チェロ奏者の宮田大が、音楽家を志した経緯やコンクールで結果を出すために大切にしていたこと、さらには、世界的指揮者・小澤征爾とのエピソードなどについて語った。
宮田は1986年生まれの37歳。2009年のロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで日本人として初めて優勝した実績を持つ、日本を代表するチェリストだ。
宮田が登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストページはこちら
宮田を乗せて「BMW X6 M60i xDrive」は走り出した。向かう先は羽田空港。世界各地で演奏をする彼にとって何度も訪れている空の玄関口だが、この場所にはもうひとつ、特別な思いがあるようだ。
宮田:一番最初になりたかった職業がパイロットだったんですよ。飛行機が好きだったので、ずっと憧れていました。そんな夢がありつつも、母がバイオリンの教師、父がチェロの教師だったこともあって、2歳の頃から弦楽器を始めました。最初に習ったのはバイオリン。でも、落ち着きのない子どもだった僕は、立って練習しないといけないバイオリンのレッスンで動き回ってばかりいて、よく怒られていました。そこで、座って練習ができるチェロを弾くようになったんです。
香川県に生まれ、栃木県で育った宮田は、音楽講師だった両親の影響により、ごく自然な成り行きでチェロを習い始める。中学生になると部活動でバレーボールに夢中になるが、彼の軸がブレることはなかった。
宮田:中学校の3年間、部活動でバレーボールに打ち込んだことにより、特技がもう一つ増えたように感じました。しかし、3歳からずっと続けてきた自己表現の手段であるチェロは、他の特技と比べて一段上にある特別なものであるように思っていたんです。それに、中学からはこれまで習っていた父親ではなく、チェロ奏者の倉田澄子先生に師事し、東京までレッスンに通うようになっていました。そんな中で進路について音楽学校か、それとも地元の高校かと考えたときに「チェリストになろう」と決め、高校から音楽学校へ行くことにしたんです。
宮田:チェロについて、僕は「演奏する」「弾く」「奏でる」ではなく、「歌う」と表現することが適切だと考えています。というのも、チェロは管楽器の中で一番人間の声に近いとされているからです。まるで語り掛けるような音がしますし、それに、他の楽器と比べて音域が広いため、男性の声や女性の声、果ては子供のような元気のある声に至るまで多彩な音が表現できるんです。それこそがチェロならではの特徴だと思います。
彩り豊かな歌声を響かせるチェロの中で宮田が愛用するのは、300年以上前に作られたとっておきの一台だ。
宮田:僕が今使っているチェロは、A. ストラディヴァリウス“チャムリー”です。楽器が作られたのは1698年。日本では、「生類憐みの令」で知られる江戸幕府第五代将軍の徳川綱吉が統治していた時代です。そんな大昔に作られた楽器が音を出してくれていることがすごくうれしいですし、“チャムリー”と出会ってから「チェロの魅力を伝えていきたい」という思いがより一層強くなりました。
この楽器を手にして8年ほどになるのですが、ここ3年でようやく友だちというか、いい関係を築けるようになった気がします。最初は自分の中の“慣れ”に沿って扱っていたんですけど、あまり良くなくて。やはり300年以上生きている楽器なので、言うことを自分が聞いてあげるべきという結論に至りました。そんなふうに3年前から楽器に心を委ねるようになってからは音が良くなりましたし、自分の感じた繊細な感情すべてを表現してくれているような手ごたえを感じています。
宮田:やっと羽田空港が見えてきました。僕にとっていつも挑戦のスタート地点であり、帰ってきたら安心する空間でもあり、そして、自分の人生が変わっていくターニングポイントとなった場所でもあります。
宮田にとって人生が変わった出来事の一つが、2009年のロストロポーヴィチ国際チェロコンクールにおいて、日本人として初めての優勝を果たしたことだ。この快挙の舞台裏とは。
宮田: 2009年に受けたロストロポーヴィチ国際チェロコンクールが、僕にとって初めての国際コンクールでした。当時は海外留学を開始して1〜2年目の頃。僕は、自分の中で殻が破れないもどかしさを感じていました。そんな中、指導を受けていた先生が「失敗してしまってもいいじゃないか。それが今できる一期一会の演奏なのだから」と言ってくださったときに、すごく肩の荷が下りたんです。それまでコンクールはどうしても審査員の先生方にチェックされてるようなイメージがあり、全ての音をしっかりと弾かなければいけないとプレッシャーに感じていたのですが、その言葉によってコンクールも演奏会の一つだと捉えられるようになりました。
「コンクールも演奏会の一つ」。そんな発想の転換によって、栄光を手にした宮田だが、世界的指揮者の小澤征爾もまた、その成長を見守っていたようだ。
宮田:高校1年生の頃に、小澤征爾さんと初めてサントリーホールで共演させていただきました。それから10年経った25歳のとき、再び小澤さんとご一緒する機会に恵まれ、15歳のときと同様にハイドンのチェロ協奏曲第1番を演奏することになったんです。10年前に「自分が指揮でつけてあげるから、自由に演奏しなさい」と言われたことをよく覚えていた25歳の僕は、「まずは自分の音楽を出さなきゃ」と考え、その思いを演奏にぶつけました。けれども小澤さんからは「まだ足りない」「殻を破りなさい」などのご指摘を受けまして。その中で一番印象に残っているのが「音楽バカになれ」という言葉でした。小澤さんのこの言葉は、好きなことをもっと前面に、100%ではなく、150%、200%の気持ちを出して演奏しなさいという意味だったと解釈しています。このコンサートが終わった際には「やっと少し殻が破れたね」ともおっしゃってくださって。この一言を聞いて、まだまだ鍛練していかなければと思ったと同時に、一つステップを上がれた実感が得られました。
2012年には、2人の交流を追ったドキュメンタリー番組「小澤征爾さんと音楽で語った日~チェリスト・宮田大・25歳~」(BS朝日)も放送。その後、小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクトや室内楽の勉強会、松本にあるサイトウ・キネン・オーケストラなどに参加し、長きにわたって多くのことを学んだと、宮田は語る。その縁は今でも続き、次の世代へと受け継がれようとしている。
宮田:今年の4月から、小澤征爾さんが第一期生として卒業された桐朋学園大学の特任教授を務めさせていただいています。生徒たちにはコンクールにおける心の持ち方や楽しみ方、演奏家として大切にすべきことなどを奥深いところまで教えていければと考えています。僕にとって「コンクールはコンサートのように」という意識が成功の要因でした。当時の審査員の先生方からは「演奏会を聞いてるようで、次また聞きたいと思った」という講評をいただきましたし、次にまた聞きたくなる演奏かどうかは、コンクールを優勝した後にプロの演奏家としてコンサートを開催していく上で一番大切なことだと思うんですよね。
宮田:「吉松隆:チェロ協奏曲≪ケンタウルス・ユニット≫/ 4つの小さな夢の歌」には、指揮者の原田慶太楼さん、東京交響楽団と共に行った2022年9月の公演が録音されています。吉松隆さんが手掛けたチェロ協奏曲のタイトルが「ケンタウルスユニット」。吉松さんは、チェロを弾く様が、上半身が人間で下半身が馬の怪物「ケンタウルス」が弓矢を持っている姿に似ているという発想から、このタイトルを付けられたそうです。曲調としては銀河を駆け巡ったり、世界を羽ばたいたりしているような。すごく疾走感のある、心地の良い作品ですね。
「ケンタウルスユニット」は私のために書かれた曲ではありません。しかし、吉松さんが生きていらっしゃる間に、その音楽を共有できたことは宝物です。ベートヴェンやモーツァルトには会うことは叶わず、「ここの音はこういう感じなんですか?」と質問したくてもできません。だからこそ、現代に生きる偉大な作曲家の方と音楽を共にする体験はかけがえのないもので、勉強になると思っているのです。
チェロと真摯に向き合い、その可能性を引き出し続ける宮田さん。彼にとって「未来への挑戦=FORWARDISMとは?」と尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。
宮田:これまで津軽三味線奏者の上妻宏光さんや箏奏者のLEOさんなど、様々な邦楽器の演奏家さんとコラボレーションさせていただいているのですが、今後も、新たなチェロの一面を引き出し、チェロを好きになる方々がより増えていくように、こういったコラボを実施していきたいです。加えて、コロナ禍で音楽が会場で聴けない時期が長く続いたので、会場へたくさんの人に足を運んでいただくために、色々な企画を展開していきたいという思いもあります。
(構成=小島浩平)
宮田は1986年生まれの37歳。2009年のロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで日本人として初めて優勝した実績を持つ、日本を代表するチェリストだ。
宮田が登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
・ポッドキャストページはこちら
最初に憧れた職業はパイロット
宮田:一番最初になりたかった職業がパイロットだったんですよ。飛行機が好きだったので、ずっと憧れていました。そんな夢がありつつも、母がバイオリンの教師、父がチェロの教師だったこともあって、2歳の頃から弦楽器を始めました。最初に習ったのはバイオリン。でも、落ち着きのない子どもだった僕は、立って練習しないといけないバイオリンのレッスンで動き回ってばかりいて、よく怒られていました。そこで、座って練習ができるチェロを弾くようになったんです。
香川県に生まれ、栃木県で育った宮田は、音楽講師だった両親の影響により、ごく自然な成り行きでチェロを習い始める。中学生になると部活動でバレーボールに夢中になるが、彼の軸がブレることはなかった。
宮田:中学校の3年間、部活動でバレーボールに打ち込んだことにより、特技がもう一つ増えたように感じました。しかし、3歳からずっと続けてきた自己表現の手段であるチェロは、他の特技と比べて一段上にある特別なものであるように思っていたんです。それに、中学からはこれまで習っていた父親ではなく、チェロ奏者の倉田澄子先生に師事し、東京までレッスンに通うようになっていました。そんな中で進路について音楽学校か、それとも地元の高校かと考えたときに「チェリストになろう」と決め、高校から音楽学校へ行くことにしたんです。
300年以上前に作られたチェロを愛用
こうしてチェリストになる決意を固めてた宮田だが、そもそもチェロとはどんな楽器なのだろうか。宮田:チェロについて、僕は「演奏する」「弾く」「奏でる」ではなく、「歌う」と表現することが適切だと考えています。というのも、チェロは管楽器の中で一番人間の声に近いとされているからです。まるで語り掛けるような音がしますし、それに、他の楽器と比べて音域が広いため、男性の声や女性の声、果ては子供のような元気のある声に至るまで多彩な音が表現できるんです。それこそがチェロならではの特徴だと思います。
彩り豊かな歌声を響かせるチェロの中で宮田が愛用するのは、300年以上前に作られたとっておきの一台だ。
宮田:僕が今使っているチェロは、A. ストラディヴァリウス“チャムリー”です。楽器が作られたのは1698年。日本では、「生類憐みの令」で知られる江戸幕府第五代将軍の徳川綱吉が統治していた時代です。そんな大昔に作られた楽器が音を出してくれていることがすごくうれしいですし、“チャムリー”と出会ってから「チェロの魅力を伝えていきたい」という思いがより一層強くなりました。
この楽器を手にして8年ほどになるのですが、ここ3年でようやく友だちというか、いい関係を築けるようになった気がします。最初は自分の中の“慣れ”に沿って扱っていたんですけど、あまり良くなくて。やはり300年以上生きている楽器なので、言うことを自分が聞いてあげるべきという結論に至りました。そんなふうに3年前から楽器に心を委ねるようになってからは音が良くなりましたし、自分の感じた繊細な感情すべてを表現してくれているような手ごたえを感じています。
日本人初の栄誉に輝いた舞台裏
そんな話をしているうちに、首都高を走る「BMW X6 M60i xDrive」の窓から羽田空港のターミナルが見えてきた。宮田:やっと羽田空港が見えてきました。僕にとっていつも挑戦のスタート地点であり、帰ってきたら安心する空間でもあり、そして、自分の人生が変わっていくターニングポイントとなった場所でもあります。
宮田にとって人生が変わった出来事の一つが、2009年のロストロポーヴィチ国際チェロコンクールにおいて、日本人として初めての優勝を果たしたことだ。この快挙の舞台裏とは。
宮田: 2009年に受けたロストロポーヴィチ国際チェロコンクールが、僕にとって初めての国際コンクールでした。当時は海外留学を開始して1〜2年目の頃。僕は、自分の中で殻が破れないもどかしさを感じていました。そんな中、指導を受けていた先生が「失敗してしまってもいいじゃないか。それが今できる一期一会の演奏なのだから」と言ってくださったときに、すごく肩の荷が下りたんです。それまでコンクールはどうしても審査員の先生方にチェックされてるようなイメージがあり、全ての音をしっかりと弾かなければいけないとプレッシャーに感じていたのですが、その言葉によってコンクールも演奏会の一つだと捉えられるようになりました。
小澤征爾の一言で「一つステップを上がれた」
宮田:高校1年生の頃に、小澤征爾さんと初めてサントリーホールで共演させていただきました。それから10年経った25歳のとき、再び小澤さんとご一緒する機会に恵まれ、15歳のときと同様にハイドンのチェロ協奏曲第1番を演奏することになったんです。10年前に「自分が指揮でつけてあげるから、自由に演奏しなさい」と言われたことをよく覚えていた25歳の僕は、「まずは自分の音楽を出さなきゃ」と考え、その思いを演奏にぶつけました。けれども小澤さんからは「まだ足りない」「殻を破りなさい」などのご指摘を受けまして。その中で一番印象に残っているのが「音楽バカになれ」という言葉でした。小澤さんのこの言葉は、好きなことをもっと前面に、100%ではなく、150%、200%の気持ちを出して演奏しなさいという意味だったと解釈しています。このコンサートが終わった際には「やっと少し殻が破れたね」ともおっしゃってくださって。この一言を聞いて、まだまだ鍛練していかなければと思ったと同時に、一つステップを上がれた実感が得られました。
2012年には、2人の交流を追ったドキュメンタリー番組「小澤征爾さんと音楽で語った日~チェリスト・宮田大・25歳~」(BS朝日)も放送。その後、小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクトや室内楽の勉強会、松本にあるサイトウ・キネン・オーケストラなどに参加し、長きにわたって多くのことを学んだと、宮田は語る。その縁は今でも続き、次の世代へと受け継がれようとしている。
宮田:今年の4月から、小澤征爾さんが第一期生として卒業された桐朋学園大学の特任教授を務めさせていただいています。生徒たちにはコンクールにおける心の持ち方や楽しみ方、演奏家として大切にすべきことなどを奥深いところまで教えていければと考えています。僕にとって「コンクールはコンサートのように」という意識が成功の要因でした。当時の審査員の先生方からは「演奏会を聞いてるようで、次また聞きたいと思った」という講評をいただきましたし、次にまた聞きたくなる演奏かどうかは、コンクールを優勝した後にプロの演奏家としてコンサートを開催していく上で一番大切なことだと思うんですよね。
稀代のチェリストが描く「未来への挑戦」とは
宮田さんによるチェロの音色は、24年3月にリリースされたアルバム「吉松隆:チェロ協奏曲≪ケンタウルス・ユニット≫/ 4つの小さな夢の歌」でも聴くことができる。同作には、日本を代表する作曲家・吉松隆さんのチェロ協奏曲を収録。このチェロ協奏曲は2003年に発表されて以来、あまりにも難しい曲のため20年近く再演されてこなかった、“異端”と呼ばれるほどの作品だ。2022年に宮田さんがソリストをつとめて再演したことで注目を集めた、まさに“幻のコンチェルト“なのだ。宮田:「吉松隆:チェロ協奏曲≪ケンタウルス・ユニット≫/ 4つの小さな夢の歌」には、指揮者の原田慶太楼さん、東京交響楽団と共に行った2022年9月の公演が録音されています。吉松隆さんが手掛けたチェロ協奏曲のタイトルが「ケンタウルスユニット」。吉松さんは、チェロを弾く様が、上半身が人間で下半身が馬の怪物「ケンタウルス」が弓矢を持っている姿に似ているという発想から、このタイトルを付けられたそうです。曲調としては銀河を駆け巡ったり、世界を羽ばたいたりしているような。すごく疾走感のある、心地の良い作品ですね。
「ケンタウルスユニット」は私のために書かれた曲ではありません。しかし、吉松さんが生きていらっしゃる間に、その音楽を共有できたことは宝物です。ベートヴェンやモーツァルトには会うことは叶わず、「ここの音はこういう感じなんですか?」と質問したくてもできません。だからこそ、現代に生きる偉大な作曲家の方と音楽を共にする体験はかけがえのないもので、勉強になると思っているのです。
宮田:これまで津軽三味線奏者の上妻宏光さんや箏奏者のLEOさんなど、様々な邦楽器の演奏家さんとコラボレーションさせていただいているのですが、今後も、新たなチェロの一面を引き出し、チェロを好きになる方々がより増えていくように、こういったコラボを実施していきたいです。加えて、コロナ禍で音楽が会場で聴けない時期が長く続いたので、会場へたくさんの人に足を運んでいただくために、色々な企画を展開していきたいという思いもあります。
(構成=小島浩平)
番組情報
- BMW FREUDE FOR LIFE
-
毎週土曜日11:00-11:30