J-WAVEで放送中の番組『SONAR MUSIC』(ナビゲーター:Kaito)。「音楽を愛する全ての人と作り上げる「(超)進化型音楽番組」だ。毎回ゲストを迎え、様々なテーマを掘り下げていく。
2020年11月18日(水)のオンエアは、「注目! サポートミュージシャン〜ドラム編」をテーマにお届け。ゲストは登場順に、ドラマーの石若 駿、河村"カースケ"智康、FUYU。
ゲストの石若 駿は、くるり、米津玄師、KID FRESINO、君島大空、millennium paradeなど、数多くのライブ、作品に参加するドラマーだ。サポートミュージシャンの仕事を始めたきっかけは何だったのか。
石若:ジャズドラマーとしても活動してるんですけど、そのジャズの音楽の中でいろんなアーティストと共演する機会があって。フリューゲルホーン奏者のTOKUさんのバンドでツアーしたり、大きな場所で演奏させてもらったりしたときに「サポートミュージシャンのことをもっとちゃんと知らなきゃ」と思ったことが、きっかけだったのかなと思います。
Kaito:それって何歳くらいのときだったんですか?
石若:多分17、18歳くらいの頃だったと思います。上京してきて、ちょっとしたくらいだったので。TOKUさんにはすごく鍛えられたなって思います。歌の後ろで演奏するってことが経験として少なかったので、それが原点なのかなって思います。
Kaito:それまではどういう活動をしてたんですか?
石若:ひたすらジャスのインストゥルメンタルをやってましたね。
Kaito:そうなんですね。ちなみにサポートのお仕事は何年くらいやられてるんですか?
石若:10年以上ですかね。
Kaito:その中で築き上げてきたスタンスみたいなものってありますか?
石若:「なんで呼んでくれるか」っていうのは、けっこうドラマーその人のキャラクターの出す音だったり、その人のフレーズ感だったり、演奏している姿だったりで呼ばれたりしている気がして。僕はそういうのを自分から積極的に出そうとするスタンスでいますね。
Kaito:自分の持ち味をどう活かすかみたいな。
石若:そうですね。「自分の好きなことをやる!」みたいな感じですね。
番組では、石若が参加したくるり『だいじなこと』をオンエアした。
Kaito:この曲に参加されたということですが、そのときの思い出はありますか?
石若:本当にくるりが好きで、ずっと聴いていたバンドだったので、オファーがあってスタジオに入るときは「もうくるりが好きな自分で行こう」って思ってたんです。でも、実際スタジオに入ったら、岸田さんに「もと石若汁をだしてくれんか」って言われて(笑)。そこから「もっと自由にやっていいんだ」って思いましたね。くるりの曲で初めて参加した曲なので、すごく思い入れがあります。今、聴いてて泣きそうでした。あはははは。
Kaito:先ほど、ジャズから入っていったとおっしゃってましたが、普段やってないような全然違うジャンルのオファーがきたときは、どんな風に切り替えていくんですか?
石若:とにかくその音楽に近いものをたくさん聴きますね。
Kaito:いろんなものをインプットして、吸収していくって感じなんですね。その中でも自分を出していかなきゃいけないですもんね。
石若:やっぱり現場に行って、「やれるかやれないか」ってけっこう自分でわかるもので、でもその中で頑張って出したものが自分の味だったりするんですよね。
石若がサポートミュージシャンとして一番大切にしていることとは?
石若:ドラマーというキャラクターは、僕の中では縁の下の力持ちのような、その場の音楽を良くする役割だと思ってて。ドラムって音量も大きいし、テンポも担っているし、そういう部分でバンドメンバーに与える影響力が大きいので、共演者が何を考えているかっていうのを常にキャッチして、いい方向、いいライブに“ワッショイ”することが大事なのかなって思います。
そんな河村がサポートミュージシャンの仕事を始めたきっかけは何だったのか。
河村:僕らが若い頃はみんなバンドをやっていて、サポートミュージシャンなんて全然なかったんです。ある日、バイトというか仕事の話を友だちからもらって、それがボーヤという、今で言うローディーですね。楽器を運んだり、セッティングしたり、そういう仕事の話がありました。それで音楽の世界に入ったんですけど、それが『木綿のハンカチーフ』の太田裕美さんのバックバンドで、そのボーヤを1年半くらいやってました。あるきっかけでそのバンドが変わるというときに、太田裕美さんのマネージャーに「お前、もう曲全部覚えてるだろう?」って言われて、「覚えてます」「じゃあお前、やってみろ」「あ、じゃあやりまーす」って。それが一番最初の仕事だったかな。
太田裕美のマネージャーにサポートを頼まれたのは、河村が当時18歳の頃だった。
河村:やっぱりリアルタイムで『木綿のハンカチーフ』は大好きな曲だったので、その曲をまさか自分が演奏するとは思わなかったし、そういう世界も初めてだったし、何かいろんなことが刺激的だったかな。サポートミュージシャンみたいな頭は当時なくて、やっぱバンドを作って、バンドで何とかしたいっていう頭しかなかったんです。そういう中でたまたま入ったから、それでそういう世界も知ったという感じです。
様々なアーティストと仕事をしてきた河村が、印象に残っている仕事とは?
河村:いっぱいあります。最近だと例えば、星野 源ちゃんがやったワールドツアー。上海と台湾に行ったときにお客さんの盛り上がり方がとにかくすごくて、本当に感動するくらいすごくて。曲のカウントがかき消されるぐらい、演奏が聴こえなくなっちゃうくらいの歓声っていうのを久しぶりに聴いた感じがして、その熱狂具合が印象に残ってますね。
サポートミュージシャンとして、河村が一番大切にしていることも訊いた。
河村:なぜ僕たちがその仕事に呼ばれるのかと考えてみると、もちろん演奏力とかそういう良し悪しもあるんでしょうけど、やっぱり人としてどれだけ信頼されているか、こいつがいいよっていう、そういうところで多分呼ばれるんじゃないかなと思うんです。だから、人との繋がりというか、そういうのが一番大切な仕事だなと思います。あとは演奏力のセンスや、その人としてのセンス、楽器は何使うのか、どうやって弾くか、そういうセンスもあるし、その人としてのセンスも大切なのかなと思います。
Kaito:FUYUさんがサポートミュージシャンの仕事を始めたきっかけは何だったんですか?
FUYU:自分は7歳から28歳くらいまでずっとニューヨークにいたので、10代の頃からそういうミュージシャンのサポートの仕事をしていました。日本では10数年前にMISIAの「星空のライヴ」というツアーがあったんですけど、それがきっかけで日本に引っ越して、日本で仕事を始めました。
Kaito:今まで様々なアーティストと仕事をしてきて、自分に求められていることはどんな部分だと思いますか?
FUYU:もちろんアーティストによって求められるところはいろいろ変わるのかなって思うんですけど、基本的にドラマーとして土台にならなきゃいけないし、人が安心できるようなドラマーにならなきゃいけないなって思いますね。もちろんスキルも必要だと思いますし、あとはアーティスト活動もさせてもらっているので、そういう一面も見たいっていうのもあると思うので、ステージパフォーマンスも求められるのかなって思います。
番組では、FUYUが参加したMISHA『逢いたくていま』をオンエアした。
FUYU:この曲は、MISIAとの初レコーディング曲なのでけっこう思い入れ深いですね。
Kaito:このレコーディングのときに気をつけたことはありますか?
FUYU:このときはMISIAのバンドに入った直後でかなり緊張していて、そのまんまレコーディングだったので、実はあんまり内容を覚えてないんです(笑)。
Kaito:でも、そんなにすぐにレコーディングに呼ばれるってすごいことですよね。今まで数々の楽曲に参加されてきたと思いますが、その中でも印象に残っている楽曲やアーティストさんはいますか?
FUYU:やっぱり日本での自分のキャリアは、MISIAさんが初めてだったのでそこはありますよね。あとは、もちろんEXILEのATSUSHIくんとの出会いもあって、今バンドもやらせてもらってるんですけど、一緒にやってきた今までのツアーとかやっぱり思い出に残ってますね。
Kaito:FUYUさんが叩かれているスタイルをそのアーティストにどう寄せていくというか、寄せていく難しさってありますか?
FUYU:いい質問ですね。僕はゴスペルのスタイルで日本に来たので、確かに日本の音楽とたまにリズムが合わなかったり、スピードが合わなかったりとかってことがあって。でも自分は日本の文化もアメリカの文化もどっちも大好きなので、日本に来てから日本の文化をしっかり体に取り入れようと思ってやっていたら、自然と日本の音楽とのハイブリットというかミックスできたんですよね。
Kaito:なるほど~。だから聴いていてすごく心地よさがあるのかもしれないですね。
最後に、サポートミュージシャンとして一番大切なことは何かを訊いた。
FUYU:シンプルに言うと、僕は“愛”だと思います。みんなで手を繋いでいい音楽を作っていこうというチームプレーが大切だなと。もちろんスキルも大事だとは思いますけど、やっぱり愛ですね。
2020年11月18日(水)のオンエアは、「注目! サポートミュージシャン〜ドラム編」をテーマにお届け。ゲストは登場順に、ドラマーの石若 駿、河村"カースケ"智康、FUYU。
「現場で頑張って出したものが自分の味」
ソロアーティストやメンバーの足りないバンドを支えるサポートミュージシャンたち。この日のオンエアでは、ドラマーにスポットを当て、掘り下げて紹介した。ゲストの石若 駿は、くるり、米津玄師、KID FRESINO、君島大空、millennium paradeなど、数多くのライブ、作品に参加するドラマーだ。サポートミュージシャンの仕事を始めたきっかけは何だったのか。
石若:ジャズドラマーとしても活動してるんですけど、そのジャズの音楽の中でいろんなアーティストと共演する機会があって。フリューゲルホーン奏者のTOKUさんのバンドでツアーしたり、大きな場所で演奏させてもらったりしたときに「サポートミュージシャンのことをもっとちゃんと知らなきゃ」と思ったことが、きっかけだったのかなと思います。
Kaito:それって何歳くらいのときだったんですか?
石若:多分17、18歳くらいの頃だったと思います。上京してきて、ちょっとしたくらいだったので。TOKUさんにはすごく鍛えられたなって思います。歌の後ろで演奏するってことが経験として少なかったので、それが原点なのかなって思います。
Kaito:それまではどういう活動をしてたんですか?
石若:ひたすらジャスのインストゥルメンタルをやってましたね。
Kaito:そうなんですね。ちなみにサポートのお仕事は何年くらいやられてるんですか?
石若:10年以上ですかね。
Kaito:その中で築き上げてきたスタンスみたいなものってありますか?
石若:「なんで呼んでくれるか」っていうのは、けっこうドラマーその人のキャラクターの出す音だったり、その人のフレーズ感だったり、演奏している姿だったりで呼ばれたりしている気がして。僕はそういうのを自分から積極的に出そうとするスタンスでいますね。
Kaito:自分の持ち味をどう活かすかみたいな。
石若:そうですね。「自分の好きなことをやる!」みたいな感じですね。
番組では、石若が参加したくるり『だいじなこと』をオンエアした。
石若:本当にくるりが好きで、ずっと聴いていたバンドだったので、オファーがあってスタジオに入るときは「もうくるりが好きな自分で行こう」って思ってたんです。でも、実際スタジオに入ったら、岸田さんに「もと石若汁をだしてくれんか」って言われて(笑)。そこから「もっと自由にやっていいんだ」って思いましたね。くるりの曲で初めて参加した曲なので、すごく思い入れがあります。今、聴いてて泣きそうでした。あはははは。
Kaito:先ほど、ジャズから入っていったとおっしゃってましたが、普段やってないような全然違うジャンルのオファーがきたときは、どんな風に切り替えていくんですか?
石若:とにかくその音楽に近いものをたくさん聴きますね。
Kaito:いろんなものをインプットして、吸収していくって感じなんですね。その中でも自分を出していかなきゃいけないですもんね。
石若:やっぱり現場に行って、「やれるかやれないか」ってけっこう自分でわかるもので、でもその中で頑張って出したものが自分の味だったりするんですよね。
石若がサポートミュージシャンとして一番大切にしていることとは?
石若:ドラマーというキャラクターは、僕の中では縁の下の力持ちのような、その場の音楽を良くする役割だと思ってて。ドラムって音量も大きいし、テンポも担っているし、そういう部分でバンドメンバーに与える影響力が大きいので、共演者が何を考えているかっていうのを常にキャッチして、いい方向、いいライブに“ワッショイ”することが大事なのかなって思います。
人としてどれだけ信頼されているかが一番大切
ここからは、名だたる大物ミュージシャンのライブやレコーディングに参加してきた、サポートドラマー界の重鎮、河村"カースケ"智康が登場。桑田佳祐、福山雅治、藤井フミヤ、椎名林檎、氷室京介、布袋寅泰、平井 堅、松任谷由実、星野 源など、錚々たる面々と仕事をしてきた。そんな河村がサポートミュージシャンの仕事を始めたきっかけは何だったのか。
河村:僕らが若い頃はみんなバンドをやっていて、サポートミュージシャンなんて全然なかったんです。ある日、バイトというか仕事の話を友だちからもらって、それがボーヤという、今で言うローディーですね。楽器を運んだり、セッティングしたり、そういう仕事の話がありました。それで音楽の世界に入ったんですけど、それが『木綿のハンカチーフ』の太田裕美さんのバックバンドで、そのボーヤを1年半くらいやってました。あるきっかけでそのバンドが変わるというときに、太田裕美さんのマネージャーに「お前、もう曲全部覚えてるだろう?」って言われて、「覚えてます」「じゃあお前、やってみろ」「あ、じゃあやりまーす」って。それが一番最初の仕事だったかな。
太田裕美のマネージャーにサポートを頼まれたのは、河村が当時18歳の頃だった。
河村:やっぱりリアルタイムで『木綿のハンカチーフ』は大好きな曲だったので、その曲をまさか自分が演奏するとは思わなかったし、そういう世界も初めてだったし、何かいろんなことが刺激的だったかな。サポートミュージシャンみたいな頭は当時なくて、やっぱバンドを作って、バンドで何とかしたいっていう頭しかなかったんです。そういう中でたまたま入ったから、それでそういう世界も知ったという感じです。
様々なアーティストと仕事をしてきた河村が、印象に残っている仕事とは?
河村:いっぱいあります。最近だと例えば、星野 源ちゃんがやったワールドツアー。上海と台湾に行ったときにお客さんの盛り上がり方がとにかくすごくて、本当に感動するくらいすごくて。曲のカウントがかき消されるぐらい、演奏が聴こえなくなっちゃうくらいの歓声っていうのを久しぶりに聴いた感じがして、その熱狂具合が印象に残ってますね。
河村:なぜ僕たちがその仕事に呼ばれるのかと考えてみると、もちろん演奏力とかそういう良し悪しもあるんでしょうけど、やっぱり人としてどれだけ信頼されているか、こいつがいいよっていう、そういうところで多分呼ばれるんじゃないかなと思うんです。だから、人との繋がりというか、そういうのが一番大切な仕事だなと思います。あとは演奏力のセンスや、その人としてのセンス、楽器は何使うのか、どうやって弾くか、そういうセンスもあるし、その人としてのセンスも大切なのかなと思います。
サポートミュージシャンとして一番大切なのは“愛”
最後に登場したのは、ドラマーのFUYU。MISIA、EXILE、AI、スガ シカオ、JUJU、Little Glee Monster、倖田來未、中島美嘉などのレコーディングやライブに数多く参加。EXILEのATSUSHI率いるRED DIAMOND DOGSのバンドメンバーとしても活動している。Kaito:FUYUさんがサポートミュージシャンの仕事を始めたきっかけは何だったんですか?
FUYU:自分は7歳から28歳くらいまでずっとニューヨークにいたので、10代の頃からそういうミュージシャンのサポートの仕事をしていました。日本では10数年前にMISIAの「星空のライヴ」というツアーがあったんですけど、それがきっかけで日本に引っ越して、日本で仕事を始めました。
Kaito:今まで様々なアーティストと仕事をしてきて、自分に求められていることはどんな部分だと思いますか?
FUYU:もちろんアーティストによって求められるところはいろいろ変わるのかなって思うんですけど、基本的にドラマーとして土台にならなきゃいけないし、人が安心できるようなドラマーにならなきゃいけないなって思いますね。もちろんスキルも必要だと思いますし、あとはアーティスト活動もさせてもらっているので、そういう一面も見たいっていうのもあると思うので、ステージパフォーマンスも求められるのかなって思います。
番組では、FUYUが参加したMISHA『逢いたくていま』をオンエアした。
Kaito:このレコーディングのときに気をつけたことはありますか?
FUYU:このときはMISIAのバンドに入った直後でかなり緊張していて、そのまんまレコーディングだったので、実はあんまり内容を覚えてないんです(笑)。
Kaito:でも、そんなにすぐにレコーディングに呼ばれるってすごいことですよね。今まで数々の楽曲に参加されてきたと思いますが、その中でも印象に残っている楽曲やアーティストさんはいますか?
FUYU:やっぱり日本での自分のキャリアは、MISIAさんが初めてだったのでそこはありますよね。あとは、もちろんEXILEのATSUSHIくんとの出会いもあって、今バンドもやらせてもらってるんですけど、一緒にやってきた今までのツアーとかやっぱり思い出に残ってますね。
Kaito:FUYUさんが叩かれているスタイルをそのアーティストにどう寄せていくというか、寄せていく難しさってありますか?
FUYU:いい質問ですね。僕はゴスペルのスタイルで日本に来たので、確かに日本の音楽とたまにリズムが合わなかったり、スピードが合わなかったりとかってことがあって。でも自分は日本の文化もアメリカの文化もどっちも大好きなので、日本に来てから日本の文化をしっかり体に取り入れようと思ってやっていたら、自然と日本の音楽とのハイブリットというかミックスできたんですよね。
Kaito:なるほど~。だから聴いていてすごく心地よさがあるのかもしれないですね。
最後に、サポートミュージシャンとして一番大切なことは何かを訊いた。
FUYU:シンプルに言うと、僕は“愛”だと思います。みんなで手を繋いでいい音楽を作っていこうというチームプレーが大切だなと。もちろんスキルも大事だとは思いますけど、やっぱり愛ですね。
番組情報
- SONAR MUSIC
-
月・火・水・木曜21:00-24:00