世界的タップダンサーの熊谷和徳が、タップとの出会いやニューヨークでの修業時代、さらには、全ダンスジャンルを対象としたアワード「ベッシー賞」を受賞した際のエピソードなどについて語った。
熊谷が登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
このプログラムは、ポッドキャストでも配信中。
・ポッドキャストはこちら
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
熊谷:初めてタップに興味を持ったのは5~6歳の頃です。当時の僕は喘息を患っていて、学校にもあまり通えていませんでした。そんな時期に観たMVで、マイケル・ジャクソンがタップダンスのような動きをしていたことに惹かれたんです。また、マイケルがフレッド・アステアやサミー・デイヴィスJr.などのタップダンサーを敬愛していることを知り、タップへの関心を深めていきました。
そのときから、「自分もタップを踊りたい」という思いがあったのですが、僕の地元・仙台ではスクールがあまりなくて、一度諦めたんです。気持ちが再燃したのは15歳ぐらいの頃。グレゴリー・ハインズ主演の映画『タップ』をたまたま鑑賞したことがきっかけでした。映画に刺激を受け、改めてスクールを探してみたところ、一件だけ見つけたんですよ。
グレゴリー・ハインズは、天才的なタップダンスのスキルにより、ニューヨークのブロードウェイで一世を風靡したエンターテイナー。その華麗な足さばきに魅了され、地元・仙台のダンススクールに通い始めた熊谷少年は1996年、19歳のときに今後の人生を決定付ける大きな決断を下す。
熊谷:仙台でタップをやっていた頃は、進路に悩んでいました。勉強に集中できないし、周囲からの反対もあってタップにもあまり熱心になれなくて。それに、喘息もひどくなっていた。そんな状況を打破したかったし、何となく新しい世界に飛び出したい気持ちもありました。そこで19歳のとき、親と相談して、一番憧れの場所であるニューヨークへ行くことを決めたんです。
熊谷:タップスクールを探すために、ガイドブック片手にニューヨークの街を歩き回ったこともありました。そんな中、憧れのグレゴリー・ハインズや、“マスター”と呼ばれるジミー・スライド、バスター・ブラウンといったレジェンドたちと知り合うことができたのは、運が良かったというほかありません。
ニューヨークに来て気付いたのは、タップはすごく小さなコミュニティだということ。とあるジャズクラブでは、グレゴリー・ハインズをはじめとした、映画『タップ』の出演者たちが集まって、セッションみたいなことをよく行ってました。そこへ足を運ぶと、『タップ』の面々は「一緒に踊ろうよ」と、自分もファミリーの一員のように混ぜてくれる。そういった環境で、どんどんタップにのめり込んでいきました。
そんなあるとき、ブロードウェイのショー「ノイズ&ファンク(原題:Bring in 'da Noise, Bring in 'da Funk)」が新しいタップダンサーを募集していたんです。オーディションに参加したら、「ファンク・ユニバーシティ」というトレーニングプログラムを受講することになって。プログラムの期間は3か月で、練習量は毎日6時間。このときに師匠のテッド・リービーと出会ったことで、歴史や文化を含めた本当のタップの意味を知りました。
そして2016年。渡米してからちょうど20年の節目に、あらゆるジャンルのダンスを対象に毎年ニューヨークで開催されるアワード「NY DANCE AND PERFORMANCE AWARD」通称"BESSIE AWARD”で、最優秀パフォーマー賞を受賞した。同賞の獲得は、アジア人タップダンサーとして史上初の快挙だった。
熊谷:実は授賞式当日、入口でお客さんにもぎりのスタッフと間違われたんですよ(笑)。アメリカで暮らしていると、人種の壁は厚く、アジア人として生活する難しさを感じる瞬間があるのも事実です。そんな中で、最優秀パフォーマー賞をいただき、会場が総立ちになってあたたかい拍手を送られたときには、実感するまでに時間がかかりました。会場に入るときはもぎりのスタッフと間違われましたが、会場を出るときにはみんながあたたかい言葉を掛けてくれて、そこには、自分が尊敬するタップダンサーたちもいて……。タップというジャンル自体、アメリカでは他のダンスに比べまだまだ地位が低い。だからこそ、賞をいただけたことは僕個人としても、また、タップダンサーとしてタップファミリーに何か貢献できたという意味においても、うれしかったですね。
熊谷:タップダンスって、もともとは土着の文化から生まれたものなんです。太鼓を鳴らし、大地を踏み鳴らして踊っていたアフリカの人たちが奴隷船貿易でアメリカに連れて来られ、しゃべることさえ禁止される中、自らの感情を表現するために地面を踏んだことが起源とされています。その後、ブルース、ジャズ、R&B、ヒップホップといった多様なブラックミュージックが発展していきましたが、すべての音楽の根底に流れるリズムを、タップダンスが作ったということはあまり知られていません。そんな背景もあって、世界中にある民族音楽と共鳴することは人間の本能というか……。怒り・悲しみ・人の生死など、人間の本能を表現するために踊りや歌があって、その一つの形がタップダンスだと思うんです。だから、自分の中でアイヌの方々や沖縄の民族音楽のミュージシャンとコラボレーションするのはすごく自然なことなんですよね。
少し話は変わりますが、ここ3年は、横浜の赤レンガ倉庫で毎年公演を開催させていただいています。今年1月21日と22日には、シンガーソングライターの中村佳穂さんをゲストにお招きし、「Hear/Here」と題した公演を行いました。ステージ上での音の掛け合いは、まさにその瞬間のひらめきでの会話のようでした。公演の最後のほうでは、佳穂さんがタップの板の上に横になって歌い、自分も無心で気持のおもむくままに踊れて幸せな時間でした。佳穂さんの歌を実際に聴いて思ったのは、喜怒哀楽がとても豊かで楽しい曲の中にも、その根底に流れているものにブルースを感じました。これまで数々のタップダンサー達がそのルーツにある悲哀をステージ上で笑顔で表現してきたのと同じようなエネルギーを、彼女の歌声に感じたんですよね。だから一緒にやっていて深みを感じるとともに、すごく楽しかったんですよね。
熊谷:当時、タップの板が張られた踊れる環境がほとんどなかったので、自分の練習場所を探していたんですよ。そんなときに、中目黒でたまたまいい場所を見つけて。そこで仲間と練習しているうちに教えるようになり、次第に一般の人も来始めて、今に至る……といった感じですね。以前は趣味でタップを習う人が多かったんですけど、今は中学生~20代前半のプロを目指している人も集まってきて、すごくいいエネルギーを感じています。
パフォーマー・指導者としてタップの普及に努める熊谷。彼にとっての「未来への挑戦」とは。
熊谷:自分のカンパニーにいる子たちとこれからも一緒に作品を手掛けて、若いタップダンサーたちがもっと自分を表現できる環境を構築し、タップダンスが文化として認められる土壌をしっかりと作っていきたいです。タップはそういう段階に来ている気がするんですよね。でも、一番大事なのは、自分自身がタップを楽しむこと。これに尽きると思います。ずっとずっとこの先、きっと死ぬまで、タップを楽しみ続け、追いかけ続けていくつもりです。
ドライブをしながらインタビューをする同番組。熊谷が乗車中によく聴く音楽は、米国のシンガーソングライター、キャロル・キングの楽曲だという。彼女の代表曲「You've Got a Friend」を例に挙げ、「弾き語りの静かな、心を落ち着けるような音楽を聴いています」と語った。
『BMW FREUDE FOR LIFE』では、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招いて話を聞く。オンエアは毎週土曜 11:00-11:30。公式サイトはこちら(https://www.j-wave.co.jp/original/freudeforlife/)。
(構成=小島浩平)
熊谷が登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
このプログラムは、ポッドキャストでも配信中。
・ポッドキャストはこちら
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/
タップに興味を持ったきっかけは、マイケル・ジャクソンのMV
東京の街を軽やかに走り出した「BMW i4 eDrive40i M Sport」。車窓に流れる六本木通り沿いのビル群を眺めながら熊谷は、タップダンスと出会った少年時代に思いを馳せる。熊谷:初めてタップに興味を持ったのは5~6歳の頃です。当時の僕は喘息を患っていて、学校にもあまり通えていませんでした。そんな時期に観たMVで、マイケル・ジャクソンがタップダンスのような動きをしていたことに惹かれたんです。また、マイケルがフレッド・アステアやサミー・デイヴィスJr.などのタップダンサーを敬愛していることを知り、タップへの関心を深めていきました。
そのときから、「自分もタップを踊りたい」という思いがあったのですが、僕の地元・仙台ではスクールがあまりなくて、一度諦めたんです。気持ちが再燃したのは15歳ぐらいの頃。グレゴリー・ハインズ主演の映画『タップ』をたまたま鑑賞したことがきっかけでした。映画に刺激を受け、改めてスクールを探してみたところ、一件だけ見つけたんですよ。
グレゴリー・ハインズは、天才的なタップダンスのスキルにより、ニューヨークのブロードウェイで一世を風靡したエンターテイナー。その華麗な足さばきに魅了され、地元・仙台のダンススクールに通い始めた熊谷少年は1996年、19歳のときに今後の人生を決定付ける大きな決断を下す。
熊谷:仙台でタップをやっていた頃は、進路に悩んでいました。勉強に集中できないし、周囲からの反対もあってタップにもあまり熱心になれなくて。それに、喘息もひどくなっていた。そんな状況を打破したかったし、何となく新しい世界に飛び出したい気持ちもありました。そこで19歳のとき、親と相談して、一番憧れの場所であるニューヨークへ行くことを決めたんです。
NYでタップのコミュニティに混ざり、のめり込んでいった
熊谷が渡米した頃は、現在のようにインターネットやケータイが普及している時代ではなかった。「行ってみなければ何があるのか、何ができるのかわからない状況」だったと振り返る。熊谷:タップスクールを探すために、ガイドブック片手にニューヨークの街を歩き回ったこともありました。そんな中、憧れのグレゴリー・ハインズや、“マスター”と呼ばれるジミー・スライド、バスター・ブラウンといったレジェンドたちと知り合うことができたのは、運が良かったというほかありません。
ニューヨークに来て気付いたのは、タップはすごく小さなコミュニティだということ。とあるジャズクラブでは、グレゴリー・ハインズをはじめとした、映画『タップ』の出演者たちが集まって、セッションみたいなことをよく行ってました。そこへ足を運ぶと、『タップ』の面々は「一緒に踊ろうよ」と、自分もファミリーの一員のように混ぜてくれる。そういった環境で、どんどんタップにのめり込んでいきました。
そんなあるとき、ブロードウェイのショー「ノイズ&ファンク(原題:Bring in 'da Noise, Bring in 'da Funk)」が新しいタップダンサーを募集していたんです。オーディションに参加したら、「ファンク・ユニバーシティ」というトレーニングプログラムを受講することになって。プログラムの期間は3か月で、練習量は毎日6時間。このときに師匠のテッド・リービーと出会ったことで、歴史や文化を含めた本当のタップの意味を知りました。
アジア人タップダンサーとして史上初の快挙
憧れのグレゴリー・ハインズと親しくなり、トニー賞にもノミネートされたことのある師匠テッド・リービーの指導を受け、本格的にタップダンサーとしてのキャリアを歩み始めた熊谷。いくつものステージに立ち、数えきれないほどのステップを重ねていくうちに、目と耳の肥えた本場の観客を魅了する一流のパフォーマーへと成長を遂げていく。そして2016年。渡米してからちょうど20年の節目に、あらゆるジャンルのダンスを対象に毎年ニューヨークで開催されるアワード「NY DANCE AND PERFORMANCE AWARD」通称"BESSIE AWARD”で、最優秀パフォーマー賞を受賞した。同賞の獲得は、アジア人タップダンサーとして史上初の快挙だった。
熊谷:実は授賞式当日、入口でお客さんにもぎりのスタッフと間違われたんですよ(笑)。アメリカで暮らしていると、人種の壁は厚く、アジア人として生活する難しさを感じる瞬間があるのも事実です。そんな中で、最優秀パフォーマー賞をいただき、会場が総立ちになってあたたかい拍手を送られたときには、実感するまでに時間がかかりました。会場に入るときはもぎりのスタッフと間違われましたが、会場を出るときにはみんながあたたかい言葉を掛けてくれて、そこには、自分が尊敬するタップダンサーたちもいて……。タップというジャンル自体、アメリカでは他のダンスに比べまだまだ地位が低い。だからこそ、賞をいただけたことは僕個人としても、また、タップダンサーとしてタップファミリーに何か貢献できたという意味においても、うれしかったですね。
「一生タップを楽しみ続けたい」
熊谷の舞台における特徴の一つが、ジャンルを超えたコラボレーションだ。様々な表現者と共演する背景には、タップダンスのルーツが内包する人間の本能が深く関係していた。熊谷:タップダンスって、もともとは土着の文化から生まれたものなんです。太鼓を鳴らし、大地を踏み鳴らして踊っていたアフリカの人たちが奴隷船貿易でアメリカに連れて来られ、しゃべることさえ禁止される中、自らの感情を表現するために地面を踏んだことが起源とされています。その後、ブルース、ジャズ、R&B、ヒップホップといった多様なブラックミュージックが発展していきましたが、すべての音楽の根底に流れるリズムを、タップダンスが作ったということはあまり知られていません。そんな背景もあって、世界中にある民族音楽と共鳴することは人間の本能というか……。怒り・悲しみ・人の生死など、人間の本能を表現するために踊りや歌があって、その一つの形がタップダンスだと思うんです。だから、自分の中でアイヌの方々や沖縄の民族音楽のミュージシャンとコラボレーションするのはすごく自然なことなんですよね。
少し話は変わりますが、ここ3年は、横浜の赤レンガ倉庫で毎年公演を開催させていただいています。今年1月21日と22日には、シンガーソングライターの中村佳穂さんをゲストにお招きし、「Hear/Here」と題した公演を行いました。ステージ上での音の掛け合いは、まさにその瞬間のひらめきでの会話のようでした。公演の最後のほうでは、佳穂さんがタップの板の上に横になって歌い、自分も無心で気持のおもむくままに踊れて幸せな時間でした。佳穂さんの歌を実際に聴いて思ったのは、喜怒哀楽がとても豊かで楽しい曲の中にも、その根底に流れているものにブルースを感じました。これまで数々のタップダンサー達がそのルーツにある悲哀をステージ上で笑顔で表現してきたのと同じようなエネルギーを、彼女の歌声に感じたんですよね。だから一緒にやっていて深みを感じるとともに、すごく楽しかったんですよね。
タップを文化として根付かせる─「未来への挑戦」
熊谷は舞台に立つだけでなく、東京中目黒と仙台でタップダンス専門スタジオ「KAZ TAP STUDIO」を展開し、それぞれの拠点でタップスクールを主宰している。スクールは2008年から運営しているそうだが、どんな思いから、後輩の指導にあたるようになったのか。熊谷:当時、タップの板が張られた踊れる環境がほとんどなかったので、自分の練習場所を探していたんですよ。そんなときに、中目黒でたまたまいい場所を見つけて。そこで仲間と練習しているうちに教えるようになり、次第に一般の人も来始めて、今に至る……といった感じですね。以前は趣味でタップを習う人が多かったんですけど、今は中学生~20代前半のプロを目指している人も集まってきて、すごくいいエネルギーを感じています。
パフォーマー・指導者としてタップの普及に努める熊谷。彼にとっての「未来への挑戦」とは。
熊谷:自分のカンパニーにいる子たちとこれからも一緒に作品を手掛けて、若いタップダンサーたちがもっと自分を表現できる環境を構築し、タップダンスが文化として認められる土壌をしっかりと作っていきたいです。タップはそういう段階に来ている気がするんですよね。でも、一番大事なのは、自分自身がタップを楽しむこと。これに尽きると思います。ずっとずっとこの先、きっと死ぬまで、タップを楽しみ続け、追いかけ続けていくつもりです。
ドライブをしながらインタビューをする同番組。熊谷が乗車中によく聴く音楽は、米国のシンガーソングライター、キャロル・キングの楽曲だという。彼女の代表曲「You've Got a Friend」を例に挙げ、「弾き語りの静かな、心を落ち着けるような音楽を聴いています」と語った。
『BMW FREUDE FOR LIFE』では、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招いて話を聞く。オンエアは毎週土曜 11:00-11:30。公式サイトはこちら(https://www.j-wave.co.jp/original/freudeforlife/)。
(構成=小島浩平)
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