さまざまなクリエイターに“情熱”について聞く、J-WAVEで放送中の番組『ROPPONGI PASSION PIT』(ナビゲーター:DEAN FUJIOKA/三原勇希)。7月11日(土)のオンエアでは、TOWA TEIが登場。これまでの経緯やニューヨークでの思い出などを語った。
■音楽で食べていく自信がなかったのに…最初のシングルがゴールドディスクに!
TOWA TEIは1990年にDeee-Liteのメンバーとして全米デビュー。帰国後9枚のソロアルバム、3枚のSweet Robots Against the Machine名義、METAFIVEのファーストアルバムなどを発表。プロデューサーとしてダウンタウン、今田耕司、NOKKOなど幅広く手がけている。
DEANとTEIは、この日が初対面。お互いに「初めまして」とあいさつを交わしてトークが始まった。
三原:TEIさんは今年デビュー30周年ということで、おめでとうございます。
TEI :ありがとうございます。中堅です。気持ちはフレッシュマンでいるんですけど。
DEAN:今の心境はどうですか?
TEI :本当に若いときにノープランで始めちゃったことなので、音楽で食べていけるなんて思っていなかったんですよ。それでニューヨークに美大生の続きをやりに行って、1987年だったんですけど、ちょうどハウスミュージックとかの黎明期で。全然学校に行かずに、昼間はレコード屋さんに行って、夜は毎晩のようにクラブに行っているうちにDJになって、バンドを始めて。一応学校には籍を置いてビザをキープしつつ、僕の場合はたまたま最初のシングルでゴールドディスクがとれて。
DEAN:すごい。
三原:最初のシングルだったんですね。
TEI :そうなんですよ。学校の先生には「絶対にグリーンカード(アメリカ永住権)なんて無理よ」「ゴールドディスクをとるか、グラミー賞の人に5枚推薦文を書いてもらわないと無理だよ」って言われたんです。「1枚だったら坂本龍一っていう人がいるんだけどな」と思って。
DEAN:あはは(笑)。
TEI :そうしたらゴールドディスクで。DJは1990年でデビューするまでやっていたので、自分たちの曲がクラブで流行るのは想定内だったんです。全米で1位もきっととれるだろうなと。
三原:それもすごいですけどね。
TEI :いま思うとね。そのあとは想定外のアウト・オブ・コントロールになっていっちゃったから。初めてのロンドンにプロモーションツアーで行って、休憩時間にメンバーとアイスクリームを食べてたら、だんだん僕らのうしろに人が増えてくる、みたいな。「俺たち追いかけられてない?」みたいな。
三原:えー!
TEI :そこらへんから状況が変わっていって。イギリスはポップチャート2位までいったので、どこに行ってもかかってましたね。
三原:そのころはどう広がっていくんですか?
TEI :最初はダンスチャート。僕らが目指したクラブでだんだんと上がって。アメリカではどこのクラブに行ってもかかっていて、それがヨーロッパにも飛び火して、そこから今度はイギリス。ヨーロッパはポップスチャートのほうに。たぶんビジュアルとかもおもしろかったからだと思うんですけれど。うれしい悲鳴というか、どんどん上がっていっちゃったので、本当にデビューしてからあっという間。仕方ないんですけど、苦節何年のバンドとかって「よし、次は渋谷公会堂だ」「次は武道館だ」みたいな、徐々にステップアップだけど、そういうのがなく、いきなりドーンっていっちゃったので、僕はけっこう病んじゃった(笑)。
DEAN:それこそ寝る時間もないような日々ですよね。
TEI :本当にね。夜中にDJをやって朝起きると、6時くらいからやらないといけなくて。他の2人(DJディミトリーとレディ・ミス・キアー)は、その瞬間を生きてるので……。
三原:メンタルが違いますか?
TEI :違う。夜中2、3時に「明日起きるのは6時からだよ。わかってる?」と言っても「いや、今が楽しいから」って踊っちゃったりしていて。それでけっきょく寝坊してきてマネージャーと喧嘩したりしていたこともありましたね。
DEAN:ロックスターですね(笑)。
■出会いと会話で、仕事を連鎖していった
TEIはニューヨークにいた頃、A Tribe Called QuestやDe La Soulといった、シーンのトップにいるアーティストと出会った。
TEI :Deee-Liteは1988年ぐらいから、地元のローカルバンドとしてけっこうやっていたんですけど、DJをやるようになっていって。彼らもデビューしたばかりというころだったんで、ローカル番組で一緒になったりして。
DEAN:すごいな……。
TEI :あるとき、大ファンだったJungle Brothersを観に行って、終わったところに、僕が年上ですけど「ファンです」と言って「Jungle DJ Towa」って書いてある名刺を渡したんです。そうしたら「この名刺はどういう人がデザインするんだ?」って訊くから「いや、僕が」って言ったら「次のセカンドアルバムをレコーディング中で、ジャケットのことを考えている最中だから、打ち合わせにスタジオに来てよ」と言われて。「いいとも!」つって(笑)。
三原:あはは(笑)。
TEI :スタジオに行ったら、マニュピレーターというかエンジニアの人が、申し訳ないけどトロくて、気持ち悪いグルーヴがずっと鳴り響いていたんですよ。「これってもしかして、アレとアレを合わせようとしてる?」「こんな作業は何万円もかかるスタジオじゃなくてウチでできるよ」と言ったが最後……。
DEAN:あー、家に来ちゃった?
TEI :そうそう。家にレコードを抱えて来るようになって。
三原:そこから始まったんですね。
TEI :そうなんですよ。そのまま今度はライブのときに客演で入っていたQ-Tipが「今度デビューするから。TOWAのことはJungle Brothersから聞いているけど手伝ってくれるかな?」って言うから「いいとも!」って(笑)。
三原:あはは(笑)。
TEI :だからA Tribe Called Questのファーストアルバム『People's Instinctive Travels and the Paths of Rhythm』を僕の家で半分以上。
DEAN:すごい!
TEI :言わないようにはしていたんですけど、Q-Tip本人がインタビューで「ほとんどTOWAの家で作った」と言っていたので。僕が作ったわけじゃないですよ。手伝っただけです。
■ダウンタウンと…日本での意外なキャリア
ニューヨークに7年間ほど住んだTWIは、結婚して子どもができたある日、妻の問いかけから日本に戻ることを決める。
TEI :長く連れ添った彼女と結婚して子どもができました。ある日「私は日本に帰るけどアンタはどうするの?」って聞かれて(笑)。「いやいや、俺も帰るよ。子どもに会いたくて結婚したんだし」と言って、それでスパッと帰ることにしました。日本の音楽業界をほとんど知らなくて、NOKKOちゃんがレベッカをやめてニューヨークに来ていて。そのときに知り合って手伝ったりしていたから、彼女や周辺の人と会ったりはしていて、その流れでNOKKOちゃんの『人魚』という曲を作ったりしたんです。
三原:日本でもソロでリリースされて、NOKKOさんの他にも今田耕司さんとかダウンタウンさんとかとお仕事されてましたよね。
TEI :ダウンタウンは、まだニューヨークにいるときに、教授(坂本龍一)と吉本興業の流れで手伝ったんです。僕が日本に帰ってきて「マネージメントをどうする?」となったときに、今は吉本の会長ですけど、大﨑 洋さんという人が「音楽班がないんだけど、TEIくんが来てくれるんだったら作る」と言って、なぜか入れられて(笑)。
DEAN:あはは(笑)。
三原:意外なキャリアですね。
TEI :意外でしょ。それで大崎さんが「最初にやりたいことある?」っていうから。ダウンタウンのときは教授から回ってきた「手伝って」だったんですけど、僕は今ちゃん(今田耕司)が好きだから、あの人は勘がよさそうだから「一緒にアルバムを作りたい」と言って、結果2枚作りました。
他にも、アメリカと異なる日本の芸能界のシステムに対する戸惑いや、都会中心の音楽制作から「自然に恵まれた中で音楽を作りたい」という想いなど、日本に帰国して感じたことや、音楽制作に対する心境の変化なども明かした。
『ROPPONGI PASSION PIT』は、東京・六本木に出現した、いろいろな人の“情熱”が集まり、重なり合い、さらに熱を増して燃え上がる秘密基地として、みんなの熱い思いを電波に乗せて発信。放送は毎週土用の23時から。
【この記事の放送回をradikoで聴く】(2020年7月18日28時59分まで)
PC・スマホアプリ「radiko.jpプレミアム」(有料)なら、日本全国どこにいてもJ-WAVEが楽しめます。番組放送後1週間は「radiko.jpタイムフリー」機能で聴き直せます。
【番組情報】
番組名:『ROPPONGI PASSION PIT』
放送日時:毎週土曜 23時-23時54分
オフィシャルサイト: https://www.j-wave.co.jp/original/passionpit/
■音楽で食べていく自信がなかったのに…最初のシングルがゴールドディスクに!
TOWA TEIは1990年にDeee-Liteのメンバーとして全米デビュー。帰国後9枚のソロアルバム、3枚のSweet Robots Against the Machine名義、METAFIVEのファーストアルバムなどを発表。プロデューサーとしてダウンタウン、今田耕司、NOKKOなど幅広く手がけている。
DEANとTEIは、この日が初対面。お互いに「初めまして」とあいさつを交わしてトークが始まった。
三原:TEIさんは今年デビュー30周年ということで、おめでとうございます。
TEI :ありがとうございます。中堅です。気持ちはフレッシュマンでいるんですけど。
DEAN:今の心境はどうですか?
TEI :本当に若いときにノープランで始めちゃったことなので、音楽で食べていけるなんて思っていなかったんですよ。それでニューヨークに美大生の続きをやりに行って、1987年だったんですけど、ちょうどハウスミュージックとかの黎明期で。全然学校に行かずに、昼間はレコード屋さんに行って、夜は毎晩のようにクラブに行っているうちにDJになって、バンドを始めて。一応学校には籍を置いてビザをキープしつつ、僕の場合はたまたま最初のシングルでゴールドディスクがとれて。
DEAN:すごい。
三原:最初のシングルだったんですね。
TEI :そうなんですよ。学校の先生には「絶対にグリーンカード(アメリカ永住権)なんて無理よ」「ゴールドディスクをとるか、グラミー賞の人に5枚推薦文を書いてもらわないと無理だよ」って言われたんです。「1枚だったら坂本龍一っていう人がいるんだけどな」と思って。
DEAN:あはは(笑)。
TEI :そうしたらゴールドディスクで。DJは1990年でデビューするまでやっていたので、自分たちの曲がクラブで流行るのは想定内だったんです。全米で1位もきっととれるだろうなと。
三原:それもすごいですけどね。
TEI :いま思うとね。そのあとは想定外のアウト・オブ・コントロールになっていっちゃったから。初めてのロンドンにプロモーションツアーで行って、休憩時間にメンバーとアイスクリームを食べてたら、だんだん僕らのうしろに人が増えてくる、みたいな。「俺たち追いかけられてない?」みたいな。
三原:えー!
TEI :そこらへんから状況が変わっていって。イギリスはポップチャート2位までいったので、どこに行ってもかかってましたね。
三原:そのころはどう広がっていくんですか?
TEI :最初はダンスチャート。僕らが目指したクラブでだんだんと上がって。アメリカではどこのクラブに行ってもかかっていて、それがヨーロッパにも飛び火して、そこから今度はイギリス。ヨーロッパはポップスチャートのほうに。たぶんビジュアルとかもおもしろかったからだと思うんですけれど。うれしい悲鳴というか、どんどん上がっていっちゃったので、本当にデビューしてからあっという間。仕方ないんですけど、苦節何年のバンドとかって「よし、次は渋谷公会堂だ」「次は武道館だ」みたいな、徐々にステップアップだけど、そういうのがなく、いきなりドーンっていっちゃったので、僕はけっこう病んじゃった(笑)。
DEAN:それこそ寝る時間もないような日々ですよね。
TEI :本当にね。夜中にDJをやって朝起きると、6時くらいからやらないといけなくて。他の2人(DJディミトリーとレディ・ミス・キアー)は、その瞬間を生きてるので……。
三原:メンタルが違いますか?
TEI :違う。夜中2、3時に「明日起きるのは6時からだよ。わかってる?」と言っても「いや、今が楽しいから」って踊っちゃったりしていて。それでけっきょく寝坊してきてマネージャーと喧嘩したりしていたこともありましたね。
DEAN:ロックスターですね(笑)。
■出会いと会話で、仕事を連鎖していった
TEIはニューヨークにいた頃、A Tribe Called QuestやDe La Soulといった、シーンのトップにいるアーティストと出会った。
TEI :Deee-Liteは1988年ぐらいから、地元のローカルバンドとしてけっこうやっていたんですけど、DJをやるようになっていって。彼らもデビューしたばかりというころだったんで、ローカル番組で一緒になったりして。
DEAN:すごいな……。
TEI :あるとき、大ファンだったJungle Brothersを観に行って、終わったところに、僕が年上ですけど「ファンです」と言って「Jungle DJ Towa」って書いてある名刺を渡したんです。そうしたら「この名刺はどういう人がデザインするんだ?」って訊くから「いや、僕が」って言ったら「次のセカンドアルバムをレコーディング中で、ジャケットのことを考えている最中だから、打ち合わせにスタジオに来てよ」と言われて。「いいとも!」つって(笑)。
三原:あはは(笑)。
TEI :スタジオに行ったら、マニュピレーターというかエンジニアの人が、申し訳ないけどトロくて、気持ち悪いグルーヴがずっと鳴り響いていたんですよ。「これってもしかして、アレとアレを合わせようとしてる?」「こんな作業は何万円もかかるスタジオじゃなくてウチでできるよ」と言ったが最後……。
DEAN:あー、家に来ちゃった?
TEI :そうそう。家にレコードを抱えて来るようになって。
三原:そこから始まったんですね。
TEI :そうなんですよ。そのまま今度はライブのときに客演で入っていたQ-Tipが「今度デビューするから。TOWAのことはJungle Brothersから聞いているけど手伝ってくれるかな?」って言うから「いいとも!」って(笑)。
三原:あはは(笑)。
TEI :だからA Tribe Called Questのファーストアルバム『People's Instinctive Travels and the Paths of Rhythm』を僕の家で半分以上。
DEAN:すごい!
TEI :言わないようにはしていたんですけど、Q-Tip本人がインタビューで「ほとんどTOWAの家で作った」と言っていたので。僕が作ったわけじゃないですよ。手伝っただけです。
■ダウンタウンと…日本での意外なキャリア
ニューヨークに7年間ほど住んだTWIは、結婚して子どもができたある日、妻の問いかけから日本に戻ることを決める。
TEI :長く連れ添った彼女と結婚して子どもができました。ある日「私は日本に帰るけどアンタはどうするの?」って聞かれて(笑)。「いやいや、俺も帰るよ。子どもに会いたくて結婚したんだし」と言って、それでスパッと帰ることにしました。日本の音楽業界をほとんど知らなくて、NOKKOちゃんがレベッカをやめてニューヨークに来ていて。そのときに知り合って手伝ったりしていたから、彼女や周辺の人と会ったりはしていて、その流れでNOKKOちゃんの『人魚』という曲を作ったりしたんです。
三原:日本でもソロでリリースされて、NOKKOさんの他にも今田耕司さんとかダウンタウンさんとかとお仕事されてましたよね。
TEI :ダウンタウンは、まだニューヨークにいるときに、教授(坂本龍一)と吉本興業の流れで手伝ったんです。僕が日本に帰ってきて「マネージメントをどうする?」となったときに、今は吉本の会長ですけど、大﨑 洋さんという人が「音楽班がないんだけど、TEIくんが来てくれるんだったら作る」と言って、なぜか入れられて(笑)。
DEAN:あはは(笑)。
三原:意外なキャリアですね。
TEI :意外でしょ。それで大崎さんが「最初にやりたいことある?」っていうから。ダウンタウンのときは教授から回ってきた「手伝って」だったんですけど、僕は今ちゃん(今田耕司)が好きだから、あの人は勘がよさそうだから「一緒にアルバムを作りたい」と言って、結果2枚作りました。
他にも、アメリカと異なる日本の芸能界のシステムに対する戸惑いや、都会中心の音楽制作から「自然に恵まれた中で音楽を作りたい」という想いなど、日本に帰国して感じたことや、音楽制作に対する心境の変化なども明かした。
『ROPPONGI PASSION PIT』は、東京・六本木に出現した、いろいろな人の“情熱”が集まり、重なり合い、さらに熱を増して燃え上がる秘密基地として、みんなの熱い思いを電波に乗せて発信。放送は毎週土用の23時から。
【この記事の放送回をradikoで聴く】(2020年7月18日28時59分まで)
PC・スマホアプリ「radiko.jpプレミアム」(有料)なら、日本全国どこにいてもJ-WAVEが楽しめます。番組放送後1週間は「radiko.jpタイムフリー」機能で聴き直せます。
【番組情報】
番組名:『ROPPONGI PASSION PIT』
放送日時:毎週土曜 23時-23時54分
オフィシャルサイト: https://www.j-wave.co.jp/original/passionpit/