天下分け目の合戦が行われた「関ケ原」。1600年10月、東軍を率いた徳川家康が勝利し、以後260余年にも渡る江戸時代が始まったその場所に、放送作家の小山薫堂とフリーアナウンサーの高島 彩が訪問。旅を通して400年前に刻まれた時代の躍動を感じつつ、専門家から「江戸時代のエコロジー」について学んだ。
旅と学びの模様を伝えたのは、3月21日に放送された番組『J-WAVE SPECIAL TSUCHIYA EARTHOLOGY 7』(ナビゲーター:小山薫堂/高島彩)。江戸時代から学ぶ自然との共生について考える特別プログラムであり、ポッドキャストでも配信中だ。
【ポッドキャストはコチラ】
Spotify/Apple Podcasts/Google Podcasts
小山:なぜ合戦が関ケ原で行われたのですか?
山形:一つにはこの場所が交通の要所であるという事情があります。5階の展望室から見ていただくとよくわかるのですが、中山道を通って京都へ向かう際、道の両側に山が連なっていて道幅が狭まっているんです。
実際に5階展望室へと案内された小山と高島。エレベータのドアが開くと、目の前には360度全面ガラス張りの大パノラマが広がり、2人は「うわぁ!」「360度見渡せますね!」と声を上げた。
ガラス窓の向こう側には、山々を背景に関ケ原町の民家が連なっている。「関ケ原の合戦」といえば、何もない平原で東軍・西軍の大軍勢が激突するイメージだ。そこで小山は「かつてここには、家が一軒もなかったんですか?」と素朴な疑問をぶつける。
山形:そこはよく勘違いされやすいんですけど、関ケ原町は関ケ原合戦の以前からありまして。合戦で家などが焼かれ、後に徳川家康が戦後復興の一環として、米を提供したという記録も残っています。なお合戦当時、町があったのは今の関ヶ原駅周辺で、古戦場記念館周辺は畑だったとされています。
小山:そうなんですね。「関ケ原」という言葉のイメージから、てっきり、だだっ広い大草原で戦ったものだと勘違いしていました。
山形:ちょっとそれは違っていて。荒地ではなく、畑や町の上で行われたというのが正しいかと思います。
小山:知らなかったなあ。
高島:ちなみに、天下分け目の戦いに挑んだ家康公には、戦の前から勝機が見えていたんですかね?
山形:江戸時代の記録は徳川寄りで作られているので、「家康公はそんなことはお見通しでわざと挙兵させた」といった論調なのですが、実際はそんなことはないと思います。色々と誤算がたくさんあってこの戦いに至ったはずです。
高島:誤算、というと?
山形:家康はここまで西軍が大規模になると想定していなかったと思います。第一報を受けた時は、(石田)三成 と大谷(吉継)が挙兵する程度の小規模な争いになると楽観視していたのではないかと。
この家康役のキャスト……いや、“家康公”と面識がある小山によると、「どんな質問をしても、すぐに徳川家康としての答えが返ってくる」のだとか。その評判通り、淀みない語り口で、江戸幕府初代将軍としての持論および見解を披露する“家康公”。そこで2人は、江戸時代ならではの生き方や考え方についても、この現世に現れた江戸幕府の開祖に聞いてみた。
小山:江戸の頃の知恵で、みんな忘れているんだけど今の時代にもう一回やったらいい、というものはありますか?
家康:あの頃は、主らの言葉でいうと「本能」に基づいて生きとった。要は、我らの頃は裏切ったり、他を殺めたり、人のものを奪ったりすることはいけないことではなかったのじゃ。ワシ徳川家康が朱子学を世に広めて、皆が260年間ずっと学び続けたがゆえに、今の日の本の者たちは規律正しく動けるわけじゃな。一方で我らの頃は、道徳観がなかった。ゆえに「同じような動きをせよ」という圧力がなく、それぞれ善き幸せをみつけることに関して主たちよりは得意だったやもしれん。じゃが同時に、唐突に死ぬるであるとか、超えられぬ病に立ち向かわねばならぬということはござったがな。まぁ、それぞれ己が自身の命に責任をもって生きていたという点において気が楽であった。
小山:江戸の人たちは自分なりの幸せを知っていたわけですね。その幸せの形は他人と違っていても良かったと。
家康:江戸の中期になると、すべてのモノは「借りるモノ」に変わっていったとな。そして共有するということのほうが、より己が自身の幸せに近づくのではという実験が長らく続いたのじゃ。その中で「湯道」の家元である小山薫堂殿も馴染み深い「湯」も、実は日の本の歴史にとって大切であっての。この「湯」に浸かる前後にて、情報を交換いたしたり、あるいは、何が必要であるとか申し伝えたりしていた。たとえば、「あの店の肉が食べたい」と言えば、物売りが運んできたりしとった。今の世でいえば「Uber Eats」なるものとよく似ておるな。ゆえに、主たちの申すところの「シェアリングエコノミー」という概念は、既に江戸の世にできとったわけじゃ。
高島:シェアリングの概念が江戸時代からあったとは。
小山:勉強になりますね。では、家康公は15代続く徳川将軍の中で誰が一番優れていると思いますか?
家康:ワシがわかるのは秀忠と家光だけじゃが……聞くところによると、かの「犬公方」と呼ばれた綱吉であるかの。ワシはかの者はなかなかよいと思う。
小山:それはなぜですか?
家康:今の日の本にはない「慈念」という考えをよく心得ておるからじゃ。綱吉は「生類憐みの令」で知られておるが、たくさんあるうちの犬が有名であるだけであっての。それまで江戸の世は人が人を捨ててもあまり嫌がられなかったんじゃ。生産能力がないような病に陥った也哉子(ややこ)であったり、年老いたる者たちは、街の辻の角に捨てられていったわけじゃな。そういった者であっても命は大切にせよということから、人の次は馬、馬の次は牛……といった具合に人に近いものからその対象を広げていき、最終的には虫けらまでも、生きとし生けるものとして互いに等しいのではないかという考えに至ったのじゃ。ゆえに「生類憐みの令」は、世界で初めての愛護法ではないかとワシは思うぞ。
小山:素晴らしい。
高島:ほんとですね。というか、全然知りませんでした。
家康:「生類憐みの令」といえば、「犬をいじめてはいかん」という印象が強いと思うが、犬はたくさん大切にすべき対象のうちの一つにすぎないのじゃ。
高島:そもそも、「エドノミー」とはいったいどんなものなのでしょうか?
北林:よく「江戸時代の社会に戻れということですか?」と聞かれるのですが、決してそうではなくて。「エドノミー」においては、江戸時代の考え方をどのように今の時代に応用できるのか、というところにフォーカスしています。古代などだと遺跡しかありませんが、江戸時代は150年前ですから、僕らの周りにたくさんのヒントが眠っている。なので、地場産業の職人さんをはじめとした当時の考えを受け継いでいる方々と接することで、今の時代に応用できるような発想を学んでいっているんです。
小山:COS KYOTOさんは、京都に拠点を置いている会社じゃないですか。江戸時代というと、どうしても、江戸の文化のことばかりを考えてしまうのですが、江戸の頃の京都も循環型社会だったんですか?
北林:はい。江戸時代は日本全国すべて循環型社会でした。当時は資源が限られていて、循環させないとやっていけない。なので、当たり前のものとしてやっていた気がします。この「当たり前」ということがポイントで。昔は、今のようにSDGsとして高尚なことをしているとは誰も思っていなかったはずじゃないですか。当然のように資源を使い続け、一つのモノを使い尽くす“もったいない”という精神性があったように思います。
小山:こうした背景を踏まえると、SDGsは本来、日本人が提案しなければいけなかったのかもしれませんね。
北林:僕もそう思います。実際に、石清水八幡宮の田中権宮司などは国連の会議において、そういったスピーチをされていましたから。
北林:江戸時代には、「5R」に加えて、6つ目のRとしてReturn(リターン)、“地球に還す”という前提もあったように思います。
高島:なるほど。「アップサイクル」に関してはいかがですか?
北林:たとえば、日本には着られなくなった着物を裂き、もう一度織って新しい服に生まれ変わらせる技術「裂き織り」があったり。あるいは、「ぼろ」という、使い古した着物や布切れをつぎはぎしていく着物もあります。僕が着ている服も実はそうで、沖縄の織物「琉球かすり」と木綿をつぎはぎして作られています。こういった形で江戸時代の人たちは「アップサイクル」を、豊かなものとして行っていたのではないでしょうか。
小山:「金継ぎ」なんかもそうですか?
北林:まさしくそうですね。
小山:先日、ワイングラスを割ってしまったんですけど、そのときに上手に割れていたら「あっ、金継ぎできる!」とうれしくなったりするんですよね(笑)。
北林:新しい味が加わって良いですよね。
小山:本当にそう思います。職人さんが手掛けたモノって「質は良いけど高いじゃないですか」とみんな言うじゃないですか。でも僕は今の時代、いろいろなモノが使い捨てで安過ぎると思うんです。職人さんが手間暇かけたモノは確かに、高いかもしれないし、効率的じゃないかもしれない。でも、そういったモノのほうが感情移入しやすいし、使う度に気持ちがよかったり、「やっぱりこれいいな」と思ったりする。それが長続きしていけば、結果として安くなり、対価を払う価値がある気がするんです。そんなふうに今は、「お金の価値のセンス」みたいなものをもっと磨くべき時代なのかなと思います。
北林:たとえば、僕が今着ている琉球かすりなんかは、おおしろさんという職人さんが織ってくださっていて、そのときの姿を思い出すんです。思い出す時には心がほっこりする。それに対するお金も入っていると感じていて。心を豊かにしてくれるという意味でプライスレスだと思います。
小山:それがきっと人間力を高めたり、人を優しくするきっかけにもなりますよね。
北林:おっしゃる通りだと思います。モノを大切にすることで、結果として資源も循環していくのではないでしょうか。
J-WAVEで不定期オンエアする特別番組『J-WAVE SPECIAL TSUCHIYA EARTHOLOGY』は、過去の放送回がポッドキャストで楽しめる。
【ポッドキャストはコチラ】
Spotify/Apple Podcasts/Google Podcasts
(構成=小島浩平)
旅と学びの模様を伝えたのは、3月21日に放送された番組『J-WAVE SPECIAL TSUCHIYA EARTHOLOGY 7』(ナビゲーター:小山薫堂/高島彩)。江戸時代から学ぶ自然との共生について考える特別プログラムであり、ポッドキャストでも配信中だ。
【ポッドキャストはコチラ】
Spotify/Apple Podcasts/Google Podcasts
関ケ原の戦いが行われたのは「荒地ではなく、畑や町の上」
まず2人は、岐阜県不破郡関ケ原町にある、関ケ原の戦いの全容がわかる施設「関ヶ原古戦場記念館」へ訪れ、学芸員の山形隆司さんに話を聞いた。山形:一つにはこの場所が交通の要所であるという事情があります。5階の展望室から見ていただくとよくわかるのですが、中山道を通って京都へ向かう際、道の両側に山が連なっていて道幅が狭まっているんです。
実際に5階展望室へと案内された小山と高島。エレベータのドアが開くと、目の前には360度全面ガラス張りの大パノラマが広がり、2人は「うわぁ!」「360度見渡せますね!」と声を上げた。
ガラス窓の向こう側には、山々を背景に関ケ原町の民家が連なっている。「関ケ原の合戦」といえば、何もない平原で東軍・西軍の大軍勢が激突するイメージだ。そこで小山は「かつてここには、家が一軒もなかったんですか?」と素朴な疑問をぶつける。
山形:そこはよく勘違いされやすいんですけど、関ケ原町は関ケ原合戦の以前からありまして。合戦で家などが焼かれ、後に徳川家康が戦後復興の一環として、米を提供したという記録も残っています。なお合戦当時、町があったのは今の関ヶ原駅周辺で、古戦場記念館周辺は畑だったとされています。
小山:そうなんですね。「関ケ原」という言葉のイメージから、てっきり、だだっ広い大草原で戦ったものだと勘違いしていました。
山形:ちょっとそれは違っていて。荒地ではなく、畑や町の上で行われたというのが正しいかと思います。
小山:知らなかったなあ。
高島:ちなみに、天下分け目の戦いに挑んだ家康公には、戦の前から勝機が見えていたんですかね?
山形:江戸時代の記録は徳川寄りで作られているので、「家康公はそんなことはお見通しでわざと挙兵させた」といった論調なのですが、実際はそんなことはないと思います。色々と誤算がたくさんあってこの戦いに至ったはずです。
高島:誤算、というと?
山形:家康はここまで西軍が大規模になると想定していなかったと思います。第一報を受けた時は、(石田)三成 と大谷(吉継)が挙兵する程度の小規模な争いになると楽観視していたのではないかと。
江戸の人たちが「自分なりの幸せ」を知っていた背景
山形さんの話を聞くうちに湧き上がってくる、徳川家康への興味関心。そこで小山が「やっぱり高島さん、本人に聞くしかないですよ。こういうとき、『どうする家康』と聞いてみたいじゃないですか?」と提案すると、タイミングよくある人物が登場する。その人物こそ、名古屋にゆかりのある有名戦国武将らで構成された観光PR隊「名古屋おもてなし武将隊」の“徳川家康”だった。この家康役のキャスト……いや、“家康公”と面識がある小山によると、「どんな質問をしても、すぐに徳川家康としての答えが返ってくる」のだとか。その評判通り、淀みない語り口で、江戸幕府初代将軍としての持論および見解を披露する“家康公”。そこで2人は、江戸時代ならではの生き方や考え方についても、この現世に現れた江戸幕府の開祖に聞いてみた。
小山:江戸の頃の知恵で、みんな忘れているんだけど今の時代にもう一回やったらいい、というものはありますか?
家康:あの頃は、主らの言葉でいうと「本能」に基づいて生きとった。要は、我らの頃は裏切ったり、他を殺めたり、人のものを奪ったりすることはいけないことではなかったのじゃ。ワシ徳川家康が朱子学を世に広めて、皆が260年間ずっと学び続けたがゆえに、今の日の本の者たちは規律正しく動けるわけじゃな。一方で我らの頃は、道徳観がなかった。ゆえに「同じような動きをせよ」という圧力がなく、それぞれ善き幸せをみつけることに関して主たちよりは得意だったやもしれん。じゃが同時に、唐突に死ぬるであるとか、超えられぬ病に立ち向かわねばならぬということはござったがな。まぁ、それぞれ己が自身の命に責任をもって生きていたという点において気が楽であった。
小山:江戸の人たちは自分なりの幸せを知っていたわけですね。その幸せの形は他人と違っていても良かったと。
家康:江戸の中期になると、すべてのモノは「借りるモノ」に変わっていったとな。そして共有するということのほうが、より己が自身の幸せに近づくのではという実験が長らく続いたのじゃ。その中で「湯道」の家元である小山薫堂殿も馴染み深い「湯」も、実は日の本の歴史にとって大切であっての。この「湯」に浸かる前後にて、情報を交換いたしたり、あるいは、何が必要であるとか申し伝えたりしていた。たとえば、「あの店の肉が食べたい」と言えば、物売りが運んできたりしとった。今の世でいえば「Uber Eats」なるものとよく似ておるな。ゆえに、主たちの申すところの「シェアリングエコノミー」という概念は、既に江戸の世にできとったわけじゃ。
高島:シェアリングの概念が江戸時代からあったとは。
小山:勉強になりますね。では、家康公は15代続く徳川将軍の中で誰が一番優れていると思いますか?
家康:ワシがわかるのは秀忠と家光だけじゃが……聞くところによると、かの「犬公方」と呼ばれた綱吉であるかの。ワシはかの者はなかなかよいと思う。
小山:それはなぜですか?
家康:今の日の本にはない「慈念」という考えをよく心得ておるからじゃ。綱吉は「生類憐みの令」で知られておるが、たくさんあるうちの犬が有名であるだけであっての。それまで江戸の世は人が人を捨ててもあまり嫌がられなかったんじゃ。生産能力がないような病に陥った也哉子(ややこ)であったり、年老いたる者たちは、街の辻の角に捨てられていったわけじゃな。そういった者であっても命は大切にせよということから、人の次は馬、馬の次は牛……といった具合に人に近いものからその対象を広げていき、最終的には虫けらまでも、生きとし生けるものとして互いに等しいのではないかという考えに至ったのじゃ。ゆえに「生類憐みの令」は、世界で初めての愛護法ではないかとワシは思うぞ。
小山:素晴らしい。
高島:ほんとですね。というか、全然知りませんでした。
家康:「生類憐みの令」といえば、「犬をいじめてはいかん」という印象が強いと思うが、犬はたくさん大切にすべき対象のうちの一つにすぎないのじゃ。
江戸時代は「循環型社会」だった
ここからはスタジオに場所を移して、江戸時代の社会の仕組み=「エドノミー Edonomy」についてトークを展開した。話を聞いたのは、COS KYOTO株式会社の北林功さん。同社では、「自律・循環・持続し、心豊かな社会を構築する」というビジョンのもと、エドノミーを軸としたリサーチや人材教育、体験を通じて学ぶツーリズム、地場産業のビジネスサポート、交流イベントの企画・運営などを手がけているという。北林:よく「江戸時代の社会に戻れということですか?」と聞かれるのですが、決してそうではなくて。「エドノミー」においては、江戸時代の考え方をどのように今の時代に応用できるのか、というところにフォーカスしています。古代などだと遺跡しかありませんが、江戸時代は150年前ですから、僕らの周りにたくさんのヒントが眠っている。なので、地場産業の職人さんをはじめとした当時の考えを受け継いでいる方々と接することで、今の時代に応用できるような発想を学んでいっているんです。
小山:COS KYOTOさんは、京都に拠点を置いている会社じゃないですか。江戸時代というと、どうしても、江戸の文化のことばかりを考えてしまうのですが、江戸の頃の京都も循環型社会だったんですか?
北林:はい。江戸時代は日本全国すべて循環型社会でした。当時は資源が限られていて、循環させないとやっていけない。なので、当たり前のものとしてやっていた気がします。この「当たり前」ということがポイントで。昔は、今のようにSDGsとして高尚なことをしているとは誰も思っていなかったはずじゃないですか。当然のように資源を使い続け、一つのモノを使い尽くす“もったいない”という精神性があったように思います。
小山:こうした背景を踏まえると、SDGsは本来、日本人が提案しなければいけなかったのかもしれませんね。
北林:僕もそう思います。実際に、石清水八幡宮の田中権宮司などは国連の会議において、そういったスピーチをされていましたから。
「今は『お金の価値のセンス』を磨く時代」
北林さんによると、江戸時代の循環型社会は、Reduce(リデュース)、Reuse(リユース)、Repair(リペア)、Return(リターン)、Recycle(リサイクル)からなる「5R」と「アップサイクル」が当たり前の時代だったという。北林:江戸時代には、「5R」に加えて、6つ目のRとしてReturn(リターン)、“地球に還す”という前提もあったように思います。
高島:なるほど。「アップサイクル」に関してはいかがですか?
北林:たとえば、日本には着られなくなった着物を裂き、もう一度織って新しい服に生まれ変わらせる技術「裂き織り」があったり。あるいは、「ぼろ」という、使い古した着物や布切れをつぎはぎしていく着物もあります。僕が着ている服も実はそうで、沖縄の織物「琉球かすり」と木綿をつぎはぎして作られています。こういった形で江戸時代の人たちは「アップサイクル」を、豊かなものとして行っていたのではないでしょうか。
小山:「金継ぎ」なんかもそうですか?
北林:まさしくそうですね。
小山:先日、ワイングラスを割ってしまったんですけど、そのときに上手に割れていたら「あっ、金継ぎできる!」とうれしくなったりするんですよね(笑)。
北林:新しい味が加わって良いですよね。
小山:本当にそう思います。職人さんが手掛けたモノって「質は良いけど高いじゃないですか」とみんな言うじゃないですか。でも僕は今の時代、いろいろなモノが使い捨てで安過ぎると思うんです。職人さんが手間暇かけたモノは確かに、高いかもしれないし、効率的じゃないかもしれない。でも、そういったモノのほうが感情移入しやすいし、使う度に気持ちがよかったり、「やっぱりこれいいな」と思ったりする。それが長続きしていけば、結果として安くなり、対価を払う価値がある気がするんです。そんなふうに今は、「お金の価値のセンス」みたいなものをもっと磨くべき時代なのかなと思います。
北林:たとえば、僕が今着ている琉球かすりなんかは、おおしろさんという職人さんが織ってくださっていて、そのときの姿を思い出すんです。思い出す時には心がほっこりする。それに対するお金も入っていると感じていて。心を豊かにしてくれるという意味でプライスレスだと思います。
小山:それがきっと人間力を高めたり、人を優しくするきっかけにもなりますよね。
北林:おっしゃる通りだと思います。モノを大切にすることで、結果として資源も循環していくのではないでしょうか。
【ポッドキャストはコチラ】
Spotify/Apple Podcasts/Google Podcasts
(構成=小島浩平)
この記事の続きを読むには、
以下から登録/ログインをしてください。
番組情報
- J-WAVE SPECIAL TSUCHIYA EARTHOLOGY 7
-
2023年3月21日(火・祝)20:00-21:55
-
小山薫堂、高島 彩