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三島由紀夫の足跡も残る「本の街・神保町」。そこに眠る“台所の匂いが混ざった言葉たち”とは

東京の“本の街”として愛される神保町に関する歴史や魅力、独自の風習について、作家・文献学者の山口謠司さんが語った。

この内容をお届けしたのは、J-WAVEのワンコーナー「PLENUS RICE TO BE HERE」。放送日は2025年9月22日(月)、9月24日(水)、9月25日(木)。同コーナーでは、独自の文化のなかで育まれてきた“日本ならではの知恵”を、山口さんが解説する。ここではその内容をテキストで紹介。

また、ポッドキャストでも過去のオンエアをアーカイブとして配信している。山口さんが実際に神保町を訪れ、そこで営む人から聞いたエピソードの詳細が楽しめる。

三島由紀夫が言葉を生み出した「山の上ホテル」

東京23区のど真ん中に位置し、靖国通りと白山通りが交わる神保町交差点を中心に広がる街・千代田区神田神保町。古書店や新刊書店が軒を連ね、小学館・集英社をはじめとした大小さまざまな出版社が集まっている。一方でカレー店や渋い喫茶店などが充実するグルメタウンとしても知られている。

山口:駿河台、神保町の丘の上に立っていた「山の上ホテル」。休業してしまいました。大好きでした。明治大学の講師をしていたので、毎週授業が終わると山の上ホテルでランチを頂いたり、お茶をしたり、出版社の担当者と打ち合わせをしたりしていました。

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山の上ホテルは神保町の雑踏を抜けて、小高い場所に立っていた小さなホテルです。部屋数はわずかで30ちょっとだけ。建築はアール・デコ様式。戦争を経てGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、やがて軍人たちの缶詰部屋となりました。

川端康成、池波正太郎、遠藤周作、井上ひさし、伊集院静……様々な作家たちが、このホテルの部屋でペンを走らせました。その中でも最も強烈な存在感を放っていたのが三島由紀夫です。

三島由紀夫が使っていたのは206号室だった。

山口:静かなお部屋です。机と椅子、窓からの光。何も飾らない余白の空間。そこに三島由紀夫はこもって、黙々と原稿を書いたんです。一日に100枚を超す原稿を書いたこともあったそうです。すごいですね。言葉の格闘家でしょうか。作品と戦う、そういう気配が部屋から漏れ出ていたと聞いています。晩年、三島由紀夫は筋トレをして筋肉隆々になりますね。でもあれは、言葉と闘うための肉体を作っていたのかもしれません。

ところで、三島は206号室から時折ふらりとホテルの1階に降りてきて「てんぷら山の上」に入りました。無口で背筋を伸ばして、海老の天ぷらを一つ口に運ぶ。“サクっ”と衣が鳴る。静けさの中に油の音と揚げたての香り。三島はそれを美として味わったのかもしれません。

三島は食べ物にあんまり執着はありませんでした。だけど、素材のよさと、それから調理の正確さには、どこかで強く反応していたようです。彼にとって食というのは、肉体の統御だったんですね。そして、美を確認するための味わいだったのだろうと思います。

ある日、三島は「山の上ホテル」のスタッフに「このホテルの廊下はいい。真っ直ぐで無駄がない」と言ったそうだ。

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山口:どこか武道の道場のように感じていたんだろうと思います。

三島は執筆を終えたあと、よく窓を開けていたと言われます。窓の向こう側には、神保町の町が広がっています。古本屋さんの町ですよね。書店の看板、ビルの谷間を縫う風、夕暮れににじむ光。三島はその景色をどんな思いで眺めていたんでしょうか。思えば、神保町という町は書物に囲まれていますが、騒がしいところではありません。むしろ、言葉の沈黙が積もっている町ですね。山の上ホテルは、その沈黙の最上段にある、まさに染筆の頂です。

僕は一度だけ、山の上ホテルに泊まったことがあります。206号室ではありませんでしたが、夜が深まるほどに、空気が濃くなる気がしました。ドアを閉めると、音が吸い込まれていくんです。そして、机の上に原稿用紙が置いてある。けれど何も書かれてはいません。でも、そこには言葉が立ち上がるような気配がありました。今日もまた、神保町では、言葉と沈黙の中で新しい文学が生まれているんですね。

総理・吉田茂の長男、文学者の吉田健一の“酔い”と“語り”

山口さんは以下のように話し始めた。

今日はちょっと酔いが回るかもしれません。でも、酔いが回らないうちに、吉田健一という作家が残した大切な言葉を一つ。

<戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである>


山口:神保町にビヤホールのランチョンが開店したのは明治42年のことでした。東京でビールが文明の味だった時代のことです。木の柱、木のテーブル、真鍮のビアサーバー、そして冷えたジョッキが置かれる音。吉田健一はその中でいつもビールを片手に持って原稿を書いていたんです。吉田健一は英文学者、フランス文学者で、評論を書き、小説を書き、シェイクスピアを訳し、『甘酸っぱい味』『舌鼓ところどころ』という随筆を書いた作家です。

戦後間もなくの総理・吉田茂の長男として生まれ、ケンブリッジ大学に学び、日本語を操った男でした。そんな彼が言っていました。「食べることはただ生きることの周りにあるのではない。食べることが生きることの中心だ」。

文学者であり、酔いどれであり、そして何よりおいしいことを語る人でした。ビールを飲みながら、しれっとソクラテスの言葉を持ち出すんです。豚の角煮を頬張りながら、マルセル・プルーストについて語る食卓こそが、彼の書斎であり、ステージでした。

そんな吉田健一がある日ランチョンで「人間は片手にはビールを、片手にはつまめる何かを持つのが理想だ」と言ったそうだ。

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山口:これ、本当の話なんです。ランチョンの厨房は困惑したそうです。ナイフとフォークを使って食べるハンバーグでもなく、カツレツでもなく、まさか片手でつまめるものを用意しろと。けれど、吉田健一にとって両手を塞ぐ料理は人生を邪魔するものだったんですね。つまり、ビールを持ちながらペンを走らせたいんです。そして、おいしいものはつまむべきものだったんです。

ビールを飲むということは、その泡とともに余計なことを忘れるということだ。彼にとって酒とは記憶の装置であり、忘却の鍵でした。父親、吉田茂との確執もあったのは間違いありません。

吉田健一は、酔っていても、話す言葉がどこか上品で知的だったそうだ。

山口:ビールを飲み、料理をつまみ、誰かと語らう。それが彼の文学であり、人生でした。ランチョンの一番奥の席。今もそこに座れば、遠くから、「やあやあ、今日は何をつまもうかね」という吉田健一の声が聞こえてきそうです。

ランチョンはかつての文士たちの店というよりも、文化を食べていた人々の場所です。そして、吉田健一は文化を酔わせる人でした。作家たちの会話、笑い声、そして黙って1人ジョッキを傾けていた背中。神保町は本の町であると同時に、味の記憶の町でもあります。

神保町に眠る「台所の匂いが混ざった言葉」

山口さんは「ちょっと神保町の裏通りに入ってみましょうか」と我々を誘う。

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山口:神保町の景色の奥に、もう一つの文化の流れがありました。声を上げずに書いた人たちのことです。誰かのために料理をしながら、そのレシピの裏に自分の思いを隠した人たちのこと。今日は、そんな静かな革命を起こしていた女性たちと、彼女たちを支えた3つの場所を訪ねたいと思います。

まずひとつはカザルスホール。チェリストのパブロ・カザルスの名前を冠したこの音楽ホールは、まるで礼拝堂のような空間でした。カザルスが亡くなったあと、奥様はカザルスが好きだった日本に、ということで、カザルスの名前を冠した世界最高峰の音響設備を作りました。グランドピアノの1つの音が沈黙を揺らすこの場所は、演奏だけではなく、詩の朗読や、音楽と音楽の共演がいくつも行われていました。

カザルスホールの横には、女性専用の私立図書館「お茶の水図書館」があった。

山口:ここには女性に関するあらゆる書籍や記録が所蔵されていまして、戦中戦後の雑誌、母親たちの育児の記録、生活日記、台所からの記憶などなど……この図書館に集められていたのは名前のつかない文学でした。

名もなき女性たちが日々の暮らしを記録し、その中で自分の生き方を静かに問い続けていた軌跡です。誰かのレシピ帳、昭和35年の家計簿、新聞の切り抜き、子供の作文の裏に書かれた母親の独り言。この図書館は、まさに声にならなかった声の宝庫だったのです。

『主婦の友』と言えば昭和の家庭を支えた一大生活情報誌だ。

山口:主婦の友社を設立したのは石川武美という方です。家政婦という人たちのやりくり、工夫、人間関係などをサポートしながら“これは面白い、これを広めればみんなのためになる”と考え、『主婦の友』という雑誌を創刊しました。そこには、ただのおかずの作り方ではなく、家族と向き合う女性たちの哲学がありました。昭和10年代の献立表を見ると、旬を見極めるための知恵も書いてあります。

神保町という街は、台所の匂いが混ざった言葉が眠っています。音楽と暮らしが織りなす声が残っています。カザルスホールで朗読された詩。お茶の水図書館の片隅に貼られていた手書きのメモ。主婦の友の誌面から立ち上がる味噌汁の湯気のようなもの。それらはみんな、文学という名を与えられなかった文学たちです。けれど、声にならなかったからこそ、深く染みる言葉があります。

そういえば、神保町には「ささま」という和菓子屋さんがあります。「松葉最中」を頬張ると母親のような優しさがじんわり広がっていきます。神保町、都内でも僕が大好きな街の一つです。

(構成=中山洋平)

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