秋田県に関する歴史や魅力、独自の風習について、作家・文献学者の山口謠司さんが語った。
山口さんが登場したのは、J-WAVE『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは1月9日(火)~11日(木)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが秋田を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
・ポッドキャストページ
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
山口:秋田といえば、なまはげです。なまはげは旧暦のお正月に訪れる来訪神です。2024年は2月10日に訪れました。「なま」を剥ぎ取りにやってくる神様だそうで、なまというのは「怠け癖」を指す言葉です。
冬の寒い季節、秋田は雪に覆われて、外では何にもできません。人々は皆、囲炉裏の周りで暖を取るばかりです。そうすると「ナモミ」というものが手や足に出来るそうです。ナモミは手足にできる赤い斑点で、要するに低音火傷みたいなもの。そこで、なまはげがやってきて「お前たち怠けているだろ!」と言って、ナモミを剥ぎ取るそうです。
鬼だと勘違いされることもあるが、なまはげは神様。そのため、多くの家の主人は、正装して迎え入れるという。
山口:なまはげは悪いこと(怠け)をする気持ちを剥いでくれます。子どもは泣いてしまいますが、家の方は「ありがとうございます」と反省と感謝をして、お酒を振る舞うのです。そうすると、なまはげは帰っていくのです。
キリスト教の懺悔みたいなものかと思います。悪い事をしないのが1番でしょうが、悪い事をしてしまった場合は赤い仮面と青い仮面を作って、自分でなまはげになってみるのもたまにはいいのかもしれません。
秋田では冬の真っ只中になまはげが現れるが、夏にも「ババヘラ」または「ババベラ」というものが現れる。その正体とは……?
山口:ババヘラは夏、道路脇に建てられているビーチパラソルの下に、よくいるんだそうです。ババというのは中年女性を指す言葉で、手にヘラを持っています。その方が、夏の暑い最中に何を売っているのかというと、アイスクリームです。そのアイスの形がすごい。バナナ味の黄色いアイスがコーンの真ん中にあって、その横にピンク色のイチゴ味のアイスを添えるのですが、ババがヘラを持って、バラの花のように美しく仕上げます。
ババというのは、言ってはいけない言葉かと思っていましたが、そんなことはないそうです。ババヘラの方々が「私たちはババでヘラを持っているから、ババヘラなんだよ」と自ら仰っていました。
『ババヘラの研究』(著者:あんばいこう 無明舎出版)という本によると、ババヘラが初めて秋田に出現し、アイスクリームを売り始めたのが、昭和49年。西暦で言うと、1974年の夏だ。
山口:秋田市内から大潟村に向かう国道7号線で、初めてババヘラが出現したそうです。ババヘラアイスは2002年に株式会社進藤冷菓によって登録商標されまして、秋田からどんどん広がっているようです。夏にババヘラを食べに行き、冬にはなまはげを見に行くのもいいのかなと思います。
山口:秋田県の北部にあった「阿仁(あに)」という場所には、又鬼の方が多く住んでいらっしゃったそうですが、「阿仁又鬼」という名前で知られていたそうです。阿仁は、2005年に北秋田市に合併されてしまいました。
山間部は積雪量も多く、足を運んでみましたが、雪で入ることができませんでした。車が通行止めになっていて、「歩いて行きますか?」なんて聞かれて、少し入ってみると、膝どころではなく、身体中がズボッと雪に覆われるくらいの、ものすごい豪雪地帯でした。
こんなところで、獣を獲るというのは、追い詰められるほどの冷たさに耐える力が必要です。やはり又鬼の方は鬼のような勇敢な気持ちと心の強さを持っていらっしゃったんだなと思います。
又鬼が主に狙う動物は熊や猿だという。
山口:北秋田市に「マタギ資料館」というのがあり、行ってみましたら、以前の又鬼の主な獲物はニホンカモシカとニホンザルだったそうです。現在ではどちらも禁猟で、獲ってはいけません。なので、ツキノワグマを猟の目的にしていらっしゃるそうです。
ところで、猿は人間の仲間みたいなイメージがあると思います。「その猿を鉄砲で撃っていたんですか?」と聞きましたら「そうなんです」という答えが返ってきました。さらに「なんとも思わないんですか?」と質問すると、「なんとも思わないわけではない」と言います。鉄砲を向けると、ニホンザルは両手を合わせたりするそうです。そうされると、なかなか撃つことはできない。でも、猿というのは畑で作った作物を取って食べるので、猟をしないといけなかったそうです。
男鹿市の総面積の約1/3が指定を受けている国定公園だ。ここには「なまはげ館」という資料館もある。
男鹿(おが)というのは、昔は小鹿(おが)と書きました。小さい鹿が何を指すかというと、ニホンカモシカに比べて、体の小さなニホンジカです。秋田藩の第二代藩主の佐竹義隆という方が370年前に「秋田の野山にニホンジカを放て」と言って、秋田県にたくさん生息するようになりました。
ニホンジカは食べるのを目的で放ったわけではなく、鹿の皮を弓矢とか太鼓なんかで使うためだそうです。しかし、ニホンジカはあっという間に増えていって、農作物をめっちゃくちゃに食べてしまったそうです。特に新芽が好きなので、せっかく新芽が出てきても、みんな食べられてしまう。そこで、佐竹藩では又鬼を動員して、ニホンジカが絶滅するまで、捕獲したそうです。
山口:秋田駅の前は木賃宿(※)のようなものがたくさんありましたが、僕は「秋田キャッスルホテル」に泊まって、彼女とよくデートをしていました。冬の頃だと千秋公園の池には白鳥が浮かんでいるんです。夏はお堀に蓮の花が咲いていました。
(※江戸時代、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらう宿を指し、「木賃」は薪の代金を意味する。明治以降も安宿の意味で使われた)
僕が初めて、秋田でハタハタを食べたのはその頃でした。ハタハタは魚へんに雷と書きます。彼女のお父さんが「なぜ、魚へんに雷って書くか知っているか?」と聞いてきたことがありました。雷が鳴る頃に獲れるからだそうです。
深海魚のハタハタには鱗がない。12月から1月の始めがおいしい頃だ。深海から上がってきて、卵を産むのだという。秋田で獲れるハタハタは子持ちハタハタで、塩焼きはもちろん、煮付け、唐揚げ……どう調理しても、おいしく食べることができるという。
山口:太宰治の友だちに、食通で知られている檀一雄という方がいます。檀一雄が書物の中に書いている太宰との思い出として、太宰は自分が買ってきたお醤油と砂糖で甘辛く煮たハタハタを、両手でむしゃむしゃ食べていたのだそうです。そのとき「檀君、これ食いなよ。これがエネルギーの元だよ」と言ったそうです。
秋田ではハタハタでなれ鮨を作ります。お正月前、調味料を加えた酢水を作っておいて、3日間、ハタハタを漬け込みます。そして笹の葉にご飯、ハタハタ、人参、布海苔、柚子という順番で重ねて、冷蔵庫でゆっくり発酵させます。そうすると、ハタハタのなれ鮨というのが、3日間くらいでできるそうですが、お正月には欠かせない、秋田のお料理となっています。
秋田ではハタハタの卵のことを「ぶりっ子」と呼ぶのだそうだ。
山口:生のハタハタを塩焼きにして食べると、卵はプチプチしますが、卵の皮は硬くてブリブリと音がします。これを踏まえ、ハタハタの卵をぶりっ子と呼ぶのだそうです。
秋田藩の初代藩主に佐竹義宣という方がいたが、お正月に食べた料理が記録されていたそうだ。
山口:それによると殿様は鮑、鯛、鯉のお刺身、カラスミ、焼き鳥、お素麺を食べているんですけど、ハタハタは食べていません。
ハタハタは庶民が食べるものということで、殿様は食べなかったのかなと思いきや、秋田では、ハタハタは肥料として使われていたのです。当時、秋田藩は二十万石という、中ぐらいの規模の藩でしたが、実は四十万石あったそうです。表石高と裏石高と呼ばれるものですけど、表高は江戸に出さないといけない二十万石ですね。それに対して、自分たちの贅沢な暮らしとしてあるのが、残りの二十万石だったわけです。
石高を上げるために、例えば薩摩なんかは密貿易をしていました。一方、秋田の佐竹藩は黙って新田開発をしていました。寒いところなので、石高を自分たちで上げていかないと、食べるものがなくなってしまうという危機感はあったと思います。
そんな秋田の新田開発に使われていた肥料が、ハタハタだ。
山口:江戸の末期になりますと、北海道で獲れるニシンを船で持ってきて、肥料に混ぜ込み、畑に栄養をあげていたのですが、この当時、秋田ではハタハタが新田開発のための肥料になっていたそうです。大鍋で煮て、干して、乾燥させて、石臼で粉にして、土に巻いて、土を肥やしていったとか。
おいしいきりたんぽ、お米、お酒などなど、秋田にはおいしいものがたくさんありますが、それを支えていたのが小さな深海魚・ハタハタだったのです。秋田でおいしいものを食べて、そういったことに、はたと気づかせていただきました。
(構成=中山洋平)
山口さんが登場したのは、J-WAVE『GOOD NEIGHBORS』内のコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。オンエアは1月9日(火)~11日(木)。同コーナーでは、地方文化の中で育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口氏が解説していく。ここではその内容をテキストで紹介。
また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが秋田を訪ね、現地の人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。
・ポッドキャストページ
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
なまはげは「なま」を剥ぎ取りにやってくる神様
なまはげが「泣く子はいねがあ」と家々を回り、福を授ける正月神事で有名なのが秋田。本州北部の山地にあり、国内でも有数の豪雪県としても知られる。山口:秋田といえば、なまはげです。なまはげは旧暦のお正月に訪れる来訪神です。2024年は2月10日に訪れました。「なま」を剥ぎ取りにやってくる神様だそうで、なまというのは「怠け癖」を指す言葉です。
冬の寒い季節、秋田は雪に覆われて、外では何にもできません。人々は皆、囲炉裏の周りで暖を取るばかりです。そうすると「ナモミ」というものが手や足に出来るそうです。ナモミは手足にできる赤い斑点で、要するに低音火傷みたいなもの。そこで、なまはげがやってきて「お前たち怠けているだろ!」と言って、ナモミを剥ぎ取るそうです。
<山口謠司のイラスト>
山口:なまはげは悪いこと(怠け)をする気持ちを剥いでくれます。子どもは泣いてしまいますが、家の方は「ありがとうございます」と反省と感謝をして、お酒を振る舞うのです。そうすると、なまはげは帰っていくのです。
キリスト教の懺悔みたいなものかと思います。悪い事をしないのが1番でしょうが、悪い事をしてしまった場合は赤い仮面と青い仮面を作って、自分でなまはげになってみるのもたまにはいいのかもしれません。
秋田では冬の真っ只中になまはげが現れるが、夏にも「ババヘラ」または「ババベラ」というものが現れる。その正体とは……?
山口:ババヘラは夏、道路脇に建てられているビーチパラソルの下に、よくいるんだそうです。ババというのは中年女性を指す言葉で、手にヘラを持っています。その方が、夏の暑い最中に何を売っているのかというと、アイスクリームです。そのアイスの形がすごい。バナナ味の黄色いアイスがコーンの真ん中にあって、その横にピンク色のイチゴ味のアイスを添えるのですが、ババがヘラを持って、バラの花のように美しく仕上げます。
ババというのは、言ってはいけない言葉かと思っていましたが、そんなことはないそうです。ババヘラの方々が「私たちはババでヘラを持っているから、ババヘラなんだよ」と自ら仰っていました。
『ババヘラの研究』(著者:あんばいこう 無明舎出版)という本によると、ババヘラが初めて秋田に出現し、アイスクリームを売り始めたのが、昭和49年。西暦で言うと、1974年の夏だ。
山口:秋田市内から大潟村に向かう国道7号線で、初めてババヘラが出現したそうです。ババヘラアイスは2002年に株式会社進藤冷菓によって登録商標されまして、秋田からどんどん広がっているようです。夏にババヘラを食べに行き、冬にはなまはげを見に行くのもいいのかなと思います。
豪雪地帯で獣を獲るために
集団で狩猟を行う「又鬼(またぎ)」。「それはまた(強調)、鬼のように勇敢だ」という意味で、又鬼と書かれるようになったそうだ。山口:秋田県の北部にあった「阿仁(あに)」という場所には、又鬼の方が多く住んでいらっしゃったそうですが、「阿仁又鬼」という名前で知られていたそうです。阿仁は、2005年に北秋田市に合併されてしまいました。
山間部は積雪量も多く、足を運んでみましたが、雪で入ることができませんでした。車が通行止めになっていて、「歩いて行きますか?」なんて聞かれて、少し入ってみると、膝どころではなく、身体中がズボッと雪に覆われるくらいの、ものすごい豪雪地帯でした。
こんなところで、獣を獲るというのは、追い詰められるほどの冷たさに耐える力が必要です。やはり又鬼の方は鬼のような勇敢な気持ちと心の強さを持っていらっしゃったんだなと思います。
又鬼が主に狙う動物は熊や猿だという。
山口:北秋田市に「マタギ資料館」というのがあり、行ってみましたら、以前の又鬼の主な獲物はニホンカモシカとニホンザルだったそうです。現在ではどちらも禁猟で、獲ってはいけません。なので、ツキノワグマを猟の目的にしていらっしゃるそうです。
ところで、猿は人間の仲間みたいなイメージがあると思います。「その猿を鉄砲で撃っていたんですか?」と聞きましたら「そうなんです」という答えが返ってきました。さらに「なんとも思わないんですか?」と質問すると、「なんとも思わないわけではない」と言います。鉄砲を向けると、ニホンザルは両手を合わせたりするそうです。そうされると、なかなか撃つことはできない。でも、猿というのは畑で作った作物を取って食べるので、猟をしないといけなかったそうです。
<山口謠司のイラスト>
男鹿(おが)というのは、昔は小鹿(おが)と書きました。小さい鹿が何を指すかというと、ニホンカモシカに比べて、体の小さなニホンジカです。秋田藩の第二代藩主の佐竹義隆という方が370年前に「秋田の野山にニホンジカを放て」と言って、秋田県にたくさん生息するようになりました。
ニホンジカは食べるのを目的で放ったわけではなく、鹿の皮を弓矢とか太鼓なんかで使うためだそうです。しかし、ニホンジカはあっという間に増えていって、農作物をめっちゃくちゃに食べてしまったそうです。特に新芽が好きなので、せっかく新芽が出てきても、みんな食べられてしまう。そこで、佐竹藩では又鬼を動員して、ニホンジカが絶滅するまで、捕獲したそうです。
ハタハタという深海魚
1981年にリリースされた松田聖子の楽曲「冬の妖精」。当時、山口さんは18歳で大学1年生だったそうだ。秋田の人を好きになり、何度も通っていたという。山口:秋田駅の前は木賃宿(※)のようなものがたくさんありましたが、僕は「秋田キャッスルホテル」に泊まって、彼女とよくデートをしていました。冬の頃だと千秋公園の池には白鳥が浮かんでいるんです。夏はお堀に蓮の花が咲いていました。
(※江戸時代、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらう宿を指し、「木賃」は薪の代金を意味する。明治以降も安宿の意味で使われた)
僕が初めて、秋田でハタハタを食べたのはその頃でした。ハタハタは魚へんに雷と書きます。彼女のお父さんが「なぜ、魚へんに雷って書くか知っているか?」と聞いてきたことがありました。雷が鳴る頃に獲れるからだそうです。
<山口謠司のイラスト>
山口:太宰治の友だちに、食通で知られている檀一雄という方がいます。檀一雄が書物の中に書いている太宰との思い出として、太宰は自分が買ってきたお醤油と砂糖で甘辛く煮たハタハタを、両手でむしゃむしゃ食べていたのだそうです。そのとき「檀君、これ食いなよ。これがエネルギーの元だよ」と言ったそうです。
秋田ではハタハタでなれ鮨を作ります。お正月前、調味料を加えた酢水を作っておいて、3日間、ハタハタを漬け込みます。そして笹の葉にご飯、ハタハタ、人参、布海苔、柚子という順番で重ねて、冷蔵庫でゆっくり発酵させます。そうすると、ハタハタのなれ鮨というのが、3日間くらいでできるそうですが、お正月には欠かせない、秋田のお料理となっています。
秋田ではハタハタの卵のことを「ぶりっ子」と呼ぶのだそうだ。
山口:生のハタハタを塩焼きにして食べると、卵はプチプチしますが、卵の皮は硬くてブリブリと音がします。これを踏まえ、ハタハタの卵をぶりっ子と呼ぶのだそうです。
秋田藩の初代藩主に佐竹義宣という方がいたが、お正月に食べた料理が記録されていたそうだ。
山口:それによると殿様は鮑、鯛、鯉のお刺身、カラスミ、焼き鳥、お素麺を食べているんですけど、ハタハタは食べていません。
ハタハタは庶民が食べるものということで、殿様は食べなかったのかなと思いきや、秋田では、ハタハタは肥料として使われていたのです。当時、秋田藩は二十万石という、中ぐらいの規模の藩でしたが、実は四十万石あったそうです。表石高と裏石高と呼ばれるものですけど、表高は江戸に出さないといけない二十万石ですね。それに対して、自分たちの贅沢な暮らしとしてあるのが、残りの二十万石だったわけです。
石高を上げるために、例えば薩摩なんかは密貿易をしていました。一方、秋田の佐竹藩は黙って新田開発をしていました。寒いところなので、石高を自分たちで上げていかないと、食べるものがなくなってしまうという危機感はあったと思います。
そんな秋田の新田開発に使われていた肥料が、ハタハタだ。
山口:江戸の末期になりますと、北海道で獲れるニシンを船で持ってきて、肥料に混ぜ込み、畑に栄養をあげていたのですが、この当時、秋田ではハタハタが新田開発のための肥料になっていたそうです。大鍋で煮て、干して、乾燥させて、石臼で粉にして、土に巻いて、土を肥やしていったとか。
おいしいきりたんぽ、お米、お酒などなど、秋田にはおいしいものがたくさんありますが、それを支えていたのが小さな深海魚・ハタハタだったのです。秋田でおいしいものを食べて、そういったことに、はたと気づかせていただきました。
(構成=中山洋平)
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