17年連続でミシュラン三ツ星を獲得するフレンチレストラン「カンテサンス」のオーナーシェフ・岸田周三さんが、料理人を志した経緯や本場フランスでの修業時のエピソード、さらには、フランス料理のグランメゾンとして日本で初めて「おまかせ」を導入した理由などについて語った。
岸田さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
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小学校低学年の頃から共働きで忙しい母親の料理の支度を手伝っていたという岸田さん。「美味しんぼ」をはじめとしたグルメ漫画の影響を受けて料理への興味が膨らんでいき、小学校の卒業アルバムでは将来の夢に「食通」と書いていたという。では、数ある食に関する仕事のなかで、なぜフレンチシェフを志したのか。
岸田:料理人になることは自分のなかで早くから決めていたのですが、どのジャンルにいくべきか悩んでいました。最初は、日本人としてのアドバンテージを活かすにはやはり日本料理ではないかとの考えから、高校時代にお寿司屋さんでアルバイトをしていたんです。しかし、そのお寿司屋さんが、いわゆる昔ながらの厳しい職人さんが運営しているようなお店で、「この世界でやっていくのはどうなのかな?」と疑問に感じていました。そんななかで迎えた誕生日のとき、母に初めてフランス料理店へ連れて行ってもらって、すごく感動したんですよ。材料が何かわからない料理ばかりで「何だこれは!?」と驚きましたし、内装も華やかで。「こういう世界で料理が作りたいな」という気持ちが芽生えたんですよね。
こうして岸田さんはフランス料理人になることを決意。やるからには一番を目指すべく、グランメゾンと呼ばれる高級店で働くことを決め、三重県・志摩観光ホテルの有名フレンチレストラン「ラ・メール」に就職し、フランス料理の基礎を学ぶ。しかし、地産地消を打ち出し、英虞湾で採れた海の幸を食材としていた同ホテルでは、フレンチで良く用いられるカモや羊などを扱うことがなく、岸田さんは自分の料理の引き出しのなさに不安を覚えていた。そんななか、東京の一流店との差を確かめようと行動を起こす。
岸田:自分の実力と東京でトップと言われるレストランの差がどれくらいあるのか知りたくて、夏休みを利用して東京へ食事に行ったんですよ。お昼、夜、お昼、夜…といった具合に、連日さまざまなレストランに訪れてフランス料理を食べていたら、とんでもないレベルの高さにびっくりしたのと同時に、歴然とした技術の差に「これはマズいな」と危機感を覚えました。このときに「東京で料理を学ぶしかない」と思ったんです。
東京のフレンチレストランを何軒も巡るなかで岸田さんは、働きたいお店を見つけていた。そのお店とは東京都渋谷区のレストラン「カーエム」であり、トラディショナルなフランス料理を提供していたことに惹かれたようだ。
岸田:当時はシェフがオリジナリティを打ち出すのが当たり前の時代だったのですが、個性的な料理を学んで再現したとしても、それは僕の独自性にはなりません。であるならば、教科書に書いてあるような伝統的フランス料理についてゼロから勉強し、基礎的な知識・スキルを身に付けるほうが、自分にとってプラスになると踏んだんですよね。そんな考えから目を付けた「カーエム」に「ここで働きたいです」とお願いしたんですけど、断られちゃったんです。でも、そう簡単に諦めるわけにはいきません。そこで数か月後に改めて電話をしたところ、「2か月後、ポジションに空きが出る」と告げられたので、面接を受けさせてほしいと伝えて。その後すぐに退職届を出し、東京へ向かいました。
岸田:僕が渡仏した2000年とほぼ同時期に「アストランス」というレストランが開店したんですよ。このお店は、オープン半年後に史上最速でミシュランの一つ星を獲得し、連日満席となるなど大きな話題を呼びました。実際に尋ねてみると、僕が東京のレストランで教えてもらっていたこととは全く異なる技術やスタイルの料理ばかりで。「なんだこれ!?」という新しさとともに、驚くほどの美味しさも兼ね備えていました。「現代的なフランス料理の最先端」という印象を受けましたね。「ここで学びたい」と思った僕は、食後に「働かせてください」と直談判したのですが、またしても「ポジションがない」とお断りされちゃって(笑)。その後も懲りずに何度も電話をしてたんですけど、やはり返事はNOのままでした。
なおも「何かツテはないか」と探していたある日、たまたま参加した日本人料理人の勉強会で、アストランスのシェフと知り合ったんですよ。その方と仲良くなるなかで、ビザの更新をするために1か月間日本に帰るというお話を聞きました。そこで「その1か月間そのポジションが空くじゃん!」と思い、アストランスにもう一度交渉したところ、「彼が日本に行っている間だけだったらいい」と許可が出て、研修に参加させていただいたんです。この1か月間で、自分と一緒に働きたいと思わせることができたらビザを取ってもらえるかもしれない。そんな期待感から、死ぬ気で仕事に取り組みました。そしたら、「働いていいよ」と運よく雇用され、以後3年間働かせていただいたんですよね。
岸田:パスカルシェフは感覚でしゃべる方なんですよ。長嶋茂雄さんが巨人の監督時代、選手に「もっとパチーンと打てよ!」みたいな言い方でバッティング指導をし、みんな何を言っているかわからなかったという逸話は有名ですが、パスカルシェフも同じようなタイプでした。具体的なアクションプランを示さず、「もっとフワッとさせてくれよ!」「もっとカリッとさせてくれよ!」とか要求してくる(笑)。日本における料理人の教え方は、「お前のアイデアは一切要らない。ただ黙って言われた通りのことをやれ」という職人気質なものです。この指導法に慣れていた僕は、料理を完全にコピーする能力に自信がありました。だからパスカルシェフに、「あなたに言われた通りにやるので見本を見せてください」とお願いし、加熱時の温度やフライパンの上に肉を置く秒数などあらゆる工程を事細かに書き出して、その通りに再現して見せた。するとパスカルシェフは「全然違う」と言うんです。そこから口論に発展し、僕は「シェフ待ってください。今僕はあなたと全く同じ工程を踏んだんですよ、何が違うんですか?」と問いただした。すると、パスカルシェフは「結果が違う」とし、「たしかに、君は僕と全く同じ工程を踏んで料理をした。でも、昨日買った魚と今日買った魚は同じものではないだろ?」と言うわけです。続けて「料理人は必ずアジャストしなければならない。同じ工程を踏むだけならただのロボットだ。だから、同じ工程を繰り返すのではなく、結果を同じにするために工程に微調整を加えるんだ」と教えてくれたんです。
僕は料理人として修業するなかで、自分の裁量でレシピを変えていいなんて話をこれまで聞いたこともありませんでした。だから「そんなに自由にやっていいんだ!」と目から鱗が落ちました。大きな感銘を受けた僕は、「すいませんでした」と謝罪し、「また一から教えてください。あなたの望むクオリティの料理を必ず作って見せます」と頼み込んだんです。こうしてパスカルシェフの指導を仰ぐようになり、自分の料理のスタンスが大きく変わっていったわけです。
岸田:「おまかせ」は最初、日本で受け入れられるのかという不安がありました。実際に導入したばかりの頃「なんで料理が選べないの?」「どうして店の希望に合わせなきゃいけないの?」など、お客さまから不満も少なくありませんでしたし。ただ僕としては、おまかせのほうがおいしい料理を提供できる自信がありました。というのも、たとえば、日本のお寿司屋さんも基本的におまかせですよね。理由は、おまかせにしたほうがクオリティが高いからにほかなりません。お寿司屋さんでコースをすべて食べ終わった後に「何か召し上がりたいものはありますか?」と勧められて、追加で頼むお寿司ってあるじゃないですか。あれ、絶対美味しくないと思うんですよ。なぜなら、出すことを想定していないネタだから。冷蔵庫からいきなり取り出して握るので、確実にネタが冷たく、冷たすぎて香りもせず、シャリも時間が経過して適切な温度ではなくなっており、お世辞にも正しい状態とはいえません。それと同じことがフランス料理でも起こり得るわけです。反面「おまかせ」であれば、決まった料理を決まったタイミングで出せるので、品質と温度管理が徹底でき、結果として料理のクオリティが高くなるんですよ。
日本におけるフレンチシェフのトップランナーとして料理とサービスの追求を続ける岸田さん。最後に、自身にとっての「未来への挑戦=FORWARDISM」とは何かと尋ねると、こんな答えが返ってきた。
岸田:直近でどうしても取り組みたい課題は、水産資源の保護活動ですね。島国である日本は水産資源の豊かな国です。排他的経済水域の面積は、世界で6番目の広さを誇ります。しかし、そのなかで獲れる水産資源は激減しているんです。僕はさまざまな国へ旅行に行くのですが、各国の料理を食べるほどに日本の飲食は本当にレベルが高いと思い知らされます。この高品質の料理を支えているのは、豊かな水産資源にほかなりません。つまり、海産物を獲る漁師さん、運んでくれる運送会社の人たちがいて初めて、レストランがあるわけです。なので、水産資源の保護に取り組まざるを得ないと、僕は危機感を覚えているんです。
岸田さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
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卒業アルバムの将来の夢は「食通」
岸田さんは1974年生まれの50歳。走り出した「BMW iX xDrive50」の車中では、自身の料理人としてのルーツから語り始めた。小学校低学年の頃から共働きで忙しい母親の料理の支度を手伝っていたという岸田さん。「美味しんぼ」をはじめとしたグルメ漫画の影響を受けて料理への興味が膨らんでいき、小学校の卒業アルバムでは将来の夢に「食通」と書いていたという。では、数ある食に関する仕事のなかで、なぜフレンチシェフを志したのか。
こうして岸田さんはフランス料理人になることを決意。やるからには一番を目指すべく、グランメゾンと呼ばれる高級店で働くことを決め、三重県・志摩観光ホテルの有名フレンチレストラン「ラ・メール」に就職し、フランス料理の基礎を学ぶ。しかし、地産地消を打ち出し、英虞湾で採れた海の幸を食材としていた同ホテルでは、フレンチで良く用いられるカモや羊などを扱うことがなく、岸田さんは自分の料理の引き出しのなさに不安を覚えていた。そんななか、東京の一流店との差を確かめようと行動を起こす。
岸田:自分の実力と東京でトップと言われるレストランの差がどれくらいあるのか知りたくて、夏休みを利用して東京へ食事に行ったんですよ。お昼、夜、お昼、夜…といった具合に、連日さまざまなレストランに訪れてフランス料理を食べていたら、とんでもないレベルの高さにびっくりしたのと同時に、歴然とした技術の差に「これはマズいな」と危機感を覚えました。このときに「東京で料理を学ぶしかない」と思ったんです。
東京のフレンチレストランを何軒も巡るなかで岸田さんは、働きたいお店を見つけていた。そのお店とは東京都渋谷区のレストラン「カーエム」であり、トラディショナルなフランス料理を提供していたことに惹かれたようだ。
岸田:当時はシェフがオリジナリティを打ち出すのが当たり前の時代だったのですが、個性的な料理を学んで再現したとしても、それは僕の独自性にはなりません。であるならば、教科書に書いてあるような伝統的フランス料理についてゼロから勉強し、基礎的な知識・スキルを身に付けるほうが、自分にとってプラスになると踏んだんですよね。そんな考えから目を付けた「カーエム」に「ここで働きたいです」とお願いしたんですけど、断られちゃったんです。でも、そう簡単に諦めるわけにはいきません。そこで数か月後に改めて電話をしたところ、「2か月後、ポジションに空きが出る」と告げられたので、面接を受けさせてほしいと伝えて。その後すぐに退職届を出し、東京へ向かいました。
渡仏後に衝撃を受けた「フランス料理の最先端」の店
岸田さんには「30歳までに料理長になる」という目標があった。また、その前にフランスで最低3年は修行を積みたいとも考えていた。そこで「カーエム」で働きながらフランス語を1年学び、念願叶って2000年に渡仏することになった。現地では、大衆居酒屋に相当する「ブラッスリー」に始まり、ミシュラン一ツ星から三ツ星まで数軒のレストランで修業を重ねるなかで、ある革新的なレストランとの出会いを果たすことになる。岸田:僕が渡仏した2000年とほぼ同時期に「アストランス」というレストランが開店したんですよ。このお店は、オープン半年後に史上最速でミシュランの一つ星を獲得し、連日満席となるなど大きな話題を呼びました。実際に尋ねてみると、僕が東京のレストランで教えてもらっていたこととは全く異なる技術やスタイルの料理ばかりで。「なんだこれ!?」という新しさとともに、驚くほどの美味しさも兼ね備えていました。「現代的なフランス料理の最先端」という印象を受けましたね。「ここで学びたい」と思った僕は、食後に「働かせてください」と直談判したのですが、またしても「ポジションがない」とお断りされちゃって(笑)。その後も懲りずに何度も電話をしてたんですけど、やはり返事はNOのままでした。
なおも「何かツテはないか」と探していたある日、たまたま参加した日本人料理人の勉強会で、アストランスのシェフと知り合ったんですよ。その方と仲良くなるなかで、ビザの更新をするために1か月間日本に帰るというお話を聞きました。そこで「その1か月間そのポジションが空くじゃん!」と思い、アストランスにもう一度交渉したところ、「彼が日本に行っている間だけだったらいい」と許可が出て、研修に参加させていただいたんです。この1か月間で、自分と一緒に働きたいと思わせることができたらビザを取ってもらえるかもしれない。そんな期待感から、死ぬ気で仕事に取り組みました。そしたら、「働いていいよ」と運よく雇用され、以後3年間働かせていただいたんですよね。
低温調理の第一人者に師事し、料理のスタンスが変化
アストランスのシェフ、パスカル・バルボさんは低温調理の第一人者。今ではよく耳にする調理法だが当時は最新の技術で、本家から直々に学んだ岸田さんが帰国後、日本に広めていったという。このほかにも、パスカルシェフからは多くのことを学んだそうだ。岸田:パスカルシェフは感覚でしゃべる方なんですよ。長嶋茂雄さんが巨人の監督時代、選手に「もっとパチーンと打てよ!」みたいな言い方でバッティング指導をし、みんな何を言っているかわからなかったという逸話は有名ですが、パスカルシェフも同じようなタイプでした。具体的なアクションプランを示さず、「もっとフワッとさせてくれよ!」「もっとカリッとさせてくれよ!」とか要求してくる(笑)。日本における料理人の教え方は、「お前のアイデアは一切要らない。ただ黙って言われた通りのことをやれ」という職人気質なものです。この指導法に慣れていた僕は、料理を完全にコピーする能力に自信がありました。だからパスカルシェフに、「あなたに言われた通りにやるので見本を見せてください」とお願いし、加熱時の温度やフライパンの上に肉を置く秒数などあらゆる工程を事細かに書き出して、その通りに再現して見せた。するとパスカルシェフは「全然違う」と言うんです。そこから口論に発展し、僕は「シェフ待ってください。今僕はあなたと全く同じ工程を踏んだんですよ、何が違うんですか?」と問いただした。すると、パスカルシェフは「結果が違う」とし、「たしかに、君は僕と全く同じ工程を踏んで料理をした。でも、昨日買った魚と今日買った魚は同じものではないだろ?」と言うわけです。続けて「料理人は必ずアジャストしなければならない。同じ工程を踏むだけならただのロボットだ。だから、同じ工程を繰り返すのではなく、結果を同じにするために工程に微調整を加えるんだ」と教えてくれたんです。
僕は料理人として修業するなかで、自分の裁量でレシピを変えていいなんて話をこれまで聞いたこともありませんでした。だから「そんなに自由にやっていいんだ!」と目から鱗が落ちました。大きな感銘を受けた僕は、「すいませんでした」と謝罪し、「また一から教えてください。あなたの望むクオリティの料理を必ず作って見せます」と頼み込んだんです。こうしてパスカルシェフの指導を仰ぐようになり、自分の料理のスタンスが大きく変わっていったわけです。
「おまかせ」のほうが料理のクオリティが高い理由とは?
パスカルシェフに師事して腕を磨いた岸田さんは、帰国後の2006年5月に「カンテサンス」を開店。今では17年連続でミシュラン三ツ星を獲得するなど日本を代表するフランス料理店へと成長した同レストランだが、実はフランス料理のグランメゾンとして日本で初めて「おまかせ」を取り入れたお店でもあるという。岸田:「おまかせ」は最初、日本で受け入れられるのかという不安がありました。実際に導入したばかりの頃「なんで料理が選べないの?」「どうして店の希望に合わせなきゃいけないの?」など、お客さまから不満も少なくありませんでしたし。ただ僕としては、おまかせのほうがおいしい料理を提供できる自信がありました。というのも、たとえば、日本のお寿司屋さんも基本的におまかせですよね。理由は、おまかせにしたほうがクオリティが高いからにほかなりません。お寿司屋さんでコースをすべて食べ終わった後に「何か召し上がりたいものはありますか?」と勧められて、追加で頼むお寿司ってあるじゃないですか。あれ、絶対美味しくないと思うんですよ。なぜなら、出すことを想定していないネタだから。冷蔵庫からいきなり取り出して握るので、確実にネタが冷たく、冷たすぎて香りもせず、シャリも時間が経過して適切な温度ではなくなっており、お世辞にも正しい状態とはいえません。それと同じことがフランス料理でも起こり得るわけです。反面「おまかせ」であれば、決まった料理を決まったタイミングで出せるので、品質と温度管理が徹底でき、結果として料理のクオリティが高くなるんですよ。
岸田:直近でどうしても取り組みたい課題は、水産資源の保護活動ですね。島国である日本は水産資源の豊かな国です。排他的経済水域の面積は、世界で6番目の広さを誇ります。しかし、そのなかで獲れる水産資源は激減しているんです。僕はさまざまな国へ旅行に行くのですが、各国の料理を食べるほどに日本の飲食は本当にレベルが高いと思い知らされます。この高品質の料理を支えているのは、豊かな水産資源にほかなりません。つまり、海産物を獲る漁師さん、運んでくれる運送会社の人たちがいて初めて、レストランがあるわけです。なので、水産資源の保護に取り組まざるを得ないと、僕は危機感を覚えているんです。
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