イタリアンレストラン「ラ・ブリアンツァ」のオーナーシェフ・奥野義幸さんが、料理人になった経緯や自身の経営哲学、さらには飲食業界の展望などについて語った。
奥野さんは1972年生まれの和歌山県出身。六本木ヒルズにある「ラ・ブリアンツァ」をはじめ、都内に7店舗を構える飲食業界のフロントランナーだ。
奥野さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
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「ラ・ブリアンツァ」本店がある六本木ヒルズを出発した「BMW iX3 M Sport」。その車中にて、見慣れた街の景色を眺めながら奥野さんは、これまでの半生を語り始める。
和歌山県で料亭や喫茶レストランなどを経営する家庭で育った奥野さんだが、料理人を志したのはかなり遅く、アメリカの大学を卒業して会社員生活を経験したあとだった。ビジネスマンからコックへの異色の転身に、家族はどう反応したのか。
奥野:めちゃくちゃ反対されましたよ。親からは「アメリカの大学まで行かせたのに、何でコックになるの!?」と言われました。しかし、20代前半の男の子が「料理がやりたい」「面白そう」と思ってしまえば、もう止まりません。飲食店に関する知識が当時全くなかったので、ミシュランのようなレストランガイドの本を買い、掲載されていた店舗に片っ端から「僕を使ってください!」と電話したのを覚えています。
イタリアンを選んだ理由は、和食やフレンチは厳しいイメージで、20代から始めるのは遅いのではないかという懸念があったからです。その一方でイタリアンは当時、有名レストラン「キャンティ」さんなどのおかげもあって「イタ飯ブーム」が巻き起こっていました。ジャンルとして、まだ始まったばかりで仰々しさもなく、それに西洋的文化への憧れもあったので、イタリアンのシェフになることを決めたのです。
こうして奥野さんは料理の世界へ。本場イタリアで武者修行をするべく、まずは3年ほど東京都内の飲食店・数店舗でがむしゃらに働き、イタリア文化会館でイタリア語を学習するなどして力を蓄えていく。そして、機は熟した。
奥野:結婚して1人目の子どもができたぐらいのタイミングだったのですが、もう「今行かないといけない」という気持ちでしたね。僕のなかで「英語学ぶならアメリカ、和食やるなら京都」というコンサバティブな考えがあって。なので、イタリアンを学ぶには「現地へ行くのが一番いいんだろうな」、「早いんだろうな」と思っていたんです。それに、先輩の料理人からも「実際に仕事をしなくても、文化に触れて遊んでくるだけでも得らえられるものがあるから、1回は行ったほうがいい」とアドバイスを受けていました。そんなわけで、特別に奮起するわけでもなく、ごく自然な流れでイタリア行きを決めました。また、イタリア人のなかには保守的で凝り固まった考え方を持つ人が少なからずいて、ひょっとしたら差別もあるのかなと不安に思っていたのですが、実際に行ってみると、気持ちいいくらいにみんないい人でしたね。
奥野:日本って「こうしなきゃいけない」と、タイトなロープで括られたような生活を強いられるじゃないですか。でも、イタリアは全然そうじゃない。レシピを事細かに決めることがまずナンセンスなんですよ。日本でも、各家庭でポテトサラダの作り方やカレーに入れる肉の種類が違ったりしますが、それと同じように、料理に対する考え方が本当に自由なんです。未だに僕のお店に来て「この料理はレシピと違う」と指摘される方がいるんですけど、それは捉え方の違いにすぎません。もう少し料理を浅く考えていいということをイタリアでは学びました。
イタリアから帰国後、最初に働いた店舗「ブリアンツァ」のオーナー権を譲り受けて経営者となった奥野さん。当初は本場イタリアと同じものを提供することにこだわった時期もあったものの、お客さんとのコミュニケーションを経て“イタリア原理主義”から脱却し、“カスタマーファースト”へと柔軟に方向転換したという。
奥野:イタリア原理主義自体、僕はあってもいいと思うんです。特に、東京はイタリア料理店の数がローマよりも多いとされるくらいですから。そのなかで、原理主義もイノベーションもあっていい。とはいえ、「●●村の■■料理」といった具合に原理主義的なメニューだけでは、お客様から理解を得られなかったりする。お客様が望む料理って、案外シンプルに、ボンゴレビアンコやカルボナーラのようなオーソドックスなものだったりするんですよね。カルボナーラはどこのイタリア料理店にもありますが、自分なりのカルボナーラを創造すること。これが肝要だと思います。
奥野さんは現在、都内に7店舗を展開中。すべてイタリア料理店でありながら、一つひとつの店舗が異なるコンセプトを持っている。たとえば、八重洲のヤンマービルにある「アステリスコ」はお米料理の店で、常盤橋の「ブリアンツァTOKYO」は炭火焼にこだわった大型店といったように、店舗の大きさも価格帯も様々だ。では、どのような方針でお店を運営しているのだろうか?
奥野:ファミリーレストランのように、全ての店舗で同じ料理を提供するほうが、経営上コントロールしやすいのは間違いありません。昔はそれでよかったのですが、今はスマホで自分が本当に食べたいものを簡単に探せる時代です。であるならば、ある程度、出店した街に合わせてメニューを変えたほうが集客を見込めると考えました。また、料理を店舗ごとで変えることは、なかで働く人間のモチベーションにもかかわってきます。たとえば、セントラルキッチンから送られてきた食材を所定のレシピ通りに調理する作業であれば、アルバイトでもできますし、シェフがいる意味がそもそもありません。そんなわけで、リクルーティング面でも、そのほうがいいだろうと思いました。
奥野:僕は従業員を「雇う」というよりも、一緒に働いてもらう仲間を見つける感覚でいます。関係性でいえば上ではなく、たまたま社長という肩書が付いているだけです。僕も一緒にキッチンで料理を作っていますし。アメリカだと賄いのことをファミリーミールと呼ぶのですが、そんな感じですかね。つまり「家族になれる人」。一緒にいて嫌な人とは働きたくありません。「生理的に合わない」って、人間あるじゃないですか。それはしょうがないと思うんです。だけど、そうでなければ「とりあえず一緒に働いてみよう」という気持ちでいます。昭和っぽい考え方かもしれませんが、僕は“飲みニケーション”も大事だと思うんですよ。そこにあるのがお酒でなくてもいいし、ご飯を食べながら……でもいい。人間活動を一緒にしていきたいんです。だから、なるべく時間が許す限りスタッフと話したいと思っていますし、うちのスタッフたちは「僕と飲みたい子が多い」と僕は思っています。
さらに、自身の経営哲学についても語ってくれた。
奥野:僕は、経営ってめちゃくちゃシンプルだと考えています。スタッフと仲良く楽しく働けば、お客様は来ると信じているんです。料理がおいしいだけ、ワインがおいしいだけではお客様は来ません。たとえば、缶ビールを目の前に置くだけのバーがあるとします。そのお店のバーテンとめちゃくちゃ気が合ったら、たとえビールの値段が一般的な価格の3倍だったとしても、僕はリピートする気がするんです。つまり、プロダクトに頼り過ぎないことが大切だと思うんです。
スタッフやお客さんとの対話を大切にしながら、料理人及び経営者として邁進し続ける奥野さん。そんな彼に、飲食業界の未来と自身のビジョンを聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
奥野:少子高齢化や円安など様々な問題から、料理業界全体の未来をネガティブに捉える人は多くいます。でも日本は依然として内需が強く、おまけにインバウンド需要もある。なので、狙いどころさえしっかりと定めれば、日本における飲食の未来は悲観的なものではないと考えています。そんななかで僕もどんどんチャレンジしていきたいです。たとえば、来年には大阪梅田の複合施設「グランフロント大阪」に新店舗を出店しますし、このほかにもいくつかのプロジェクトが進行中です。あとは「ラ・ブリアンツァ」だけでなく、もう一つの柱を作りたいと思っています。「未来は明るい」と楽観的に言うつもりはありません。ですが、自分次第で明るくすることはできると考えています。
(構成=小島浩平)
奥野さんは1972年生まれの和歌山県出身。六本木ヒルズにある「ラ・ブリアンツァ」をはじめ、都内に7店舗を構える飲食業界のフロントランナーだ。
奥野さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。
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料理人への転身を決めたとき、家族の反応は…
和歌山県で料亭や喫茶レストランなどを経営する家庭で育った奥野さんだが、料理人を志したのはかなり遅く、アメリカの大学を卒業して会社員生活を経験したあとだった。ビジネスマンからコックへの異色の転身に、家族はどう反応したのか。
奥野:めちゃくちゃ反対されましたよ。親からは「アメリカの大学まで行かせたのに、何でコックになるの!?」と言われました。しかし、20代前半の男の子が「料理がやりたい」「面白そう」と思ってしまえば、もう止まりません。飲食店に関する知識が当時全くなかったので、ミシュランのようなレストランガイドの本を買い、掲載されていた店舗に片っ端から「僕を使ってください!」と電話したのを覚えています。
イタリアンを選んだ理由は、和食やフレンチは厳しいイメージで、20代から始めるのは遅いのではないかという懸念があったからです。その一方でイタリアンは当時、有名レストラン「キャンティ」さんなどのおかげもあって「イタ飯ブーム」が巻き起こっていました。ジャンルとして、まだ始まったばかりで仰々しさもなく、それに西洋的文化への憧れもあったので、イタリアンのシェフになることを決めたのです。
こうして奥野さんは料理の世界へ。本場イタリアで武者修行をするべく、まずは3年ほど東京都内の飲食店・数店舗でがむしゃらに働き、イタリア文化会館でイタリア語を学習するなどして力を蓄えていく。そして、機は熟した。
奥野:結婚して1人目の子どもができたぐらいのタイミングだったのですが、もう「今行かないといけない」という気持ちでしたね。僕のなかで「英語学ぶならアメリカ、和食やるなら京都」というコンサバティブな考えがあって。なので、イタリアンを学ぶには「現地へ行くのが一番いいんだろうな」、「早いんだろうな」と思っていたんです。それに、先輩の料理人からも「実際に仕事をしなくても、文化に触れて遊んでくるだけでも得らえられるものがあるから、1回は行ったほうがいい」とアドバイスを受けていました。そんなわけで、特別に奮起するわけでもなく、ごく自然な流れでイタリア行きを決めました。また、イタリア人のなかには保守的で凝り固まった考え方を持つ人が少なからずいて、ひょっとしたら差別もあるのかなと不安に思っていたのですが、実際に行ってみると、気持ちいいくらいにみんないい人でしたね。
現地で痛感した日本とイタリアの違い
本場イタリアで奥野さんは、3年間でリグーリア、ピエモンテ、ロンバルディア、カンパニア、シチリア、エミリア・ロマーニャなど8つの州の星付きレストランで修行を重ねる。シェフとして厨房に立つなかで、日本との考え方の違いに驚かされたようだ。奥野:日本って「こうしなきゃいけない」と、タイトなロープで括られたような生活を強いられるじゃないですか。でも、イタリアは全然そうじゃない。レシピを事細かに決めることがまずナンセンスなんですよ。日本でも、各家庭でポテトサラダの作り方やカレーに入れる肉の種類が違ったりしますが、それと同じように、料理に対する考え方が本当に自由なんです。未だに僕のお店に来て「この料理はレシピと違う」と指摘される方がいるんですけど、それは捉え方の違いにすぎません。もう少し料理を浅く考えていいということをイタリアでは学びました。
イタリアから帰国後、最初に働いた店舗「ブリアンツァ」のオーナー権を譲り受けて経営者となった奥野さん。当初は本場イタリアと同じものを提供することにこだわった時期もあったものの、お客さんとのコミュニケーションを経て“イタリア原理主義”から脱却し、“カスタマーファースト”へと柔軟に方向転換したという。
奥野:イタリア原理主義自体、僕はあってもいいと思うんです。特に、東京はイタリア料理店の数がローマよりも多いとされるくらいですから。そのなかで、原理主義もイノベーションもあっていい。とはいえ、「●●村の■■料理」といった具合に原理主義的なメニューだけでは、お客様から理解を得られなかったりする。お客様が望む料理って、案外シンプルに、ボンゴレビアンコやカルボナーラのようなオーソドックスなものだったりするんですよね。カルボナーラはどこのイタリア料理店にもありますが、自分なりのカルボナーラを創造すること。これが肝要だと思います。
奥野さんは現在、都内に7店舗を展開中。すべてイタリア料理店でありながら、一つひとつの店舗が異なるコンセプトを持っている。たとえば、八重洲のヤンマービルにある「アステリスコ」はお米料理の店で、常盤橋の「ブリアンツァTOKYO」は炭火焼にこだわった大型店といったように、店舗の大きさも価格帯も様々だ。では、どのような方針でお店を運営しているのだろうか?
奥野:ファミリーレストランのように、全ての店舗で同じ料理を提供するほうが、経営上コントロールしやすいのは間違いありません。昔はそれでよかったのですが、今はスマホで自分が本当に食べたいものを簡単に探せる時代です。であるならば、ある程度、出店した街に合わせてメニューを変えたほうが集客を見込めると考えました。また、料理を店舗ごとで変えることは、なかで働く人間のモチベーションにもかかわってきます。たとえば、セントラルキッチンから送られてきた食材を所定のレシピ通りに調理する作業であれば、アルバイトでもできますし、シェフがいる意味がそもそもありません。そんなわけで、リクルーティング面でも、そのほうがいいだろうと思いました。
あえて“飲みニケーション”を大事にする理由
飲食業界は、上下関係の厳しい徒弟制度が根強く残るとされている。しかし奥野さんは、この従来の価値観にメスを入れる。奥野:僕は従業員を「雇う」というよりも、一緒に働いてもらう仲間を見つける感覚でいます。関係性でいえば上ではなく、たまたま社長という肩書が付いているだけです。僕も一緒にキッチンで料理を作っていますし。アメリカだと賄いのことをファミリーミールと呼ぶのですが、そんな感じですかね。つまり「家族になれる人」。一緒にいて嫌な人とは働きたくありません。「生理的に合わない」って、人間あるじゃないですか。それはしょうがないと思うんです。だけど、そうでなければ「とりあえず一緒に働いてみよう」という気持ちでいます。昭和っぽい考え方かもしれませんが、僕は“飲みニケーション”も大事だと思うんですよ。そこにあるのがお酒でなくてもいいし、ご飯を食べながら……でもいい。人間活動を一緒にしていきたいんです。だから、なるべく時間が許す限りスタッフと話したいと思っていますし、うちのスタッフたちは「僕と飲みたい子が多い」と僕は思っています。
奥野:僕は、経営ってめちゃくちゃシンプルだと考えています。スタッフと仲良く楽しく働けば、お客様は来ると信じているんです。料理がおいしいだけ、ワインがおいしいだけではお客様は来ません。たとえば、缶ビールを目の前に置くだけのバーがあるとします。そのお店のバーテンとめちゃくちゃ気が合ったら、たとえビールの値段が一般的な価格の3倍だったとしても、僕はリピートする気がするんです。つまり、プロダクトに頼り過ぎないことが大切だと思うんです。
スタッフやお客さんとの対話を大切にしながら、料理人及び経営者として邁進し続ける奥野さん。そんな彼に、飲食業界の未来と自身のビジョンを聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
奥野:少子高齢化や円安など様々な問題から、料理業界全体の未来をネガティブに捉える人は多くいます。でも日本は依然として内需が強く、おまけにインバウンド需要もある。なので、狙いどころさえしっかりと定めれば、日本における飲食の未来は悲観的なものではないと考えています。そんななかで僕もどんどんチャレンジしていきたいです。たとえば、来年には大阪梅田の複合施設「グランフロント大阪」に新店舗を出店しますし、このほかにもいくつかのプロジェクトが進行中です。あとは「ラ・ブリアンツァ」だけでなく、もう一つの柱を作りたいと思っています。「未来は明るい」と楽観的に言うつもりはありません。ですが、自分次第で明るくすることはできると考えています。
(構成=小島浩平)
番組情報
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毎週土曜日11:00-11:30