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レディー・ガガが選んだ、日本の学生の靴―専属シューメイカーとして感じた“面白さ”を舘鼻則孝が振り返る

現代美術家の舘鼻則孝さんが、自身の代表作「ヒールレス・シューズ」を愛用したレディー・ガガとのエピソードなどついて語った。

舘鼻さんは、1985年生まれの37歳。東京藝術大学で日本の伝統工芸や染織を学び、卒業制作として発表したヒールレス・シューズは、レディー・ガガが愛用したことで世界中に大きなインパクトを与えた。現在は、アートの世界で国内外の展覧会へ参加するほか、伝統工芸士との創作活動にも積極的に取り組んでいる。

舘鼻さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。

このプログラムは、ポッドキャストでも配信中。

・ポッドキャストはこちら
https://www.j-wave.co.jp/podcasts/

中学生の頃からファッションデザイナーを志望

ゆっくりと走り始めた「BMW 420d xDrive グランクーペ M Sport」。車中の舘鼻さんは、六本木から母校である東京藝術大学のある上野へ向かう中、自身のルーツを振り返る。

少年時代を鎌倉の豊かな自然の中で過ごしたという舘鼻さん。シュタイナー教育に基づいた「ウォルドルフ人形」の作家である母のアトリエに出入りする中で、自然とものづくりへの関心を深め、中学生になる頃にはファッションの世界へ傾倒していったという。

舘鼻:最初はもちろん自分で着ることが好きだったのですが、小さい頃からものづくりが身近な環境に育ったこともあり、「作る」という目線で興味が湧くようになったんですよね。ちょうど当時、鎌倉の実家近くにはじめてコンビニができたんですよ。そこの本棚に置かれていたパリコレなどの煌びやかな世界が載っている『VOGUE』『装苑』などのファッション雑誌を読み、「ファッションデザイナーになりたい」と思うようになりました。

ファッションはヨーロッパが本場で、日本発祥のカルチャーではありません。しかし、その道を目指すとなると、欧州へ武者修行するよりは、逆に自分の国にある着物や和装の文化を武器にして世界へ出たほうがいいのではないかと考えるようになったんです。そういった視点から、伝統的な工芸や和装の文化を学べる東京藝大へ入学しました。ダイレクトな道としては、ファッションの学校で学ぶという選択肢もあると思います。ただ僕には何かしっくりこなくて、アートの道からファッションデザイナーになりたかった。結果として今、アートのほうに戻ってきているんですけど。

「レディー・ガガのおかげでキャリアがスタートした」

そんな話をしているうちに、「グランクーペ M Sport」は、東京藝大上野キャンパスの正門前に到着。2浪したのち20歳のときに、同校の美術学部工芸科へ入学した舘鼻さんは、布の「染め」や「織り」の技術と文化を学ぶ染織を専攻し、持ち前の豊かな感性に磨きをかけていく。その4年間に及ぶ学びの集大成として発表したのが、「ヒールレス・シューズ」だった。一人の学生の卒業制作は、如何にして、世界の歌姫の足もとを飾るに至ったのだろうか。

舘鼻:24歳のとき、卒業制作として手掛けたヒールレス・シューズを世界中に売り込んでいました。売り込むといっても、メールに写真を添付して、様々な国のファッションの関係者へ送付していただけなのですが、あの頃は人脈もなく、それしか僕にはできなかった。

そんな中、当時レディー・ガガさんの専属スタイリストを務めていたニコラさんから「来週、日本の音楽番組に出演する予定があるから、一足作ってほしい」と返信をいただきまして。そのことがきっかけで世界に知っていただけるようになったわけですし、本当にレディー・ガガさんのおかげで、僕自身のキャリアがスタートしたような感覚があります。

ガガとの初対面で言われた“感慨深い言葉”とは

こうして舘鼻さんは、レディー・ガガの専属シューメイカーに就任。奇抜なファッションで知られる彼女の象徴ともいえる靴作りには、こんな裏話があった。

舘鼻:僕が専属で彼女のために靴を作っていた約2年半の間、30種類くらいの靴を提供したのですが、どんどん高さがエスカレートしていきました。最初に作ったヒールレス・シューズの地面から踵までの高さが大体20cm。彼女は身長155cmくらいと小柄なんですけど、ときには50~60cmもある僕の靴を履いて2mを超える背丈になっていたこともありましたね(笑)。またあるときは、「世界一背の高いトウシューズを作ってほしい」とリクエストされたこともありました。

それらの靴をはじめ「ちょっと歩けないんじゃないか」というシューズもたくさんあったのですが、彼女は体幹が強いのか、40~50cmあるものを履いて普通にランウェイを歩いていたりして、本当にすごいなと思いましたね。僕の靴を履いたら変身する……じゃないですけど、ファッションの面白さ、魅力を、専属シューメイカーとしての仕事を通じて知った気がします。

約2年半にわたってガガの靴を作り続けた舘鼻さん。専属シューメイカーの仕事を終えて4年ほどが経過した2016年に、彼女と久しぶりに日本で再会したという。いったい、どんな会話を交わしたのか。

舘鼻:2016年に岡本太郎記念館で個展を開催しているときに、ちょうど彼女が来日しているタイミングで、美術館が閉まってからお忍びで展覧会に来てくださったんですよ。滞在時間にして30分くらいだったでしょうか。レディー・ガガさんと仕事はしていましたけど、直接連絡を取り合っていたわけではないので、そのときはかなり緊張していて、どんな話をしたのかあまり覚えていません(笑)。

当時は、僕が美術家として活動を開始していた一方で、彼女もいちミュージシャンとしてだけではなく、女優としても活躍していた時期でした。そんな背景もあって「こういう形で、違ったステージ・フェーズで会えてすごくうれしいわ」と言葉をかけてくださって。とても感慨深い気持ちになったのを覚えています。

デザイナーから作家へ

世界的歌姫とのコラボレーションで傑出したクリエイティビティを発揮し、ファッションの世界で確かな名声を手に入れた舘鼻さん。しかし、その成功の裏で一人、自分の進むべき道を暗中模索していたようだ。

舘鼻:大学時代は根拠のない自信があって、好きなことだけに取り組み、臆せずに様々なものを発表していました。ですが、社会へ出て一度評価されてからは、自身のクリエーションのスタイルというか、守らなくてはならないものもできてしまった。レディー・ガガさんと仕事をさせていただいた2年半は、ヒールレス・シューズしか作っていなかったんですけど、それがひと段落したときに「今後どうしたらいいのか」と、一種の“ロス”に陥ったような時期があったんですよね。

そのタイミングでいろいろ考えた末に、現代美術のアーティストとして活動する道を選びました。靴を作っているときは、ファッションブランドを手掛けているという意識も少しはあったんですけど、自分が学んできた表現を踏まえると、ブランドとしてじゃなくて作家としての人生を歩む方がふさわしいのかなという気がしたんです。自分の思いにより近いというか。いわゆる一般的なデザイナーは描いたデザイン画が洋服や靴になり、その過程で多くの人たちがプロダクトにかかわる。でも僕の場合は、自分の手の中ですべて完結している。ヒールレス・シューズに関してもそうです。自らすべての工程を踏んででき上がるという意味では、一つの商品というよりは作品だよなという意識が強かったんですよね。

「“作家”という生き方を選んだという感覚があります」。

舘鼻さんはそう続ける。実際にその後は、立体作品や絵画作品を世界各地で発表するなど、ヒールレス・シューズに留まらない創作活動を展開。さらに、2016年にはパリのカルティエ現代美術財団で文楽公演の監督を務めるなど、表現の幅を広げている。

そして現在、精力的に取り組んでいるのが伝統工芸士との創作活動だ。舘鼻さんを乗せたBMWは、その活動を象徴する場所、台東区池之端一丁目の都立庭園「旧岩崎邸庭園」へとやってきた。

舘鼻:ここで2022年の春、東京都の伝統産業とコラボレーションした作品を発表する展覧会「江戸東京リシンク展」を東京都・江戸東京きらりプロジェクトと共に開催しました。当時、新型コロナウイルスのオミクロン株が大流行したタイミングにちょうどあたってしまって。なので、一般公開の直前でオンライン開催に切り替える運びになったんですけど、その準備のために、旧岩崎邸庭園に一週間、朝から夜まで通い詰めていたこともあって、本当に思い出深いです。

実際に展覧会をやってみて感じたのは、組紐や江戸切子、木版画(浮世絵)など、東京にはこれだけ多彩な伝統産業があったのかということ。その中で、僕自身は各伝統産業事業者の技法の特性を活かした作品作りを心掛けました。たとえば、組紐でヒールレス・シューズを手掛けたり、江戸切子で花器を作ったり。また、浅草で太鼓や神輿を制作している宮本卯之助商店さんと一緒に太鼓を作ることにも挑戦しました。

舘鼻さんは日頃から創作活動において、古いものを再考することで、新しいものに転換していく概念「「リシンク(Rethink)」を大切にしているとのこと。花魁の高下駄から着想を得た「ヒールレス・シューズ」然り、古くから残る伝統的なアイテムが、次なるクリエイティブを生む発想の原点となっているようだ。

舘鼻さんにとっての“未来への挑戦”とは

その後、BMWはさらに走り、舘鼻さんの現在の活動拠点である東京のウォーターフロント・天王洲エリアへとたどり着いた。

舘鼻:今日はいろいろ回ってきましたね。最後に訪れたのが、僕が所属しているギャラリー「KOSAKU KANECHIKA」がある現代アートの複合施設「TERRADA ART COMPLEX」です。今、東京のアートの中心地と言っても過言ではないこの場所には、20件近くの現代美術のギャラリーが集まっています。僕も「KOSAKU KANECHIKA」のギャラリーで、1年に1回はかならず個展を開いているので、ぜひ、観に来てほしいです。

そんな意欲的に創作活動を続ける舘鼻さんにとって“未来への挑戦”とは?

舘鼻:僕にとって未来への挑戦は、最初のステップとして、過去を振り返ること。日本文化を学び、次にインスピレーションを探して、そこから自分なりのフィルターを通して作品を生み出す。そのプロセス自体が未来を見つめることになりますし、そこで生まれた作品を未来の鑑賞者が見たときに、僕の“リシンク”を追体験して欲しいと考えています。

『BMW FREUDE FOR LIFE』では、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招いて話を聞く。オンエアは毎週土曜 11:00-11:30。公式サイトはこちら(https://www.j-wave.co.jp/original/freudeforlife/)。

(構成=小島浩平)
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