漫画『チ。-地球の運動について-』の原作者・魚豊(うおと)が、自身の作品作りへの想いを語った。
魚豊が登場したのは、7月13日(日)に放送されたJ-WAVE『J-WAVE SELECTION PROUDMEN. TAKRAM RADIO』(ナビゲーター:渡邉康太郎)。2018年10月から2025年3月まで放送していたJ-WAVE『TAKRAM RADIO』が一夜限りの復活。ゲストの魚豊とナビゲーターの渡邉は「信念を貫く創作論」をテーマにトークを繰り広げた。
なお、トークのフルバージョンはSpotifyなどのポッドキャストで配信中。
・ポッドキャストページ
魚豊:個人間以外のオープンな場で、しかもそれが配信されてしゃべること、配信されたものを聴くことに「無意識の検閲」をみんなが持っている。炎上したくない、そういうもので自分を感動させることが減ってきているな、というのはすごく思います。生きている人間が自分という存在でしゃべることというのに限界がある世代で「公共空間では本当のことって言ってくれないだろうな」と思いながら聞いているというか。
渡邉:なるほどね。
魚豊:僕もできるだけオープンな場で本当のことを言おうと思っていますけど、自分のなかのそういう検閲に飲まれているのが切ないなと思います。
渡邉:むき出しの本音が吐露されているものに触れたいと。
魚豊:なぜかそういうものが好きになっちゃったから、そういう人間になっているというか。歳を取るにつれて、どんどんシンプルなものが好きになっていく一方、言葉はシンプルじゃなくなっちゃっている感じがあります。
渡邉:自らがある種、異端であるということじゃないですか。それこそ『チ。』とつながってくるかもしれないけど、自分の信念がいまの社会の常識とちょっとズレちゃっているかもしれない。
魚豊:「みんな嘘つくなよ」って思っている。嘘ばっかりじゃんみたいな。そう思うから本当のことを僕は自分なりに探して、それを描きたいと思っています。
渡邉:あらゆる人は90パーセントくらいでだいたい満足していて、10パーセントどうしても許せない部分がある。そこのいちばん優先順位が高い、許せない部分がなにか。逆に言うと、センサーシップ(検閲)が働いていたとして、その除外されている範囲にその人Aさんが本当にやりたいこととか、表現したいことがないかもしれない。魚豊さん自身は、相当いま不満を抱えながら?
魚豊:不満というか楽しくない、面白いものがないということですね。これは本当にそうだと思っています。これはみんなが嘘ついているから、どんどん嘘が本当になっちゃっている。ここ数年会う人は業界の人が多いので、そうすると「どういう作品が面白いですか?」と訊いて、みんな今年あったこれがいい、あれがいいとか言うんですけど。ほんとはそんな毎年面白い作品があるわけじゃない。そんなの社交の嘘なんですよ。
魚豊:「この面白いところがあるからいいか」って、どんどん拡大していって。顕微鏡を使って「この要素はこういうふうに楽しめるかもね」みたいな。それ自体はもちろん豊かさ、鑑賞者としては豊かさなので、僕が会う人たちは、そういう仕事なのでいいと思うんです。でも、作家側がそれをやると本当に甘えた作品になるし。僕は全然甘えている作家だからそういうことをやっちゃうんですけど、でもやっぱり「それでいいんだっけ?」みたいなことが増えすぎて。1年のうちに出る面白いものって、少なくなっている。過去の作品のほうが全然面白い。いや、昔からそうなのかもしれないですけどね、過去の名作と1年間で出た作品だとそれは過去の名作のほうがすごいけど。にしても漫画に限って言えば「2016年のほうが面白かったんじゃね」とか、そのレベルで思っちゃう。それは単に懐古主義とも思わないんですよね。
渡邉:ちなみに、魚豊さん自身の創作のなかで「うっかりセンサーしてしまったかも?」と思ったことってありますか?
魚豊:検閲ということですか? それはないですね。それだけはしない、1回もしてないと思います。
渡邉:それはすごいことだと思っていまして。たとえば、『チ。』だったら最初は拷問のシーンから始まるじゃないですか。ある程度ショッキングだと思いますが、それを描くときに「本当はもっと描きたい」というのもなく、ちょうどいいライン。
魚豊:危険な思考ですけど、僕は自分にすごく大衆意識があると勝手に思い込んじゃっているんです。このくらいのことはみんな許してくれるし、このくらいから引くよな、という。もちろん疑ってもいるんですけど、自分の倫理規範は一般的ではないと当然思いつつ。あとは自分が健常者で男性で20代となったときに、そこで引かれる「わからないライン」が絶対にあるから。それにも自覚的でいようとは思っています。でも全然、限界がいっぱいあるなかで、それでも比較的「これを読んだときにこう伝わってほしい」と、多くの人にそう伝わるように描いているつもりです。ある時期からみんな「誤読こそが可能性」とか「偶然性の戯れに芸術性があるんだ」みたいにみんな言ってる。その発想自体はめちゃ面白いし僕も超好きなんですけど、それを金科玉条にして「この紋所が目に入らぬか」的な感じで、みんなが「いやいや偶然性がいいじゃん」みたいなことを言い始めるのはどうかと。
渡邉:ちょっと違うと。
魚豊:そこはちゃんと詰めて、100で伝えたらその情報量が98くらいまでしか削がれずに伝わるみたいなことが、物語を読むとか伝えることのよさであるはずなんです。「創作的に戯れようよ」みたいなのが、あまりに意見を得すぎている。それって、なんかハックがうますぎるというか。作家が市場や読者に甘えて、それ前提で物語を作るしかない現状が「なにこれ?」って思います。脳に汗かいてないやんって。いや、自分も偉大な作家と比べたら屁みたいなもんなんですが。
渡邉:たとえば、ある映画を観終わったあと、人が感動して映画について語り合っているときって、必ずしもその映画を語っているというよりは、自分がどんな人生を歩んできてその映画を観たのかという。実は、映画の外側にある自分の人生の体重を乗っけていることが大事。そこで語られているのは、実は映画自体ではないこと、というのをすごく微笑ましく思うんです。この人にしかできない読解があるというか、そうなったときに、それって2パーセントの理論とどう合致するのか、しないのかと。
魚豊:作り手側が誤読に甘えすぎると、なにやってもいいんですよね。モンタージュでこれとこれを並べて「こういうものなんだ」と読者側が勝手につないでくれるでしょ? という意識でやるのは、あまりいい姿勢だと僕が思わないというか、それがなによりも楽とわかるから。そのコンセプト自体を最初に作った現代美術家や文学者はすごいと思いますよ。だけどいま、この時代にそれをやっている人たちは、新しいことをなにもやらずにその人らの真似してるだけと思っちゃう。作家側はそこに「絶対にこう伝わってほしい」という想いで描くべきだと思う。こう伝わってほしいというか、そうじゃないと描く意味がなくなるというか。
魚豊は今後の展望についても語った。作品を作り続けてきたからこその悩みもあるという。
魚豊:やりたいのは見つかって、またこのテーマでやったらある程度深くというか、ある程度の長さになるだろうなという。人間と社会に関するテーマが、いま衣食住で3本ずつ描きたいなと思っているので、それはあるんですけど。もっとテクニカルな話で、じゃあ主人公像をどうしようとか、主人公の感じ。テーマとかはあるんですね、やりたいことはいっぱいあるんです。1話の構想や1巻のことや主人公……主人公に師匠がいたり、友だちや弟子がいたりしたら、そいつらの関係性とかが毎回似てきちゃっているというか。
渡邉:なるほど、そういうことですね。
魚豊:そこが普通にテクニカルな悩みです。しかもさらに言うなら、いま締め切りもないし、『チ。』が売れてくれたおかげで、貯金もありがたいことに数年働かなくてもいいぐらいはある。究極の自己満足の行為のはずだけど「自分はなんで悩んでいるんだろう」みたいな。いや、もちろん面白い作品を召喚する為の悩みなんですけどね。けど、仲間だと思える人もいないので、そうなったときに「これ、なんのために」みたいな(笑)。そういうことは思っています。
渡邉:そのテクニカルな問題はどう乗り越えられるんですか?
魚豊:考え続けるしかないですよね。「このパターンでやったらこうなるから、こっちのパターンか」とか、それは何回も描いて。描く前に脳のなかで「これつまらないな」「これだったらいけそうかな」と思って描いたら「ああ、ちょっとダメだ」とか。最終的には自分でなにが面白いかわからなくなるので、「これで見せて、いいかどうか訊こう」というので見せたら「いいですね」と言われるときもあれば「悪いですね」と言われるときもあって。全然うまくなっていったとか、そういう実感はないですね。もちろん「こういうパターンのとき、こう返す」とか、そういう手癖みたいなのはできてきちゃっているんですけど。それがクリエイティビティやイノベーションだと思わないので、そうなるとまた「面白いってなんだろう?」みたいな。なにをもってして面白いんだろう? みたいなのはすごく難しいなっていま思っています。
魚豊が登場したのは、7月13日(日)に放送されたJ-WAVE『J-WAVE SELECTION PROUDMEN. TAKRAM RADIO』(ナビゲーター:渡邉康太郎)。2018年10月から2025年3月まで放送していたJ-WAVE『TAKRAM RADIO』が一夜限りの復活。ゲストの魚豊とナビゲーターの渡邉は「信念を貫く創作論」をテーマにトークを繰り広げた。
なお、トークのフルバージョンはSpotifyなどのポッドキャストで配信中。
・ポッドキャストページ
魚豊が感じている「無意識の検閲」
魚豊は2018年に『マガジンポケット』にて『ひゃくえむ。』で連載デビュー。週刊『ビックコミックスピリッツ』で2020年から連載を開始した『チ。-地球の運動について-』は第26回手塚治虫文化賞大賞をはじめとする、数々の漫画賞を受賞し、NHKにてテレビアニメ化。2025年10月に舞台化も決定。なお、『ひゃくえむ。』は2025年9月に劇場アニメ化されることも決定している。魚豊:個人間以外のオープンな場で、しかもそれが配信されてしゃべること、配信されたものを聴くことに「無意識の検閲」をみんなが持っている。炎上したくない、そういうもので自分を感動させることが減ってきているな、というのはすごく思います。生きている人間が自分という存在でしゃべることというのに限界がある世代で「公共空間では本当のことって言ってくれないだろうな」と思いながら聞いているというか。
渡邉:なるほどね。
魚豊:僕もできるだけオープンな場で本当のことを言おうと思っていますけど、自分のなかのそういう検閲に飲まれているのが切ないなと思います。
渡邉:むき出しの本音が吐露されているものに触れたいと。
魚豊:なぜかそういうものが好きになっちゃったから、そういう人間になっているというか。歳を取るにつれて、どんどんシンプルなものが好きになっていく一方、言葉はシンプルじゃなくなっちゃっている感じがあります。
渡邉:自らがある種、異端であるということじゃないですか。それこそ『チ。』とつながってくるかもしれないけど、自分の信念がいまの社会の常識とちょっとズレちゃっているかもしれない。
魚豊:「みんな嘘つくなよ」って思っている。嘘ばっかりじゃんみたいな。そう思うから本当のことを僕は自分なりに探して、それを描きたいと思っています。
渡邉:あらゆる人は90パーセントくらいでだいたい満足していて、10パーセントどうしても許せない部分がある。そこのいちばん優先順位が高い、許せない部分がなにか。逆に言うと、センサーシップ(検閲)が働いていたとして、その除外されている範囲にその人Aさんが本当にやりたいこととか、表現したいことがないかもしれない。魚豊さん自身は、相当いま不満を抱えながら?
魚豊:不満というか楽しくない、面白いものがないということですね。これは本当にそうだと思っています。これはみんなが嘘ついているから、どんどん嘘が本当になっちゃっている。ここ数年会う人は業界の人が多いので、そうすると「どういう作品が面白いですか?」と訊いて、みんな今年あったこれがいい、あれがいいとか言うんですけど。ほんとはそんな毎年面白い作品があるわけじゃない。そんなの社交の嘘なんですよ。
「面白い」は劣化しているのか
魚豊はそういった嘘の「面白い」を言い続けることで、言葉が劣化していくのではないかと持論を展開した。魚豊:「この面白いところがあるからいいか」って、どんどん拡大していって。顕微鏡を使って「この要素はこういうふうに楽しめるかもね」みたいな。それ自体はもちろん豊かさ、鑑賞者としては豊かさなので、僕が会う人たちは、そういう仕事なのでいいと思うんです。でも、作家側がそれをやると本当に甘えた作品になるし。僕は全然甘えている作家だからそういうことをやっちゃうんですけど、でもやっぱり「それでいいんだっけ?」みたいなことが増えすぎて。1年のうちに出る面白いものって、少なくなっている。過去の作品のほうが全然面白い。いや、昔からそうなのかもしれないですけどね、過去の名作と1年間で出た作品だとそれは過去の名作のほうがすごいけど。にしても漫画に限って言えば「2016年のほうが面白かったんじゃね」とか、そのレベルで思っちゃう。それは単に懐古主義とも思わないんですよね。
渡邉:ちなみに、魚豊さん自身の創作のなかで「うっかりセンサーしてしまったかも?」と思ったことってありますか?
魚豊:検閲ということですか? それはないですね。それだけはしない、1回もしてないと思います。
渡邉:それはすごいことだと思っていまして。たとえば、『チ。』だったら最初は拷問のシーンから始まるじゃないですか。ある程度ショッキングだと思いますが、それを描くときに「本当はもっと描きたい」というのもなく、ちょうどいいライン。
魚豊:危険な思考ですけど、僕は自分にすごく大衆意識があると勝手に思い込んじゃっているんです。このくらいのことはみんな許してくれるし、このくらいから引くよな、という。もちろん疑ってもいるんですけど、自分の倫理規範は一般的ではないと当然思いつつ。あとは自分が健常者で男性で20代となったときに、そこで引かれる「わからないライン」が絶対にあるから。それにも自覚的でいようとは思っています。でも全然、限界がいっぱいあるなかで、それでも比較的「これを読んだときにこう伝わってほしい」と、多くの人にそう伝わるように描いているつもりです。ある時期からみんな「誤読こそが可能性」とか「偶然性の戯れに芸術性があるんだ」みたいにみんな言ってる。その発想自体はめちゃ面白いし僕も超好きなんですけど、それを金科玉条にして「この紋所が目に入らぬか」的な感じで、みんなが「いやいや偶然性がいいじゃん」みたいなことを言い始めるのはどうかと。
渡邉:ちょっと違うと。
魚豊:そこはちゃんと詰めて、100で伝えたらその情報量が98くらいまでしか削がれずに伝わるみたいなことが、物語を読むとか伝えることのよさであるはずなんです。「創作的に戯れようよ」みたいなのが、あまりに意見を得すぎている。それって、なんかハックがうますぎるというか。作家が市場や読者に甘えて、それ前提で物語を作るしかない現状が「なにこれ?」って思います。脳に汗かいてないやんって。いや、自分も偉大な作家と比べたら屁みたいなもんなんですが。
新作で「やりたいことはいっぱいある」
渡邉は「100作ったのなら、98くらいは伝わるべき」という魚豊の言葉を掘り下げていった。渡邉:たとえば、ある映画を観終わったあと、人が感動して映画について語り合っているときって、必ずしもその映画を語っているというよりは、自分がどんな人生を歩んできてその映画を観たのかという。実は、映画の外側にある自分の人生の体重を乗っけていることが大事。そこで語られているのは、実は映画自体ではないこと、というのをすごく微笑ましく思うんです。この人にしかできない読解があるというか、そうなったときに、それって2パーセントの理論とどう合致するのか、しないのかと。
魚豊:作り手側が誤読に甘えすぎると、なにやってもいいんですよね。モンタージュでこれとこれを並べて「こういうものなんだ」と読者側が勝手につないでくれるでしょ? という意識でやるのは、あまりいい姿勢だと僕が思わないというか、それがなによりも楽とわかるから。そのコンセプト自体を最初に作った現代美術家や文学者はすごいと思いますよ。だけどいま、この時代にそれをやっている人たちは、新しいことをなにもやらずにその人らの真似してるだけと思っちゃう。作家側はそこに「絶対にこう伝わってほしい」という想いで描くべきだと思う。こう伝わってほしいというか、そうじゃないと描く意味がなくなるというか。
魚豊は今後の展望についても語った。作品を作り続けてきたからこその悩みもあるという。
魚豊:やりたいのは見つかって、またこのテーマでやったらある程度深くというか、ある程度の長さになるだろうなという。人間と社会に関するテーマが、いま衣食住で3本ずつ描きたいなと思っているので、それはあるんですけど。もっとテクニカルな話で、じゃあ主人公像をどうしようとか、主人公の感じ。テーマとかはあるんですね、やりたいことはいっぱいあるんです。1話の構想や1巻のことや主人公……主人公に師匠がいたり、友だちや弟子がいたりしたら、そいつらの関係性とかが毎回似てきちゃっているというか。
渡邉:なるほど、そういうことですね。
魚豊:そこが普通にテクニカルな悩みです。しかもさらに言うなら、いま締め切りもないし、『チ。』が売れてくれたおかげで、貯金もありがたいことに数年働かなくてもいいぐらいはある。究極の自己満足の行為のはずだけど「自分はなんで悩んでいるんだろう」みたいな。いや、もちろん面白い作品を召喚する為の悩みなんですけどね。けど、仲間だと思える人もいないので、そうなったときに「これ、なんのために」みたいな(笑)。そういうことは思っています。
渡邉:そのテクニカルな問題はどう乗り越えられるんですか?
魚豊:考え続けるしかないですよね。「このパターンでやったらこうなるから、こっちのパターンか」とか、それは何回も描いて。描く前に脳のなかで「これつまらないな」「これだったらいけそうかな」と思って描いたら「ああ、ちょっとダメだ」とか。最終的には自分でなにが面白いかわからなくなるので、「これで見せて、いいかどうか訊こう」というので見せたら「いいですね」と言われるときもあれば「悪いですね」と言われるときもあって。全然うまくなっていったとか、そういう実感はないですね。もちろん「こういうパターンのとき、こう返す」とか、そういう手癖みたいなのはできてきちゃっているんですけど。それがクリエイティビティやイノベーションだと思わないので、そうなるとまた「面白いってなんだろう?」みたいな。なにをもってして面白いんだろう? みたいなのはすごく難しいなっていま思っています。
番組情報
- J-WAVE SELECTION PROUDMEN. TAKRAM RADIO
-
7月13日(日)22:00-22:54