2025年8月15日──終戦から80年を迎えた当日に放送された、ラジオ局・J-WAVE『~JK RADIO~ TOKYO UNITED』では、リスナーから「戦争の記憶」を募集。当日は膨大な数のメッセージが寄せられ、その数は一回の放送枠では紹介しきれないほどに及んだ。
そこで、同年12月31日に放送された特別番組『J-WAVE SPECIAL QUEST FOR PEACE』では、この8月15日の放送で取り上げることができなかった貴重なメッセージをあらためて紹介。ナビゲーターのジョン・カビラと、ゲストのジャーナリスト・青木理が、リスナーから寄せられた「個人の記憶」とジャーナリズムが捉える「社会の視点」を交差させ、不安定さを増す国際情勢のなかで私たちが歴史とどう向き合うべきかを考察した。
80年という歳月は記憶と私たちの距離をどう変え、私たちは何を次世代へ繋ぐべきなのか。ここではオンエアの一部を抜粋してテキストで紹介する。
太平洋戦争が始まる10年前の1931年。奉天(現 瀋陽)郊外で起きた線路の爆破事件をきっかけに、現地に駐屯していた日本軍(関東軍)が中国軍を攻撃、中国東北部(満州)を占領下に置いた。これが満州事変だ。日本は関東軍の主導のもと、「満州国」を建国。その後、中国側とたびたび武力衝突が起こり、1937年には中国との全面戦争となった。
ジョン:中国、さらには東南アジアに軍を進めた日本に、アメリカやイギリスが反発し、対立します。1941年12月8日、日本軍はアメリカのハワイ・真珠湾基地を奇襲。同日、イギリスの植民地であったマレーも攻撃し、日本は太平洋戦争に突入しました。
ジョン:同年8月に起こったガダルカナル島の戦いでは、日本の将兵2万人あまりが亡くなりました。米軍も7,000人あまりの兵士が亡くなっています。
ジョン:フィリピンのルソン島。太平洋の戦場ではもっとも多い20万もの日本兵が命を落としたとされる、激戦の地です。米軍も沖縄戦に次ぐ8,000人以上が亡くなっています。また、フィリピン全土では日本人が50万人以上、戦争に巻き込まれ、110万人ものフィリピンの方が亡くなったとされています。
ジョン:大火災が発生し、強風の影響もあって下町の大部分が焼失します。罹災家屋は27万戸、罹災者は100万人。亡くなった方は9万5,000人を超えるとみられています。原爆の投下を除けば、空襲として史上最悪とされています。
ジョン:その後も熱線、爆風、放射線による深刻な健康被害にあった方が多数いらっしゃいました。広島で、この年の年末までに命を落とした方はおよそ14万人にもおよびます。
<61歳のリスナーから届いた「戦争の記憶」>
ジョン:広島の原爆投下から3日後、1945年8月9日11時2分。アメリカ軍は長崎に原爆を投下。爆心地付近では大きな火災が発生しました。この年の年末までに亡くなった方はおよそ7万4,000人。原爆の影響でさまざまな病気になるなど、その後も原爆による被害は人々を苦しめ続けました。
ジョン:戦争の被害者であるというストーリーをみなさんに共有してもらいながら、さらにはおこなってしまった行為の数々もしっかりと語り継ぐというメッセージも多かったように思います。
青木:そうですね。先の大戦を考えると、戦死した人や、過酷な体験を強いられた当事者がいます。同時に、朝鮮半島や台湾、中国、東南アジアなど、日本の無謀な戦争によって苦しみを受けた人々がいたことにも、目を向ける必要があると思います。
ジョン:今回、たくさんのメッセージをいただいたなかで、メディアの責任について書いてくださった方もいらっしゃいます。
青木:いろんなことを考えさせられるメッセージだと思いました。誤解を恐れずに言うと、メディアは残念ながら戦争との相性がいい面があります。
ジョン:といいますと?
青木:たとえば日本の場合でいえば、戦前戦中、特に満州事変を分岐点として、軍部や在郷軍人の圧力で、急速に戦争を煽る側に変わってしまったんですね。
大本営発表や兵士の動向を知るため、戦時中の多くの国民は新聞で情報を収集していた。
青木:戦争報道でラジオもすごく普及していった面があります。ですが、それがはたして本当にいいことなのか、という点が問われますよね。我々が本当に考えないといけないのは、メディアも人の営みですので、ある種の熱狂のなかに陥ってしまう、あるいは熱狂によって醸成された空気のなかに入っていってしまうと、「これ以上はおかしくなる」と言えなくなるポイントがあると思うんです。そういう状況にしないように、メディアや政治家、影響力のあるオピニオンリーダーは、危ない潮流に対して「これで大丈夫ですか」と言い続けなければいけないですよね。
番組では、国連加盟国のうち、1945年以降に戦争を経験していない国は、日本を含めても10カ国に満たないのが現実だ。
青木:一方で、この国の戦後の経済発展における最初の大きな跳躍は朝鮮戦争でした。また、ベトナム戦争では隣国の韓国が参戦した一方で、日本は直接の参戦を免れました。しかし、沖縄からは米軍機が次々と飛び立っており、日本も間接的には関わっていたわけですよね。その現実と、80年間、人を殺し、殺されずにきたという理想。その両方を噛み締めながら、僕はこの先も、それを守る国であってほしいと思いますし、そうした国の住人でありたいと思います。
ジョン:平和がどれほど尊いものかは、平和ではない経験をした人たちの想いを受け止め、それを受け継いでいくことにこそ、鍵がありそうですね。
80年前の記憶を「過去の出来事」として終わらせるのではなく、いまを生きる私たちの問題として捉え直す。『J-WAVE SPECIAL QUEST FOR PEACE』は、そんな対話の種を蒔く時間となった。
そこで、同年12月31日に放送された特別番組『J-WAVE SPECIAL QUEST FOR PEACE』では、この8月15日の放送で取り上げることができなかった貴重なメッセージをあらためて紹介。ナビゲーターのジョン・カビラと、ゲストのジャーナリスト・青木理が、リスナーから寄せられた「個人の記憶」とジャーナリズムが捉える「社会の視点」を交差させ、不安定さを増す国際情勢のなかで私たちが歴史とどう向き合うべきかを考察した。
80年という歳月は記憶と私たちの距離をどう変え、私たちは何を次世代へ繋ぐべきなのか。ここではオンエアの一部を抜粋してテキストで紹介する。
隣にいた戦友が目の前で命を落とした
本番組では、歴史の推移をたどりながら、そこに重なるリスナーの「声」を紐解いた。太平洋戦争が始まる10年前の1931年。奉天(現 瀋陽)郊外で起きた線路の爆破事件をきっかけに、現地に駐屯していた日本軍(関東軍)が中国軍を攻撃、中国東北部(満州)を占領下に置いた。これが満州事変だ。日本は関東軍の主導のもと、「満州国」を建国。その後、中国側とたびたび武力衝突が起こり、1937年には中国との全面戦争となった。
ジョン:中国、さらには東南アジアに軍を進めた日本に、アメリカやイギリスが反発し、対立します。1941年12月8日、日本軍はアメリカのハワイ・真珠湾基地を奇襲。同日、イギリスの植民地であったマレーも攻撃し、日本は太平洋戦争に突入しました。
<69歳のリスナーから届いた「戦争の記憶」>
「私の父は、1920年生まれで、1940年に陸軍に入営し、1946年まで中国で過ごしました。私が大人になってから、父が話してくれた戦闘体験には凄まじいものがありました。
中国でのこと、乾季のある日、干上がったクリーク(水路)の中を歩いていて、いきなり中国の部隊とバッタリ出くわしてしまったのです。出会い頭に戦闘が始まり、互いに発砲。すぐ隣にいた戦友は 眉間に銃弾を受けて「う〜っ」と言ったきり絶命したそうです。父が死んでいてもおかしくない状況で、その話を忘れることができません。
父は敗戦から一年後、船で広島に帰ってきました。「列車の窓から見た広島の街は全てが破壊されていて驚いた」と語っていました。
その後、田中角栄首相が中国に渡って国交を回復した時、「やっと中国との戦争が終わったんだよ。戦争はやっちゃあいけないんだよ。」と父がしみじみ語っていたのを思い出します。父はその後、3度中国を訪れました。」
「肉親の嘆きを、戦争は常に黙殺してしまう」
太平洋戦争開戦後、日本軍はアジア、太平洋の広い地域を占領した。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で敗北し、戦況は急速に悪化。日本は制空権、制海権を失い、南太平洋の基地も次々と奪われていった。ジョン:同年8月に起こったガダルカナル島の戦いでは、日本の将兵2万人あまりが亡くなりました。米軍も7,000人あまりの兵士が亡くなっています。
<73歳のリスナーから届いた「戦争の記憶」>
「他界した母の話によりますと、父は日本の航空会社に勤めていましたが、世界大戦が始まった頃は 会社の人事異動でフィリピンに単身赴任。そこへ赤紙が届き、現地で戦争に召集されました。
連合軍のマニラへの進出が進み、南方航空輸送部隊から派遣され父が働いていた ルソン島のバギオにも 連合軍の空爆が及びます。留まって切り抜けるか、脱出して山の向こうのソラノへ援軍を呼びに行くか、という選択を迫られたそうです。
どちらも死ぬ可能性がありましたが、父は脱出組5人を率いて他の日本軍の小部隊と共に山道を歩き出しました。終戦後、父は生きて日本に戻り、後に「バギオ脱出記」と題した原稿用紙104枚の戦場記録を残しました。記録を物語風に書き、自分の名前を吉良と変えています。その中から抜粋した文章をシェアさせて頂きます。」
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「また1人の兵隊の命が黙殺されてしまった。谷底への転落は死を意味する。捜索は困難であり絶望である。吉良は、眠りながら落ちて行った兵隊の姿を想像して、祈らずにはいられなかった。
吉良は余りにも多くの死を見過ぎてきた。一度に200人の生命が四散した事もある。目の前で輸送機が墜落するのを見た事もある。後頭部をえぐられて血みどろになった兵隊、沈みながら最後まで火を吐き続ける甲板の大砲とその砲手。それらの悲壮な映像は吉良の眼底にあまりにも強く焼き付けられている。
1分前、5分前に愉快に話し合っていた戦友が、ぽっくり死体になる現実はあまりにも悲惨である。安い兵隊の命。彼らにも父母があり、兄弟があり、妻子恋人があるはずだ。それらの肉親の嘆きを、戦争は常に黙殺してしまう。」
ジョン:フィリピンのルソン島。太平洋の戦場ではもっとも多い20万もの日本兵が命を落としたとされる、激戦の地です。米軍も沖縄戦に次ぐ8,000人以上が亡くなっています。また、フィリピン全土では日本人が50万人以上、戦争に巻き込まれ、110万人ものフィリピンの方が亡くなったとされています。
死体の山を積み上げた東京大空襲の記憶
1944年11月24日、B29による東京への本格的な空襲が開始された。当時の空襲は飛行機工場と産業都市を目標とする戦略爆撃が中心だったが、達成できない際は市街地への無差別爆撃も行われた。爆撃の内容が大きく変わったのは、1945年3月10日の東京大空襲。人口密度が高い市街地を目標に、大量の焼夷弾が投下された。ジョン:大火災が発生し、強風の影響もあって下町の大部分が焼失します。罹災家屋は27万戸、罹災者は100万人。亡くなった方は9万5,000人を超えるとみられています。原爆の投下を除けば、空襲として史上最悪とされています。
<57歳のリスナーから届いた「戦争の記憶」>
「私の父は、昭和5年生まれ。私が生まれて物心ついた頃から いつもいつも 東京大空襲の話をしていました。1945年3月10日、父は、自分の父親と浅草の家にいました。母親はすでに他界、弟と妹は他の県に疎開中でした。
燃え盛る街の中をどのように逃げたのか、記憶にないそうです。敵機が去り、火が収まった後に見た光景は、まさに焼け野原。死屍累々、たくさんの犠牲者が横たわり、中には、子どもを抱いたお母さんらしきご遺体もあったそうです。隅田川に行くと、熱さに追われて川に飛び込んだ人たちが川面を覆い尽くしていたそうです。
父は生き残った人たちとご遺体を集め、街にはご遺体の大きな山がいくつもできたと話していました。 そして、その話を一通りした後、必ずこう言いました。「戦争はね、2度と起こしてはいけないんだよ」父は88歳で他界するまで、この経験を何度も何度も相手が誰であろうと伝え続けていました。」
被爆者の体液を掃除する生徒たち
1945年8月6日8時15分、アメリカ軍は人類史上初となる原子爆弾を広島に投下した。当時、約35万人が暮らしていた広島では、爆心地付近で熱線を浴びた人々が即死、または数日以内に命を落とし、半径2キロ以内の地域は壊滅した。ジョン:その後も熱線、爆風、放射線による深刻な健康被害にあった方が多数いらっしゃいました。広島で、この年の年末までに命を落とした方はおよそ14万人にもおよびます。
<61歳のリスナーから届いた「戦争の記憶」>
「亡き母より聞いた原爆体験の話です。母は日本三景の宮島生まれ 宮島育ち、原爆が投下された8月6日午前8時15分、授業中だった母の通う小学校の窓ガラスが全て爆風で壊れたそうです。
翌日から、島には 全身焼けただれた被爆者が運びこまれ、学校は治療の場となりました。廊下は被爆者の体液で染まり、それを毎日掃除するのが生徒の役目だったといいます。そんな事を小学生にさせるなんて今では考えられないでしょう。
被爆者は結婚してはいけないと自らに言い聞かせ独身を貫く方も多かったと聞きます。あらゆる自由を奪ってしまう戦争は2度とあってはならない。そう強く心に刻んでいます。」
ジョン:広島の原爆投下から3日後、1945年8月9日11時2分。アメリカ軍は長崎に原爆を投下。爆心地付近では大きな火災が発生しました。この年の年末までに亡くなった方はおよそ7万4,000人。原爆の影響でさまざまな病気になるなど、その後も原爆による被害は人々を苦しめ続けました。
戦意を煽ったメディアの責任を考える
番組後半には、ジャーナリストの青木 理をゲストに迎え、終戦から80年を迎えたいまの世界情勢のなかで、戦争の記憶とどう向き合うべきかをともに考えた。ジョン:戦争の被害者であるというストーリーをみなさんに共有してもらいながら、さらにはおこなってしまった行為の数々もしっかりと語り継ぐというメッセージも多かったように思います。
青木:そうですね。先の大戦を考えると、戦死した人や、過酷な体験を強いられた当事者がいます。同時に、朝鮮半島や台湾、中国、東南アジアなど、日本の無謀な戦争によって苦しみを受けた人々がいたことにも、目を向ける必要があると思います。
ジョン:今回、たくさんのメッセージをいただいたなかで、メディアの責任について書いてくださった方もいらっしゃいます。
<リスナーからのメッセージ>
戦争の悲惨な話を次の世代に引き継ぐことは重要です。それと同じくらいなぜ戦争が起きたのかという歴史を学ぶことも重要です。政治家や軍人、マスコミが何を言ったのか、何を言わなかったのか。当時の社会がそれをどう受け止めたのか。
詳しい内容を知りえずして戦争は回避できないと思います。戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、戦争が起きてしまった過程を伝えることが出来れば、将来起きる戦争のいくつかは回避できるのではないでしょうか?
青木:いろんなことを考えさせられるメッセージだと思いました。誤解を恐れずに言うと、メディアは残念ながら戦争との相性がいい面があります。
ジョン:といいますと?
青木:たとえば日本の場合でいえば、戦前戦中、特に満州事変を分岐点として、軍部や在郷軍人の圧力で、急速に戦争を煽る側に変わってしまったんですね。
大本営発表や兵士の動向を知るため、戦時中の多くの国民は新聞で情報を収集していた。
青木:戦争報道でラジオもすごく普及していった面があります。ですが、それがはたして本当にいいことなのか、という点が問われますよね。我々が本当に考えないといけないのは、メディアも人の営みですので、ある種の熱狂のなかに陥ってしまう、あるいは熱狂によって醸成された空気のなかに入っていってしまうと、「これ以上はおかしくなる」と言えなくなるポイントがあると思うんです。そういう状況にしないように、メディアや政治家、影響力のあるオピニオンリーダーは、危ない潮流に対して「これで大丈夫ですか」と言い続けなければいけないですよね。
番組では、国連加盟国のうち、1945年以降に戦争を経験していない国は、日本を含めても10カ国に満たないのが現実だ。
青木:一方で、この国の戦後の経済発展における最初の大きな跳躍は朝鮮戦争でした。また、ベトナム戦争では隣国の韓国が参戦した一方で、日本は直接の参戦を免れました。しかし、沖縄からは米軍機が次々と飛び立っており、日本も間接的には関わっていたわけですよね。その現実と、80年間、人を殺し、殺されずにきたという理想。その両方を噛み締めながら、僕はこの先も、それを守る国であってほしいと思いますし、そうした国の住人でありたいと思います。
ジョン:平和がどれほど尊いものかは、平和ではない経験をした人たちの想いを受け止め、それを受け継いでいくことにこそ、鍵がありそうですね。
80年前の記憶を「過去の出来事」として終わらせるのではなく、いまを生きる私たちの問題として捉え直す。『J-WAVE SPECIAL QUEST FOR PEACE』は、そんな対話の種を蒔く時間となった。
番組情報
- J-WAVE SPECIAL QUEST FOR PEACE
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12月31日(水)19:00-20:45