落花生の苗を植えると、だいたい8月15日、お盆くらいにピーナッツができるそうです。そのまま放っておくとそのピーナッツから苗ができるそうなんですけど、すぐに引っこ抜いて、カラカラに乾燥させると、我々が普段食べているピーナッツになります。大磯のあたりでは新鮮なピーナッツができると、塩茹でにして食べるそうです。ぜひ、お盆過ぎくらいに行ってみられるといいと思います。
ピーナッツを食べながら、自分の身の処し方を考える?
初代内閣総理大臣の伊藤博文は、大磯で暮らしていた。その経緯とは?山口:伊藤博文の奥様は肺が悪かったそうです。そんな中、小田原に療養所があり、医者に勧められ、小田原に通っていたそうです。伊藤博文が奥様のお見舞いをしたときに通ったのが大磯。「ここはいい」と感じて、小田原よりも東京にちょっと近い大磯に家を構えたのが「滄浪閣(そうろうかく)」です。
伊藤博文は大磯をあまりにも気に入って、最終的には自分の本籍にしてしまいます。初代内閣総理大臣・伊藤博文が大磯に家を造ったとなると、大の友だちだった山縣有朋や、側近だった末松謙澄、西園寺公望、早稲田大学を作った大隈重信といった面々が皆、大磯にやってきます。
彼らは「東京・永田町で話せないようなことを大磯で話していました」と、山口さんは語る。大日本帝国憲法の草案を書いたのも、実は大磯だったそう。
山口:戦後に長い間、首相をしていた吉田茂も大磯に家を構えました。吉田茂は大磯町の初代名誉町民になられたんですけど、よくイカ釣りをしている漁師さんと話をして、お米や麦などが今どれだけの物価なのかというのを聞いていたそうです。これは伊藤博文も同様でした。
自らの邸宅に「滄浪閣(そうろうかく)」という名前を付けた伊藤博文。滄浪とはどんな意味なのか? 山口さんが解説する。
山口:滄浪という言葉は実は中国古典「楚辞」の中に出典があります。滄浪というのは水の流れを意味します。
<滄浪の水清まば以て我が纓【えい】を濯【あら】うべし>
これは世の中が汚く濁ってしまったら、そのときは自分の汚い足を洗って、その時代をやり過ごせばいいということ。時勢の移り変わりに応じた生き方をする喩えです。世の中の流れによって、自分の身の処し方を考えるというのが、「滄浪」という言葉の意味するところです。
恐らく、吉田茂をはじめ、伊藤博文、末松謙澄、西園寺公望、大隈重信にしても、大磯でピーナッツを食べながら、自分の身の処し方を考えていたのではと思います。東京からそんなに遠くはありませんので、ぜひ大磯に行かれて、ピーナッツをぽりぽりと食べながら、これからの世での身の処し方を考えるのも、乙なものなのかなと思います。
大磯町にある「明治記念大磯邸園」。伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、陸奥宗光にゆかりのある邸宅や庭園など、歴史的建造物が残されている。(画像素材:PIXTA)
北原白秋が生んだ『城ヶ島の雨』
三浦半島の南端に位置する城ヶ島。その情景を歌った有名な曲がある。1913年に北原白秋が詩を手がけた『城ヶ島の雨』だ。1967年には美空ひばりが歌ったものがヒットした。山口:どんな曲かというと、城ヶ島に雨が降って、その空の色は、利休鼠(りきゅうねずみ)の色だと。利休鼠の色というのは、少しだけ緑がかった灰色です。江戸時代の方々は利休鼠色の着物を着ていて、当時はよく使われていた色です。北原白秋は<雨はふるふる 城ヶ島の磯に/利休鼠の 雨がふる/雨は真珠か 夜明けの霧か/それともわたしの 忍び泣き>と書いています。北原白秋は大正2年(1913年)に約10ヶ月ほど、三崎に住んでいました。
当時、詩人として地位を築いていた白秋は、隣に住んでいた既婚者、松下俊子と不倫関係となり、「姦通罪」で俊子の夫に告訴され拘置所に入れられてしまう。釈放されるも傷心の白秋は、俊子と三崎へと逃げたのだ。拘置所では、自分と俊子に毎回の食事にフランス料理のフルコースを用意させるほど贅沢をしていたという白秋。しかし、三崎での暮らしは貧しかったという。
山口:食べるものが魚しかないんですね。2人がよく食べていたのは、金目鯛の煮付けなんです。詳しくは拙著『炎上案件 ドロドロ文豪史』集英社インターナショナルを参照ください。そんな環境下で北原白秋は、自分の友だちで詩人の木下杢太郎宛に年賀状を書きました。
そこには、「極々内緒で新年おめでとう。僕はこの5~6日くらいからここ(三崎)に来ているのだけど、何一つ、おもしろいことはない。何一つ、おいしいものはない。恐ろしい夢ばかり、見ています」というような内容が綴られていたという。『城ヶ島の雨』は、その頃に生まれた作品だ。
山口:少し緑がかった鼠色の空から、雨がしとしと降っている……恐らく『城ヶ島の雨』というのは、北原白秋の心の中に降っていた雨でもあるんですね。その後、北原白秋と俊子さんはうまくいかなくなります。そして北原白秋は小田原に居を移して、詩を書き始めます。
城ヶ島大橋の下には、白秋自筆の『城ヶ島の雨』詩碑が建つ。(画像素材:PIXTA)
大山【おおやま】と豆腐の歴史
大山の阿夫利神社への登山道。「どんどん走って登ります」と山口さん。
山口:猪鍋を食べながら、お話をしてくださいました。阿夫利神社はもともと、「雨降山(あめふりやま)」と呼ばれているそうです。相模湾から真っ直ぐ風が吹いてきて、大山にあたって、低気圧ができて雨が降るそうなんです。いつ降り出すかわからないので、「雨降神社」と言われていたのが、いつの間にか阿夫利神社に名前を変えたそうです。
山口さんは訪れたお店で貴重な「お土産」を渡されたそうだ。
山口:このお店、おじいさんが6代目「先導師」だったそうです。先導師とは大山で特別に使われている言葉で、大山の神様の教えを全国に広めていった人を指します。実はこの方、1966年に「相州大山」という本を書いています。「何冊かしか残っていないけれど、この貴重な本を読んで勉強しなさい」と仰ってくださったので、大事にもらってきました。
実はこの本には縄文時代から1996年に至るまでの、大山の歴史が全て書かれています。読むと、縄文時代後期の紀元前2500年くらい、土器が大山の山頂からたくさん出てくることがわかります。つまり、縄文の方々がすでに大山に住んでいたということですね。そして面白いことに千葉・千葉市の検見川遺跡というところで発掘された同系統のものだそうです。つまり千葉と大山は、恐らく何らかの形で繋がっているんですね。
「大山とうふまつり」というイベントが行われるなど、大山エリアといえば豆腐料理が有名。山口さんは大山と豆腐の関係性について話す。神奈川県のスーパーでは「大山豆腐」が売られており、その豆はだいたいが秦野で作られているそう。
登山道の途中には、穴の空いた岩がある。天狗が鼻突きをして空いた穴といわれている。
食べ物を持ってくるときに一番便利だったのが豆でした。神社に行く前・後には精進料理を食べると言うことで、大山豆腐が生まれました。豆腐は生でも食べますが、田楽にしたり、大山にはそれぞれの店で味噌も作られるそうで、味も異なります。春、夏……と季節ごとのお味噌を出して来られたそうです。ぜひ、大山に行かれたときは豆腐やお味噌をお食べになられてください。
J-WAVEで放送中の番組『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」は、月曜から木曜の15:10~15:20にオンエア。
(構成=中山洋平)
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