プロランナー・大迫 傑が、これまでのキャリアを振り返り、進化し続ける自身の強みについて語った。
大迫が登場したのは、10月13日(月・祝)放送のJ-WAVE『J-WAVE HOLIDAY SPECIAL RESONAC presents EVOLVING SYMPHONY』(ナビゲーター:秦 基博、堀田 茜)。音楽と対話を通じて「進化=EVOLVING」を探るスペシャルプログラムだ。音楽家や俳優、アスリートなど、さまざまな分野で活躍するゲストが集結し、社会・人・技術が互いに影響し合うなかで生まれる「新たな価値」について語り合う。
大迫は1991年生まれ、東京都出身。中学時代から本格的に陸上競技を始め、早稲田大学では大学駅伝3冠の達成に貢献した。2015年春にプロランナーへと転向し、トラック種目では男子3,000メートルと5,000メートルの日本記録を保持。リオ2016オリンピック男子マラソン出場、東京2020オリンピック男子マラソンでは6位入賞と、数々の輝かしい実績を残している。
堀田:世界で戦う大迫さんに、マラソンとの出会い、そこで生まれたつながり、さらにはご自身のなかでの変化や進化を伺っていきます。小さいころから走ることは得意だったのでしょうか?
大迫:そうですね。小学校の運動会で毎年1位を獲るぐらい、走るのが得意だったと思います。当時は短距離も得意でしたね。
堀田:マラソンとの出会いはなんだったのですか?
大迫:長野の佐久長聖高校で競技をしていたんですけど、コーチから「将来はマラソンを走れる選手になりなさい」みたいなことを言ってもらえたのがきっかけになりましたね。
秦:最初はかけっこが速いところから始まって、途中から長距離中距離が得意だなって気づき始めたってことですよね?
大迫:そうですね。小学校のころは野球部だったんですけど、当時は練習前後にグラウンドをかなり走らされるんですよ。みんなは嫌がっていたんですけど、僕自身は楽しく走れていたんですね。
秦:あれを楽しめる人、そんなにいないですよね(笑)。そこで「走るのは楽しいな」と気づけたわけですね。
大迫:当時は町田市で野球部をやってたんですけど、小学生のころに町田市のマラソン大会で優勝したことをきっかけに、中学から陸上競技をスタートしました。
堀田:大迫さんは陸上の名門校である佐久長聖高校に入学するため、地元を離れました。強豪校での経験によって、大迫さんはどのように成長したと思いますか?
大迫:佐久長聖高校に3年間通いましたが、本当に厳しかったですね。携帯電話が禁止でテレビも18時半から19時のあいだしか観られませんでした。外出も週に1回でしたね。
秦:環境自体も厳しかったんですね。
大迫:厳しかったんですけど、それだけ競技、ひとつのことに没頭できたことはいまにすごく活きているんじゃないかなと思います。タフさは間違いなく身につきましたね。
秦:精神的に強くなりますよね。
堀田:練習はどれぐらいされていたんですか?
大迫:1日の流れでいうと、6時から朝練習で1時間ぐらい走って、日中は16時ぐらいまで授業を受けます。そこからトレーニングで、16時半から18時半ぐらいまで走っていましたね。
秦:マラソンのトレーニングって、走る以外だとどういったことをされるんですか?
大迫:ウェイトトレーニングを週に2、3回、1時間ぐらいかけてやりました。あとは、アスリート全般に言えることなんですけど、リカバリーもすごく重要なので、マッサージをしたりしましたね。
大学卒業後、実業団の陸上チームなどで競技を続けていた大迫は、2015年春にプロランナーへと転向した。
大迫:僕の場合、当時はプロになりたかったというよりは、ナイキ・オレゴン・プロジェクトという有名なチームに入りたかったんですよね。そのチームに所属するには、プロになる必要があったんですよ。
秦:どうしてもナイキのチームで活動したかったという想いがあったんですね。
大迫:そうですね。当時、ロンドンオリンピックの長距離でメダリストを多く輩出しているチームだったので、そこに行って強くなりたいなという想いがありました。
堀田:活動拠点を変える決断をしたきっかけはなんだったのでしょうか?
大迫:当時21、22歳なんですけど、「社会を知りたい」という想いが大きかったですね。誰も挑戦したことがない環境だったので、そこの高揚感もあったと思います。いろいろリスクはあったと思うんですけど、そんなものは差し置いて、「とりあえず行ってみよう」って感じでしたね。
秦:アメリカに行けば自分が速くなれるっていう予感があったってことですか?
大迫:そうですね。そのときは確信に近いような自信がありました。
秦:それは環境だったりトレーニングで感じたということでしょうか?
大迫:はい。あとはチームのメンタリティもすごく魅力的だなと思いましたね。
堀田:日本とアメリカで練習内容も違うんでしょうか?
大迫:当時はだいぶ違ったと思います。あとは環境、広大な芝生のグラウンドがあったりとか、トラックのアクセスがよかったりしたんですよね。トレーナーやフィジカルコーチらがすべてチームとして作られていたのが、いちばん大きな違いかなと思います。
堀田:アメリカでの経験でマラソンへの向き合い方は変わりました?
大迫:そうですね。僕は5,000メートルとか1万メートルの短い距離でオリンピックに出ていたんですけど、この流れでマラソンが走れるんじゃないかなという期待感を常に持っていました。
堀田:オリンピックを経験してからの心境の変化はありますか?
大迫:2016年のリオオリンピックで思うように戦えなかったことで、「いまのタイミングでマラソンに移って、しっかり戦えるように準備しよう」と考えるようになりましたね。僕のなかでのトラックからマラソンへの移行のターニングポイントかなと思います。
堀田:その後、東京オリンピックやパリオリンピックと出場されていますが、オリンピックに対する向き合い方は変わりましたか?
大迫:そうですね。特に東京オリンピックは自分にとって特別な大会ではあったので、そこに向けての想いは強かったです。もともと、アメリカに行ったきっかけも東京オリンピックを見据えたものでした。
秦:大きな目標だったんですね。
大迫:残念ながらコロナ禍で無観客でしたけど、自分なりのパフォーマンスを出せたと思います。
堀田:あらためて走ろうと思ったきっかけがあったのでしょうか?
大迫:8月にレースが終わり、10月のシカゴマラソンで当時のチームメイトがオリンピックを走って2カ月後に3着とか2着に入っていて。それを見てかっこいいなって思ったんですよね。すごく短い引退ではありましたけど、もう一度、僕もこのフィールドで戦いたいなという心の動きがありました。
堀田:復帰後はマラソンとの向き合い方も変わりましたか?
大迫:再度走り始めたときは、楽しさとしてのランニングと、陸上競技のコンペティティブのミックスで、頑張りながらも楽しもうと思っていました。でもやっぱり、競技のよさというのは、ストイックに頑張った先にゴールがあって、そのあとの気持ちよさが大事だなと、最近は思うようになりました。
秦:モチベーションが湧き上がってくると、走ることに自然と向いたってことですよね。
大迫:そうですね。いい意味で自分勝手に競技しているというか。他人がどう思うか気にせず、自分らしくいられているのは、いまも走り続けられている理由かなと思いますね。
堀田:最後に、大迫さんを変えてくれた、進化させてくれた出会いを挙げるとしたら、どんなことが浮かびますか?
大迫:やはりアメリカに行ったことはすごく大きかったと思っています。周りの人に恵まれていたというか、ナイキの方もそうですし、いまも関係があるコーチですね。彼らは僕がちょっと調子の悪いときもしっかり面倒を見てくれたので、なんとか頑張り続けることができました。
秦:走り続けてこられたなかで、ご自身の進化をどう捉えられていますか?
大迫:僕はこれまで、自分の形を決めずに、さまざまなことを吸収しながらやってきました。吸収したものを捨てることもあれば、新しいものを取り入れることもある。そうした“代謝の激しさ”こそが、自分の強みだと思っています。だからこそ、これからもその代謝を絶やさずに続けていきたいです。
大迫 傑の最新情報は公式ホームページまで。
大迫が登場したのは、10月13日(月・祝)放送のJ-WAVE『J-WAVE HOLIDAY SPECIAL RESONAC presents EVOLVING SYMPHONY』(ナビゲーター:秦 基博、堀田 茜)。音楽と対話を通じて「進化=EVOLVING」を探るスペシャルプログラムだ。音楽家や俳優、アスリートなど、さまざまな分野で活躍するゲストが集結し、社会・人・技術が互いに影響し合うなかで生まれる「新たな価値」について語り合う。
走ることが“楽しい”と感じたきっかけ
『J-WAVE HOLIDAY SPECIAL RESONAC presents EVOLVING SYMPHONY』は、番組全体をひとつの大きな“交響曲(シンフォニー)”として捉え、出会い→挑戦→未来→進化(エピローグ) という構成でお届けする。第2楽章「ZONE 2:Pulse of Action – 挑戦の鼓動」では、世界を舞台に戦い続けるアスリートたちや、現場で挑戦を重ねる人々の姿に迫る。大迫は12時台のゲストとして登場した。大迫は1991年生まれ、東京都出身。中学時代から本格的に陸上競技を始め、早稲田大学では大学駅伝3冠の達成に貢献した。2015年春にプロランナーへと転向し、トラック種目では男子3,000メートルと5,000メートルの日本記録を保持。リオ2016オリンピック男子マラソン出場、東京2020オリンピック男子マラソンでは6位入賞と、数々の輝かしい実績を残している。
堀田:世界で戦う大迫さんに、マラソンとの出会い、そこで生まれたつながり、さらにはご自身のなかでの変化や進化を伺っていきます。小さいころから走ることは得意だったのでしょうか?
大迫:そうですね。小学校の運動会で毎年1位を獲るぐらい、走るのが得意だったと思います。当時は短距離も得意でしたね。
堀田:マラソンとの出会いはなんだったのですか?
大迫:長野の佐久長聖高校で競技をしていたんですけど、コーチから「将来はマラソンを走れる選手になりなさい」みたいなことを言ってもらえたのがきっかけになりましたね。
秦:最初はかけっこが速いところから始まって、途中から長距離中距離が得意だなって気づき始めたってことですよね?
大迫:そうですね。小学校のころは野球部だったんですけど、当時は練習前後にグラウンドをかなり走らされるんですよ。みんなは嫌がっていたんですけど、僕自身は楽しく走れていたんですね。
秦:あれを楽しめる人、そんなにいないですよね(笑)。そこで「走るのは楽しいな」と気づけたわけですね。
大迫:当時は町田市で野球部をやってたんですけど、小学生のころに町田市のマラソン大会で優勝したことをきっかけに、中学から陸上競技をスタートしました。
ストイックな環境がメンタルを強化させた
当時通っていた中学校には陸上部がなかったため、大迫は片道およそ1時間半をかけて八王子まで通い、地元の中学生たちと一緒に陸上競技に打ち込んでいたという。堀田:大迫さんは陸上の名門校である佐久長聖高校に入学するため、地元を離れました。強豪校での経験によって、大迫さんはどのように成長したと思いますか?
大迫:佐久長聖高校に3年間通いましたが、本当に厳しかったですね。携帯電話が禁止でテレビも18時半から19時のあいだしか観られませんでした。外出も週に1回でしたね。
秦:環境自体も厳しかったんですね。
大迫:厳しかったんですけど、それだけ競技、ひとつのことに没頭できたことはいまにすごく活きているんじゃないかなと思います。タフさは間違いなく身につきましたね。
秦:精神的に強くなりますよね。
堀田:練習はどれぐらいされていたんですか?
大迫:1日の流れでいうと、6時から朝練習で1時間ぐらい走って、日中は16時ぐらいまで授業を受けます。そこからトレーニングで、16時半から18時半ぐらいまで走っていましたね。
秦:マラソンのトレーニングって、走る以外だとどういったことをされるんですか?
大迫:ウェイトトレーニングを週に2、3回、1時間ぐらいかけてやりました。あとは、アスリート全般に言えることなんですけど、リカバリーもすごく重要なので、マッサージをしたりしましたね。
大学卒業後、実業団の陸上チームなどで競技を続けていた大迫は、2015年春にプロランナーへと転向した。
大迫:僕の場合、当時はプロになりたかったというよりは、ナイキ・オレゴン・プロジェクトという有名なチームに入りたかったんですよね。そのチームに所属するには、プロになる必要があったんですよ。
秦:どうしてもナイキのチームで活動したかったという想いがあったんですね。
大迫:そうですね。当時、ロンドンオリンピックの長距離でメダリストを多く輩出しているチームだったので、そこに行って強くなりたいなという想いがありました。
活動拠点をアメリカに移した理由
2015年からプロランナーとしてナイキ・オレゴン・プロジェクトに所属した大迫は、活動拠点をアメリカのオレゴン州に移した。堀田:活動拠点を変える決断をしたきっかけはなんだったのでしょうか?
大迫:当時21、22歳なんですけど、「社会を知りたい」という想いが大きかったですね。誰も挑戦したことがない環境だったので、そこの高揚感もあったと思います。いろいろリスクはあったと思うんですけど、そんなものは差し置いて、「とりあえず行ってみよう」って感じでしたね。
秦:アメリカに行けば自分が速くなれるっていう予感があったってことですか?
大迫:そうですね。そのときは確信に近いような自信がありました。
秦:それは環境だったりトレーニングで感じたということでしょうか?
大迫:はい。あとはチームのメンタリティもすごく魅力的だなと思いましたね。
堀田:日本とアメリカで練習内容も違うんでしょうか?
大迫:当時はだいぶ違ったと思います。あとは環境、広大な芝生のグラウンドがあったりとか、トラックのアクセスがよかったりしたんですよね。トレーナーやフィジカルコーチらがすべてチームとして作られていたのが、いちばん大きな違いかなと思います。
堀田:アメリカでの経験でマラソンへの向き合い方は変わりました?
大迫:そうですね。僕は5,000メートルとか1万メートルの短い距離でオリンピックに出ていたんですけど、この流れでマラソンが走れるんじゃないかなという期待感を常に持っていました。
堀田:オリンピックを経験してからの心境の変化はありますか?
大迫:2016年のリオオリンピックで思うように戦えなかったことで、「いまのタイミングでマラソンに移って、しっかり戦えるように準備しよう」と考えるようになりましたね。僕のなかでのトラックからマラソンへの移行のターニングポイントかなと思います。
堀田:その後、東京オリンピックやパリオリンピックと出場されていますが、オリンピックに対する向き合い方は変わりましたか?
大迫:そうですね。特に東京オリンピックは自分にとって特別な大会ではあったので、そこに向けての想いは強かったです。もともと、アメリカに行ったきっかけも東京オリンピックを見据えたものでした。
秦:大きな目標だったんですね。
大迫:残念ながらコロナ禍で無観客でしたけど、自分なりのパフォーマンスを出せたと思います。
現役復帰後の心境の変化は?
東京オリンピックの男子マラソンで6位に入賞後、現役を引退した大迫は、2022年に競技者として復帰することを表明。パリオリンピックを目指すこととなる。堀田:あらためて走ろうと思ったきっかけがあったのでしょうか?
大迫:8月にレースが終わり、10月のシカゴマラソンで当時のチームメイトがオリンピックを走って2カ月後に3着とか2着に入っていて。それを見てかっこいいなって思ったんですよね。すごく短い引退ではありましたけど、もう一度、僕もこのフィールドで戦いたいなという心の動きがありました。
堀田:復帰後はマラソンとの向き合い方も変わりましたか?
大迫:再度走り始めたときは、楽しさとしてのランニングと、陸上競技のコンペティティブのミックスで、頑張りながらも楽しもうと思っていました。でもやっぱり、競技のよさというのは、ストイックに頑張った先にゴールがあって、そのあとの気持ちよさが大事だなと、最近は思うようになりました。
秦:モチベーションが湧き上がってくると、走ることに自然と向いたってことですよね。
大迫:そうですね。いい意味で自分勝手に競技しているというか。他人がどう思うか気にせず、自分らしくいられているのは、いまも走り続けられている理由かなと思いますね。
堀田:最後に、大迫さんを変えてくれた、進化させてくれた出会いを挙げるとしたら、どんなことが浮かびますか?
大迫:やはりアメリカに行ったことはすごく大きかったと思っています。周りの人に恵まれていたというか、ナイキの方もそうですし、いまも関係があるコーチですね。彼らは僕がちょっと調子の悪いときもしっかり面倒を見てくれたので、なんとか頑張り続けることができました。
秦:走り続けてこられたなかで、ご自身の進化をどう捉えられていますか?
大迫:僕はこれまで、自分の形を決めずに、さまざまなことを吸収しながらやってきました。吸収したものを捨てることもあれば、新しいものを取り入れることもある。そうした“代謝の激しさ”こそが、自分の強みだと思っています。だからこそ、これからもその代謝を絶やさずに続けていきたいです。
大迫 傑の最新情報は公式ホームページまで。
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番組情報
- J-WAVE HOLIDAY SPECIAL RESONAC presents EVOLVING SYMPHONY
-
2025年10月13日(月・祝)9:00-17:55
-
秦 基博、堀田 茜
