J-WAVEの番組『SEIKO SOUND STORAGE』。ミュージシャンやスポーツ選手など、各界で活躍するゲストがマンスリーで登場します。5月のマンスリーゲストは、公益社団法人 日本フェンシング協会会長・太田雄貴さんです。
太田さんは、2008年の北京オリンピックで個人銀メダルを獲得し、フェンシングで日本初のメダリストとなりました。さらに2012年のロンドンオリンピックでは団体銀メダルを獲得。5月18日(金)のオンエアでは、メダルを獲得するまでの苦悩、そしてメダルを獲得したことで得たことを語りました。
【1回目】フェンシング・太田雄貴「五輪で初メダリストになるのは僕だ」…練習を重ねた少年時代を振り返る
【2回目】スポーツで「ゾーン」に入るとどうなる? フェンシング・太田雄貴が、その感覚を語る
■フェンシングをもっと知ってもらうには…
太田さんが初めて出場した2004年のアテネオリンピックは、9位という結果で終わりました。オリンピックに出られたことで少し満足してしまったそうですが、同じ大会で金メダルを獲得した、水泳・北島康介選手や柔道・野村忠宏選手、ハンマー投げ・室伏広治選手の活躍を目の当たりにして、以下のように思います。
太田:フェンシングをもっと知ってもらうためには、是が非でもメダルを取らなきゃいけないんだなと、改めて痛感させられたオリンピックでした。
アテネオリンピックの経験を経て、4年後に北京オリンピックを迎えます。この大会では、フェンシングに大きなルール変更がありました。フェンシングは、剣の先にボタンのようなものが付いていて、アテネオリンピックではそのボタンが1000分の1秒間沈めば得点となりました。しかし、北京オリンピックでは、1000分の14秒間沈まなければいけませんでした。
太田:この1000分の13秒の差が僕らにとってはものすごく大きな差で、突いても全然得点が付かなかったんです。突いたときに、1000分の14秒間、ぐぅーっと押し続けないといけないんですね。これは僕が得意とする「振り込み」という背中を突く技があるんですけど、今までのやりかたでは全然付かないので、ここでほとんどの選手は「振り込み」をやめる選択をするんです。
しかし、太田さんは「付かないなら付くようになるまでやろう」と思い、「振り込み」の練習を続けます。そうすると、だんだん上達し、「振り込み」は太田さんの武器となりました。その後、ウクライナから来たコーチ、オレグ・マツェイチュクさんの指導を受けながら、北京オリンピックで見事、銀メダルを獲得します。
太田:僕がメダルを取れたということで、次の世代が「自分たちの当たり前がメダルになった」ということが、すごく大きかったと思っています。
実査、太田さんが小学生の大会「太田雄貴杯」を開催した際、出場した小学生がインタビューで「太田選手が取れなかったオリンピックの金メダルを取ります!」と答えたそうです。
■団体で銀メダルを取ったとき…
最後に太田さんは、団体で成果を上げる素晴らしさについて、以下のように語りました。
太田:ロンドンを経て、一番感じたことは、団体の素晴らしさだったんですね。個人スポーツって自分がメダルを取ると、自分が評価してもらうので、一対一の関係なんですね。それが団体だと4人いるので、最初4分の1になるんじゃないかと思ってたんです。注目度とか、やってきた成果とかも含めて。でも、団体で銀メダルを獲得すると、個人の銀メダルよりも嬉しくて、「あれ? 北京の16倍、いや32倍は嬉しいな」みたいに、どんどん倍増していったときに、「人間の喜びの根源って共感なんだな」って気づいたんです。ご飯をひとりで食べるのと4人で食べるのどっちが楽しいっていったら、僕は4人だなって思います。
みんなでひとつの夢に向かって走った時間や体験、経験を共有できたということが、太田さんにとってロンドンピリンピックで一番の思い出であり、財産だと語りました。
次回5月25日(金)は、太田さんの引退決断の支えになった曲、そして2020年の東京オリンピック・パラリンピックへの思いを語ります。ぜひ続けてお聴きください。
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【番組情報】
番組名:『SEIKO SOUND STORAGE』
放送日時:金曜 24時-24時30分
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/soundstorage/
太田さんは、2008年の北京オリンピックで個人銀メダルを獲得し、フェンシングで日本初のメダリストとなりました。さらに2012年のロンドンオリンピックでは団体銀メダルを獲得。5月18日(金)のオンエアでは、メダルを獲得するまでの苦悩、そしてメダルを獲得したことで得たことを語りました。
【1回目】フェンシング・太田雄貴「五輪で初メダリストになるのは僕だ」…練習を重ねた少年時代を振り返る
【2回目】スポーツで「ゾーン」に入るとどうなる? フェンシング・太田雄貴が、その感覚を語る
■フェンシングをもっと知ってもらうには…
太田さんが初めて出場した2004年のアテネオリンピックは、9位という結果で終わりました。オリンピックに出られたことで少し満足してしまったそうですが、同じ大会で金メダルを獲得した、水泳・北島康介選手や柔道・野村忠宏選手、ハンマー投げ・室伏広治選手の活躍を目の当たりにして、以下のように思います。
太田:フェンシングをもっと知ってもらうためには、是が非でもメダルを取らなきゃいけないんだなと、改めて痛感させられたオリンピックでした。
アテネオリンピックの経験を経て、4年後に北京オリンピックを迎えます。この大会では、フェンシングに大きなルール変更がありました。フェンシングは、剣の先にボタンのようなものが付いていて、アテネオリンピックではそのボタンが1000分の1秒間沈めば得点となりました。しかし、北京オリンピックでは、1000分の14秒間沈まなければいけませんでした。
太田:この1000分の13秒の差が僕らにとってはものすごく大きな差で、突いても全然得点が付かなかったんです。突いたときに、1000分の14秒間、ぐぅーっと押し続けないといけないんですね。これは僕が得意とする「振り込み」という背中を突く技があるんですけど、今までのやりかたでは全然付かないので、ここでほとんどの選手は「振り込み」をやめる選択をするんです。
しかし、太田さんは「付かないなら付くようになるまでやろう」と思い、「振り込み」の練習を続けます。そうすると、だんだん上達し、「振り込み」は太田さんの武器となりました。その後、ウクライナから来たコーチ、オレグ・マツェイチュクさんの指導を受けながら、北京オリンピックで見事、銀メダルを獲得します。
太田:僕がメダルを取れたということで、次の世代が「自分たちの当たり前がメダルになった」ということが、すごく大きかったと思っています。
実査、太田さんが小学生の大会「太田雄貴杯」を開催した際、出場した小学生がインタビューで「太田選手が取れなかったオリンピックの金メダルを取ります!」と答えたそうです。
■団体で銀メダルを取ったとき…
最後に太田さんは、団体で成果を上げる素晴らしさについて、以下のように語りました。
太田:ロンドンを経て、一番感じたことは、団体の素晴らしさだったんですね。個人スポーツって自分がメダルを取ると、自分が評価してもらうので、一対一の関係なんですね。それが団体だと4人いるので、最初4分の1になるんじゃないかと思ってたんです。注目度とか、やってきた成果とかも含めて。でも、団体で銀メダルを獲得すると、個人の銀メダルよりも嬉しくて、「あれ? 北京の16倍、いや32倍は嬉しいな」みたいに、どんどん倍増していったときに、「人間の喜びの根源って共感なんだな」って気づいたんです。ご飯をひとりで食べるのと4人で食べるのどっちが楽しいっていったら、僕は4人だなって思います。
みんなでひとつの夢に向かって走った時間や体験、経験を共有できたということが、太田さんにとってロンドンピリンピックで一番の思い出であり、財産だと語りました。
次回5月25日(金)は、太田さんの引退決断の支えになった曲、そして2020年の東京オリンピック・パラリンピックへの思いを語ります。ぜひ続けてお聴きください。
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番組名:『SEIKO SOUND STORAGE』
放送日時:金曜 24時-24時30分
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/soundstorage/
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