J-WAVE(81.3FM)×「MUSIC FUN !」連動企画である、深夜の音楽座談プログラム『WOW MUSIC』。“すごい”音楽をつくるクリエイターが“WOW”と思ういい音楽とは? 毎月1人のクリエイターがマンスリープレゼンターとして登場し、ゲストとトークを繰り広げる。
10月のマンスリープレゼンターはシンガーソングライターの高橋 優。初回となる10月2日(金)のオンエアでは、音楽プロデューサー・亀田誠治がゲストに登場。ここでは、ベースとの出会いや、プロデューサーを志したきっかけ、椎名林檎と対面したときのエピソードを語った部分を紹介しよう。
高橋:2019年はあんなに行動をともにしていたのに。
亀田:ツアーもレコーディングもやっていたのに、新型コロナの影響でパタッとなくなってしまったね。
高橋:なかなか会いづらいです。今日も間に仕切りがありますね。
亀田:『本能』のミュージックビデオで(椎名)林檎さんが割るやつみたい(笑)。
普段から交流があるふたりはリラックスした雰囲気の中で会話がスタート。最初は「初対面はいつだったか」という話題になった。
亀田: 2011年の震災直後の「風とロック芋煮会」南相馬のステージが初対面でした。
高橋:公園みたいなところで、お客さんも歌う人たちも同じ地面の上でやるみたいな。なんだったらお客さんのほうが高く見えたりする広場で。亀田さんは植村花菜さんのサポートというんですかね。あれはあれで、「なんとかツインズ」とかの名前があったんですか?
亀田:それはジェラシー? 俺がどこかで誰かとやると、すぐに「ツインズですか?」みたいな(笑)。花菜ちゃんは当時、『トイレの神様』が出た直後だったので、「『トイレの神様』をやるとみんな元気になるかな?」と思って行かせていただいて、僕も初めての「風とロック芋煮会」の参加でした。
高橋:あれが初めてだったんですね。
亀田:自分から「風とロック芋煮会」設立者の箭内(道彦)さんに連絡したの。
高橋:そうおっしゃってましたね。あれからもう、ほぼ毎年出られてますもんね。僕らのメガネツインズも福島生まれ福島育ちのユニットということで、2019年にツアーをやらせてもらいました。
亀田:忘れもしない、環八から用賀のインターに入る瞬間に『福笑い』がかかって「なんていい歌なんだろう!」って思って。
高橋:そんなに細かく(笑)。2011年上半期で『福笑い』は、ラジオチャート邦楽1位になったみたいです。「あのときに聴いていた」と言ってもらえるのがすごくうれしいんです。亀田さんと初めて会ったとき、それを開口一番でおっしゃってくださったんです。
亀田:同じこと言ってた?
高橋:はい、南相馬で初めて会ったときに。こっちは「ホンモノの亀田誠治だ!」ってビビリ散らしていたんですけど、亀田さんのほうから「おーい、優くん!」って初対面じゃないみたいに僕の楽屋の前に来てくれて(笑)。「『福笑い』聴いたよ」って話してくださいました。そこからメガネツインズのストーリーが始まりました。
亀田:家のなかは一日中クラシックやザ・ビートルズのレコード、FM放送がかかっていました。流行りの音楽もクラシックも、ずっと音楽が鳴っている環境だった。あとは3歳のときにピアノを習ったんです。
高橋:3歳でピアノって早くないですか?
亀田:両親が教育熱心だったんだと思う。音大生のキレイなお姉さんがピアノの先生で、3歳にしてもう目がハートになっちゃって、先生のことが好きになっちゃって、そこで2年間ぐらい練習しました。
高橋:すごく“健全な”音楽の入り口だったんですね。
亀田:あはは(笑)。そこで若干、音感の基礎みたいなものがついたかな。
その後、小学校2年生のときに小児ぜんそくになってしまった亀田は、学校を1学期丸々休むことになる。その頃からリビングに置かれたステレオやラジオで音楽を聴き始め、「とにかく音楽を聴くのが大好きになった」と振り返る。
高橋:お母さんのレコードラックのなかから、亀田さんセレクションが生まれたんですね。どんな音楽を聴いていたんですか?
亀田:1962~1966年に父と母がアメリカで駐在をしているときに僕がニューヨークで生まれたんです。そのときにニューヨークで買ってきたレコードがいっぱいあって、そのなかのザ・ビートルズが好きになり、赤盤(『ザ・ビートルズ 1962年~1966年』)と青盤(『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』)を自分で買って、夢中になって聴いてましたね。
高橋:初めてご自身で買われたレコードですか?
亀田:そう。それが小学校2年生か3年生のとき。ちょっと早熟でした。
高橋:3歳のころから通っていたピアノの教室は、何歳まで続いたんですか?
亀田:うちが転勤族で、2年弱ぐらいで終わってしまったんです。その後、母親が「クラシックギター講座」という通信教育かなにかで、ギターを買ったんですよ。雑誌の広告で載ってたりするでしょ? でも、ギターを弾かないままずっとリビングのソファーの上に置いていて。小学校5年生ぐらいのある日、ザ・ビートルズのレコードで『Hello, Goodbye』という曲がかかって、「このギターを弾いてみようかな」と思って弾いたのが、ピアノの次に楽器を手にしたときです。その瞬間に『Hello, Goodbye』のベースラインをもう弾いてた。
高橋:ええっ、ギターでベースラインを? 生まれもってのベーシストだったってことですか?
亀田:そういうことなんですよ。
高橋:かっこいいなあ。
亀田:「ジャンケンで負けてベースになった」とか、みんな言うじゃん? でも僕は初めからベースがフィットしていたんです。
お年玉を貯めて、中学2年生のころにベースを購入。その前にはエレキギターも買ったが、あまりフィットしなかったそうだ。当時からプロを目指しており、卒業文集に「武道館で会おうぜ」などと綴っていたと、微笑ましい思い出を明かした。
楽曲をアレンジすることが好きだった亀田はある日、コンビニでサザンオールスターズの『真夏の果実』を聴いて衝撃を受けた。「イントロからして、すごく美しい旋律」と惹かれてCDを購入すると、プロデュースに小林武史が関わっていると記されていた。
亀田:プロデュースという仕事は、音楽に魔法をかけることができるんだと思ったの。自分も、曲を書いたりアレンジしたりというだけじゃなくて、アーティストと向き合って、楽曲をピカピカに輝かせて多くの人に届かせたい。この曲がプロデューサーを志したきっかけです。
持ち味を残しながら、それまでとは異なるエッセンスを取り入れてバンドが次のステップに進む。その瞬間を、「プロデュースワークによって見せてもらった」と感じたという。この曲に出会わなければ、アレンジや演奏で満足していたかもしれないと振り返った。
亀田:「今までに聴いたことがない曲と、誰も使っていないような言葉で歌詞を書いているんです。共同制作者みたいな感じで、アルバム作ってもらえないかな」と言われて、ちょうど自分も新しい音楽を作り出したいという気持ちにかられていたときだったので、「ぜひやらせてください」と言ったんです。
亀田の前に現れた椎名は、好きなミュージシャンや楽曲を挙げていった。美空ひばり、ザ・ピーナッツ、マライア・キャリー、当時ブームだったMAX、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の『ドレミの歌』……年代やジャンルに縛られないセレクトに、「おもしろい音楽の聴き方をする子だな」と感じたという。
亀田:自分にフィットする音楽を取り込んで、自分の形でアウトプットする、新しいアーティストが登場してきたなという感じがして、意気投合しました。それから1年かけてプリプロダクションとレコーディングをして、『無罪モラトリアム』を作っていったんです。
亀田は10月17日(土)、オンラインで開催される日本最大級のデジタル・クリエイティブフェスティバル「J-WAVE INNOVATION WORLD FESTA 2020 supported by CHINTAI」に出演。落合陽一、YOASOBI、エンターテック・アクセラレーターの鈴木貴歩と「ソーシャルディスタンス時代の音楽イノベーション」をテーマに語り合う。詳細はこちらから。
『MUSIC FUN !』のYouTubeページには、同番組のトーク動画のほか、ミュージシャンやプロデューサーによる音楽の話が数多く配信されている。
・『MUSIC FUN !』のYouTubeページ https://www.youtube.com/c/musicfun_jp
10月のマンスリープレゼンターはシンガーソングライターの高橋 優。初回となる10月2日(金)のオンエアでは、音楽プロデューサー・亀田誠治がゲストに登場。ここでは、ベースとの出会いや、プロデューサーを志したきっかけ、椎名林檎と対面したときのエピソードを語った部分を紹介しよう。
高橋 優と亀田誠治による「メガネツインズ」
高橋と亀田によるユニット「メガネツインズ」は、2019年に初の全国ツアー「メガネツインズ LIVE TOUR 2019」を開催した。しかし、今年は新型コロナの影響もあり、この収録で初めて顔を合わせることに。高橋:2019年はあんなに行動をともにしていたのに。
亀田:ツアーもレコーディングもやっていたのに、新型コロナの影響でパタッとなくなってしまったね。
高橋:なかなか会いづらいです。今日も間に仕切りがありますね。
亀田:『本能』のミュージックビデオで(椎名)林檎さんが割るやつみたい(笑)。
普段から交流があるふたりはリラックスした雰囲気の中で会話がスタート。最初は「初対面はいつだったか」という話題になった。
亀田: 2011年の震災直後の「風とロック芋煮会」南相馬のステージが初対面でした。
高橋:公園みたいなところで、お客さんも歌う人たちも同じ地面の上でやるみたいな。なんだったらお客さんのほうが高く見えたりする広場で。亀田さんは植村花菜さんのサポートというんですかね。あれはあれで、「なんとかツインズ」とかの名前があったんですか?
亀田:それはジェラシー? 俺がどこかで誰かとやると、すぐに「ツインズですか?」みたいな(笑)。花菜ちゃんは当時、『トイレの神様』が出た直後だったので、「『トイレの神様』をやるとみんな元気になるかな?」と思って行かせていただいて、僕も初めての「風とロック芋煮会」の参加でした。
高橋:あれが初めてだったんですね。
亀田:自分から「風とロック芋煮会」設立者の箭内(道彦)さんに連絡したの。
高橋:そうおっしゃってましたね。あれからもう、ほぼ毎年出られてますもんね。僕らのメガネツインズも福島生まれ福島育ちのユニットということで、2019年にツアーをやらせてもらいました。
亀田の心を動かした『福笑い』
亀田は震災直後に「音楽が流れなかった時期があった」と回顧。再び流れ始めた音楽を聴いたのがJ-WAVEで、曲は高橋の『福笑い』だったという。高橋:そんなに細かく(笑)。2011年上半期で『福笑い』は、ラジオチャート邦楽1位になったみたいです。「あのときに聴いていた」と言ってもらえるのがすごくうれしいんです。亀田さんと初めて会ったとき、それを開口一番でおっしゃってくださったんです。
亀田:同じこと言ってた?
高橋:はい、南相馬で初めて会ったときに。こっちは「ホンモノの亀田誠治だ!」ってビビリ散らしていたんですけど、亀田さんのほうから「おーい、優くん!」って初対面じゃないみたいに僕の楽屋の前に来てくれて(笑)。「『福笑い』聴いたよ」って話してくださいました。そこからメガネツインズのストーリーが始まりました。
音楽ルーツのカギは「母」
続いて高橋が、亀田に「音楽ルーツ」を尋ねた。音楽好きの母の影響が大きかったという。亀田:家のなかは一日中クラシックやザ・ビートルズのレコード、FM放送がかかっていました。流行りの音楽もクラシックも、ずっと音楽が鳴っている環境だった。あとは3歳のときにピアノを習ったんです。
高橋:3歳でピアノって早くないですか?
亀田:両親が教育熱心だったんだと思う。音大生のキレイなお姉さんがピアノの先生で、3歳にしてもう目がハートになっちゃって、先生のことが好きになっちゃって、そこで2年間ぐらい練習しました。
高橋:すごく“健全な”音楽の入り口だったんですね。
亀田:あはは(笑)。そこで若干、音感の基礎みたいなものがついたかな。
その後、小学校2年生のときに小児ぜんそくになってしまった亀田は、学校を1学期丸々休むことになる。その頃からリビングに置かれたステレオやラジオで音楽を聴き始め、「とにかく音楽を聴くのが大好きになった」と振り返る。
高橋:お母さんのレコードラックのなかから、亀田さんセレクションが生まれたんですね。どんな音楽を聴いていたんですか?
亀田:1962~1966年に父と母がアメリカで駐在をしているときに僕がニューヨークで生まれたんです。そのときにニューヨークで買ってきたレコードがいっぱいあって、そのなかのザ・ビートルズが好きになり、赤盤(『ザ・ビートルズ 1962年~1966年』)と青盤(『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』)を自分で買って、夢中になって聴いてましたね。
高橋:初めてご自身で買われたレコードですか?
亀田:そう。それが小学校2年生か3年生のとき。ちょっと早熟でした。
高橋:3歳のころから通っていたピアノの教室は、何歳まで続いたんですか?
亀田:うちが転勤族で、2年弱ぐらいで終わってしまったんです。その後、母親が「クラシックギター講座」という通信教育かなにかで、ギターを買ったんですよ。雑誌の広告で載ってたりするでしょ? でも、ギターを弾かないままずっとリビングのソファーの上に置いていて。小学校5年生ぐらいのある日、ザ・ビートルズのレコードで『Hello, Goodbye』という曲がかかって、「このギターを弾いてみようかな」と思って弾いたのが、ピアノの次に楽器を手にしたときです。その瞬間に『Hello, Goodbye』のベースラインをもう弾いてた。
高橋:ええっ、ギターでベースラインを? 生まれもってのベーシストだったってことですか?
亀田:そういうことなんですよ。
高橋:かっこいいなあ。
亀田:「ジャンケンで負けてベースになった」とか、みんな言うじゃん? でも僕は初めからベースがフィットしていたんです。
お年玉を貯めて、中学2年生のころにベースを購入。その前にはエレキギターも買ったが、あまりフィットしなかったそうだ。当時からプロを目指しており、卒業文集に「武道館で会おうぜ」などと綴っていたと、微笑ましい思い出を明かした。
プロデューサーを志すきっかけになった、サザンオールスターズの一曲
プロとしてのキャリアが始まったのは、25歳くらいのとき。アイドルグループ・CoCoの楽曲に選ばれたことがきっかけだった。楽曲をアレンジすることが好きだった亀田はある日、コンビニでサザンオールスターズの『真夏の果実』を聴いて衝撃を受けた。「イントロからして、すごく美しい旋律」と惹かれてCDを購入すると、プロデュースに小林武史が関わっていると記されていた。
亀田:プロデュースという仕事は、音楽に魔法をかけることができるんだと思ったの。自分も、曲を書いたりアレンジしたりというだけじゃなくて、アーティストと向き合って、楽曲をピカピカに輝かせて多くの人に届かせたい。この曲がプロデューサーを志したきっかけです。
持ち味を残しながら、それまでとは異なるエッセンスを取り入れてバンドが次のステップに進む。その瞬間を、「プロデュースワークによって見せてもらった」と感じたという。この曲に出会わなければ、アレンジや演奏で満足していたかもしれないと振り返った。
椎名林檎の第一印象「おもしろい音楽の聴き方をする子だな」
デビュー前の椎名林檎に出会ったときの思い出も明かされた。レコード会社から電話がかかってきたのだそう。亀田:「今までに聴いたことがない曲と、誰も使っていないような言葉で歌詞を書いているんです。共同制作者みたいな感じで、アルバム作ってもらえないかな」と言われて、ちょうど自分も新しい音楽を作り出したいという気持ちにかられていたときだったので、「ぜひやらせてください」と言ったんです。
亀田の前に現れた椎名は、好きなミュージシャンや楽曲を挙げていった。美空ひばり、ザ・ピーナッツ、マライア・キャリー、当時ブームだったMAX、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の『ドレミの歌』……年代やジャンルに縛られないセレクトに、「おもしろい音楽の聴き方をする子だな」と感じたという。
亀田:自分にフィットする音楽を取り込んで、自分の形でアウトプットする、新しいアーティストが登場してきたなという感じがして、意気投合しました。それから1年かけてプリプロダクションとレコーディングをして、『無罪モラトリアム』を作っていったんです。
『MUSIC FUN !』のYouTubeページには、同番組のトーク動画のほか、ミュージシャンやプロデューサーによる音楽の話が数多く配信されている。
・『MUSIC FUN !』のYouTubeページ https://www.youtube.com/c/musicfun_jp
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2020年10月9日28時59分まで
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