音楽評論家・湯川れい子「戦死した兄が吹いた“口笛”の思い出」

音楽評論家の湯川れい子さんが、戦争の記憶や音楽との出会いについて語った。

湯川さんが登場したのは、J-WAVE『JUST A LITTLE LOVIN'』(ナビゲーター:中田絢千)のコーナー「LIVING ON THE EARTH」。豊かさ・幸せにつながるオピニオンを週替わりのゲストに伺うコーナーだ。ここでは8月11日(月)のオンエア内容をテキストで紹介する。

【radikoで聴く】
13日(水)OA分:https://radiko.jp/share/?sid=FMJ&t=20250813051158
14日(木)OA分:https://radiko.jp/share/?sid=FMJ&t=20250814051150
※それぞれ再生期限はオンエアの1週間後まで

終戦の年の4月、長兄がフィリピンで戦死

音楽評論家としてはもちろん、作詞家やラジオDJなど、幅広い活動で長年活躍してきた湯川さん。戦時中を知る世代として、そして、音楽の世界で半世紀以上にわたって第一線を走り続けてきた彼女に、当時の記憶や音楽との出会いについて訊いた。

中田:今年、2025年は戦後80年ということで、当時を知る湯川さんにそのころのお話を伺いたいと思います。湯川さんは東京の目黒区生まれで、お育ちになったのは山形ですか?

湯川:はい。東京が大空襲になるのがわかっていたものですから、その前年に戦火を逃れて、父方の祖母の山形の大きなりんご農園に疎開しました。

中田:幼いころは、どのようなご家庭だったのですか?

湯川:山形の米沢というところは上杉鷹山公のお膝元で、決して豊かなところではなかったのですが、「文武両道」を非常に奨励していたところで、父も海軍の兵学校に行きまして、私が生まれたときはもう海軍の大佐でした。私は母が40歳、父が50歳のときの子どもで、ひと回り上の姉がいるというくらい最後に生まれてきた末っ子なので、すごく大事に育ててもらいました。しかし、4歳、5歳くらいのころには戦争の足音が聞こえてくるようになって、8歳のときにはもう父は亡くなり、9歳で終戦を迎えました。

中田:いろいろなところで、当時の貴重なお話を語り継がれていらっしゃると思いますが、戦時中や終戦の日のことは覚えていらっしゃいますか?

湯川:東京が大変な空襲に遭うということは情報として認識されていたと思いますが、いちばん上の兄は陸軍で召集されてフィリピンの戦場に行っていて、残念ながら終戦の年の4月に戦死してしまいました。2番目の兄は桜花隊の特攻で「これから戦場へ行って参ります」というラジオの放送を私と母は米沢で聞いています。それで、「もう突っ込んで死んでしまった」と認識していたのですが、意外なことにその兄が戦後3年経って帰ってきてくれました。でも、そのときは兄たちも父も死んで母とふたりきりになってしまったと思いながら、米沢で暮らしていました。

「アメリカが入ってきたらこれで自害しなさい」

疎開先の山形県米沢で終戦を迎えた湯川さん。その翌日に起こった忘れられない出来事を明かす。

湯川:仏壇にフィリピンで戦死した兄の遺影と、その年の4月に肺炎をこじらせて死んでしまった父の遺影が飾ってある米沢の和室で母に正座させられて、「もし、アメリカが入ってきて辱めを受けるようなことがあったら、これで自害しなさい」と言われました。そして、その自害の作法を母から教わりました。

中田:自害の作法……。

湯川:私がお嫁に行くときに持って行く(ことになっていた)きれいな懐剣を前に置かれて、「これで、こういうふうに死になさい」と作法を教わりました。

中田:当時、お母様からそのような作法を教わられて、どのような心境だったのでしょうか?

湯川:外に友だちが「あそばんねか~」なんて言いに来ていて、私はそっちのほうばっかり気になっていました(笑)。ですから、「こうやって喉元に白紙を巻いた短剣を当てて、そのまま突っ伏しなさい」と、座布団の上で練習させられていて、「痛そう!」と思ったことしか覚えていません。

中田:当時は、そこまでシリアスな話として捉えられていなかった?

湯川:わからなかったですね。大きくなってから、「辱めを受ける」という言葉の意味を初めて理解するんですけど、そのときは「鬼畜米英と言われていた鬼みたいな人たちが上がってきたときに、恐ろしい思いをするくらいならこうやって死になさい」という意味だろうと、解釈していました。

音楽の道を開くきっかけになった兄の存在

1959年、ジャズ評論家として音楽の世界への一歩を踏み出した湯川さん。彼女と音楽の関係を紐解くキーポイントのひとつが、フィリピンで戦死した長兄の存在だという。

中田:お兄様は、どんな方だったのですか?

湯川:私より18歳上で、大学にのどかに行っていて乗馬が好きで、アコーディオンとピアノが上手な兄でした。絵も本当に上手で音楽も大好きで、習ったわけでもないのにピアノも上手でした。

そんな湯川さんの長兄だが、敗戦の前年、大学を卒業すると同時に召集令状、いわゆる赤紙が届き、戦地に行かなければいけなくなる。

湯川:そのころ、私と母はまだ東京の家にいて、最後の休暇で兄が帰ってきたときに、広い庭の隅っこに防空壕を掘って行ってくれたんです。3日間、防空壕を掘ってくれているあいだ、兄がすごくメロディのきれいな口笛を吹いていたんです。まだ8歳くらいの私とちょっと病弱な母はおままごとをしながら、汗まみれになって上がってくる兄におしぼりをしぼったり、お茶を出したり、梅干しを出したりしていて、私は3日間(その曲を)聴いて覚えてしまいました。そして、最後の日だと思いますが、兄が上がってきたときに「お兄ちゃまが吹いているその口笛は、何という歌ですか?」と訊いたら、「僕が作った曲だよ」と言ったんです。「そんなきれいな曲を作るんだ!」と思って覚えていたんですけど、戦後、中学1年くらいのころに風邪を引いて熱を出して寝ているときに、たまたま音楽が多い米軍の放送をつけていたんですけど、そこからそのメロディが流れてきました。「初めて聴くのに、なぜ歌えるの?」と思ったら、あの兄の口笛の曲でした。それが不思議で不思議で、「なんで『僕が作った曲だよ』と言ったんだろう?」「あれはうそだったんだろうか?」と、すごく大きなクエスチョンマークになって。それがちょうど、兄が口笛を吹いていた戦争中のアメリカで大ヒットしていた、ハリー・ジェームス・オーケストラの『SLEEPY LAGOON』という曲だったことが、3年ほどかかってわかりました。私がわかったときには、もう『午後の入江』という日本語タイトルがついていて、いまでもよくラジオでかかりますよ。

中田:お兄様はこのメロディ、どこで聴かれていたのでしょうね?

湯川:国際ラジオとか、もしかしたら、アメリカ側が意図的に流している深夜放送とか、そういうもので聴いていたのでしょうし、あるいは最後の最後まで神田の本屋さんなんかでもレコードを売っていたと思います。

中田:そのお兄様の口笛ソングが、湯川さんを作る原点になったということでしょうか?

湯川:はい。いまでも私は、半分は、戦死した兄と生きていると思っています。

中田:自慢のお兄様だったのですね。湯川さんには、今週4日間にわたって1日1曲、選曲をしていただきますが、曲紹介をお願いできますか。

湯川:はい。ちょうど真珠湾攻撃があって、日本とアメリカとの戦争の火蓋が切られる、そのころにアメリカでヒットしていたと言われる曲です。

湯川さんは、ハリー・ジェームス・オーケストラの『SLEEPY LAGOON』をリクエストした。



ナビゲーターの中田は、湯川さんの言葉を振り返りながらコメントし、コーナーを締めくくった。

中田:印象的だったのは、戦時中という厳しい時代のなかでも、子どもらしい感覚や日常の明るさがちゃんと残っていたことです。「友だちが遊びにくるほうが気になっていた」というエピソードがありましたが、当時の湯川さんの姿がふっと浮かび、緊張感のある毎日だったとは思いますが、そんななかでも「人の心は、完全には戦争に覆われない」というところをすごくリアルに感じましたね。そして、音楽の原点。湯川さんの場合は、ご家族の物語や戦争の記憶、そしてそのなかで聴いた1曲が深く結びついているというお話でした。敵国とされていた地の音楽が、家族の温かい思い出として湯川さんのなかで生き続けている。その話を、そして音楽を、ときを超えて私たちがいま聴いているのは、なんだかとても不思議で、貴重なことでもありますよね。

『JUST A LITTLE LOVIN'』のコーナー「LIVING ON THE EARTH」では、豊かさや幸せについて考えるヒントを、ゲストを迎えてお届けする。放送は毎週月~木曜の5時15分ごろから。
番組情報
JUST A LITTLE LOVIN'
月・火・水・木曜
5:00-6:00

関連記事