震災後の町づくりはどうあるべきか? 「かさあげの下には、町の歴史があるんだ」

J-WAVEがいま注目するさまざまなトピックをお届けする日曜夜の番組「J-WAVE SELECTION」。毎月第3日曜は、震災復興プログラム『Hitachi Systems HEART TO HEART』(ナビゲーター:重松 清)をお届けしています。7月15日(日)のオンエアでは、建築家の伊東豊雄さんがゲストに登場。復興計画とコミュニティについて一緒に考えました。

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■建築家として「自分が震災にあったかのような衝撃」

伊東さんは東日本大震災や熊本地震の被災地で、「みんなの家」という、住民が心を通わせて集まることができる場所を建設する活動を続けています。また、岩手県釜石市の復興アドバイザーも務めました。

重松:建築家にとっての震災は、家が流されたり壊されたり、町がなくなるという意味では、大きな体験だったと思います。伊東さんはどのようにお考えですか?
伊東:僕らの仕事は、どこかで技術を信頼して、町や建築を作る仕事です。それが眼前で破壊されていくという、これ以上のショックはない。つまり、自分の足元が揺れているような、自分自身が震災に遭ったような衝撃を受けました。




■ふるさととコミュニティの再生の難しさ

「みんなの家」があった岩手県陸前高田市で、語り部ガイドとして活動をしている紺野文彰さんのもとを、重松が訪れました。

紺野さんはエジプトやヨーロッパの生活経験から、古い文化や歴史がいかに大切かを痛感していると言います。そんな紺野さんが感じている、ふるさととコミュニティの再生の難しさについて伺いました。

紺野:岩手県の高田松原に、あれだけのコンクリートが……。あとで草をかぶせると言ってましたよ。我々にとって(高田松原は)歴史的で世界遺産以上の宝物である心のふるさとです。静岡県の方が「富士山がなくなったらどうしよう」と同じで、我々は「どうしよう」と感じています。それを守れなかったのは残念です。


紺野:同時に、我々の歴史文化となる町がなくなることはガッカリします。歴史文化はゼロからのスタートではないわけです。それがなくなることで、町に対する愛着がなくなってしまいます。立派な先生たちがここに来て、ベストな案を決めてもらっても、それは我々の町ではないんですよ。自分たちの心のこもった町づくりじゃないと、町じゃない。町がなくなりました、埋められました。これは長い目で見れば、ふるさとに戻らない、戻ったとしてもコミュニティの精神じゃないバラバラな町になりがちです。復興住宅も素晴らしいけど、都会と同じです。「都会の人みたいです」と区長さんが言っていました。「これ、なんだろう」って。コミュニティ精神がすでに公営住宅の段階で薄れて、それぞれが“東京砂漠”というか、“田舎砂漠”という状態に陥っています。



■フラストレーションや怒りを感じる町づくりになっている

紺野さんの話のあと、「陸前高田は防潮堤と嵩上げ工事が進み、風景が大きく変わっていた」と重松は話します。

重松:伊東さんは防潮堤や嵩上げ工事をどのように感じていますか。
伊東:陸前高田の防潮堤は本当にすごいですよね。ピラミッドの断面が延々と続いていく、そのような印象です。防潮堤の高さは12、13メートルくらいなので、ベース(横)は80メートルくらいあります。僕にとって信じがたい。つまり、安心安全という名目で「誰もそれには逆らえないんだけど、防潮堤の高さは何を基準に決められたんだろう」と。東日本大震災のような津波がもう一度来たら、その津波はこの防潮堤を越えてしまうんですよ。あの基準になっているのは、明治時代の大地震(明治三陸地震)です。それは単に国の会議で「それをベースにしましょう」と決められているに過ぎないので、「この防潮堤によって自然をコントロールできるんだ」という思想自体が信じがたいです。

陸前高田の防潮堤、嵩上げ、高台移転の方針は、震災半年後の2011年9月には決まり、それ以外は住民への説明会はなかったため、紺野さんはそれに対して大きな不満と悲しさを感じています。

伊東:どこの町でも、防潮堤、嵩上げ、高台移転の3点セットなんです。陸前高田が、釜石が、あるいは大船渡が、それぞれに自分たちが作ってきた町を、自分たちの歴史に基づいて再生しようとしても、それを一切認めない。これは相当なフラストレーションや怒りを感じる町づくりだと思います。
重松:伊東さんが釜石で復興アドバイザーを務めたとき、東京から来たみなさんと、地元のみなさんとの意思疎通は大変でしたか?
伊東:はじめに釜石に行ったときは、「お前ら何をしに来たんだ。俺たちの町は俺たちでやる」と言われました。でも、3日くらい一緒に話していると「こいつらは一緒に何かやってくれるかもしれない」と思いはじめて、ガラッと変わってくるんですよ。「釜石であんな防潮堤を作らなくても、もっといろいろなやり方がある」という絵を描いて、地元の方にずいぶんと提案をしました。
重松:東京にいると、「嵩上げ工事をやりました」って言葉だけで理解していますが、嵩上げの下には、それまでの歴史がずっとあったわけですよね。元々の町を埋めて作っていることを、紺野さんの話を伺って実感しました。
伊東:津波にあわなくても、町は地層のように歴史が積み上げられているのに、それを白地図にしてしまうわけですからね。
重松:コミュニティというと、現在のまわりとの関係を考えますけど、もしかしたら、その町の歴史、過去と今を結ぶコミュニティも必要なのではないでしょうか。
伊東:全くその通りだと思います。僕も瓦礫に埋まっているときの陸前高田に足を運びました。そこに、それぞれの家の基礎が残っているわけです。そこで、東北の学生が卒業設計として、その家の基礎を調査して、そこに住んできた人たちと話をしながら、元の家を模型にしていく。それを何軒もやった学生がいて僕は非常に感激しました。


■住民と話し合いながら町作っていくことが大切

東日本大震災から7年、熊本地震から2年が経ちました。これまでの体験や経験、反省や収穫について、伊東さんはこう語ります。

伊東:たとえば、熊本地震の場合は、知事が主導して「熊本は木材が豊富な県だから、できるだけ木構造の仮設住宅を作りたい」と考え、現在は8400戸の仮設住宅のうち、約700戸が木造の仮設住宅です。それだけで、全然違った風景になるんですよ。木の香りがするとか、柔らかい明かりがあるとか、そういうことでずいぶんと癒され方が違うんです。だから、何か起こったときに「何が何でも、1日でも早い対応をしなくちゃいけないから、鉄鋼の仮設住宅にする」というようなマニュアルを、ひとつずつ見直していく必要があると思います。僕が聞いた話ですと、木造の仮設住宅を作るだけでも、国の役人とやりあわなくてはならない。しかし、「仮設住宅は基本的に2年なんだから、そんなに居心地がいいものを作られても困るんだよ」という思想が国の役人にはあるらしいんです。その思想は完全に管理者側の発想ですからね。
重松:仮設住宅に住む期間が2年っていうのは、行政からすると「ほんの2年」と思うんだけど、そこに住む人にとっては人生の2年なので大きいですよね。その2年間を少しでも居心地よく過ごしていきたい、それが人間ですよね。
伊東:だから、熊本ではできるだけ木造で作った仮設住宅は2戸をひとつにして、そのまま公営住宅にしようという動きもはじまっています。いろんな工夫をすれば、災害時に心が和らぐような住まいができるはずなんですよね。それに加え、住民の人と話し合いながら作っていくことが、本当に大切だと身に染みて感じました。


番組では他にも、岩手県最大の復興支援住宅で自治会の役員を務める方の話や、他の地域に比べて帰還率が高いといわれる釜石市根羽地区の自治会事務局の話、岩手県内の復興住宅で住民主体の自治会作りを支援する岩手大学共同研究員の話など、重松の取材をもとに伊東さんと考えました。番組の公式サイトでは、取材時の写真も掲載しています。ぜひご覧ください。

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【番組情報】
番組名:『Hitachi Systems HEART TO HEART』
放送日時:毎月第3日曜 22時-22時54分
オフィシャルサイト:http://www.j-wave.co.jp/special/hearttoheart/

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