角野隼斗が大先輩・スタジオジブリ副社長と対談! 「ジブリパーク」で感じた“食べるシーン”への情熱

スタジオジブリ代表取締役副社長の中島清文と角野隼斗が対談した。ふたりの出会いやジブリパークでのコンサート、宮﨑 駿とのエピソードについて語った。

スタジオジブリの中島さんが登場したのは、9月21日(日)、9月28日(日)、10月5日(日)放送のJ-WAVE『ACROSS THE SKY』(ナビゲーター:小川紗良)の「TOKYO TATEMONO MUSIC OF THE SPHERES」。このコーナーではピアニスト・角野隼斗が、音楽を通じたさまざまな“出会い”をもとに、楽曲とトークをお届け。

ここでは、三回にわたってオンエアされた対談の内容を前編と後編に分けて紹介する。

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バンドサークルで先輩・後輩関係のふたり

中島清文さんは東京大学経済学部を卒業後、住友銀行に入行。銀行員として徳間書店とスタジオジブリを担当したことをきっかけに徳間書店に出向し、その後、移籍。2005年から2017年まで三鷹の森ジブリ美術館の館長を務める。2017年、スタジオジブリ代表取締役社長に就任。2021年、社長職を退任しジブリ美術館の館主に就任。2023年6月、株式会社ジブリパーク取締役副社長に就任。2023年10月、日本テレビ放送網の子会社となるのに伴いスタジオジブリ代表取締役副社長に就任。ジブリ美術館の館主、ジブリパークの副社長、スタジオジブリの副社長を担っている。

角野:実は10年前、大学2年生のときに初めてお会いしたんですよね。

中島:2015年、ちょうど僕が50歳になったときに学生時代のバンド仲間と再会して、「またやろうよ」という話になったんですね。そのバンドが、角野さんの東京大学時代のバンドサークルである「東大POMP」だったんです。

角野:実は中島さんって僕の大先輩なんですよね(笑)。

中島:それで4バンドぐらいでコンサートをやる話になりまして、1バンドは現役に出てもらえないかなということで、当時のサークルの部長さんに連絡を取り、そのときのキーボードで参加されていたのが角野さんだったという。

角野:はい(笑)。

中島:なんという出会いなんだろうって感じですよね。うちの家内がピアノ科出身なんですけど、同じ学校のおばさまたち含めて、すでに角野さんの存在は知っていたわけですよ。「角野君はピアノの道ではなく、東大に行ってしまった」という話を当時、彼女らはしていましたね。

角野:そうでしたか。結局、またピアノの世界に戻りました(笑)。そのときに館長を務められていたジブリ美術館にもご招待いただきまして、案内していただいたのを覚えております。

中島:「一度会いに来てよ」と部長さんにお願いして、コンサートの話をしながら美術館を1周した記憶がありますね。そのときにしか美術館は来ていませんか?

角野:そうですね。

中島:では、ぜひまた来ていただけたらと思います。

再会時にCM音楽制作をオファー

ふたりが再会したのは、角野の同級生の計らいでスタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫と顔合わせしたことがきっかけだった。

中島:再会したのは2024年でしたね。鈴木プロデューサーに角野さんを会わせたいという会がありまして。特にテーマもないからお昼を食べることになったんですけど、それを聞きつけた私が「角野君と後輩なんです」と食事会に潜り込んだんですね(笑)。

角野:そうですね(笑)。串カツを食べました。鈴木プロデューサーがめちゃくちゃ面白い話をしてくださったのを覚えています。

角野は食事会で、鈴木から繊維商品を企画・仕入・販売する丸眞のCM音楽制作の依頼を受けたという。CMは、鈴木プロデューサーの発案で、作画は映画『君たちはどう生きるか』の作画監督・本田 雄、音楽は角野、ナレーションは講談師・神田伯山が担当した。

丸眞株式会社 CM(30秒ver.)

中島:せっかく会うんだから何かお願いをしようと思って(笑)。

角野:光栄です!

中島:当時、ラフな絵で動いていたデータをパソコンで持って行って、その場で見てもらったんですよね。それで引き受けてもらった記憶があります。

角野:そうですね。犬が走り回っている、かわいらしい絵でした。

中島:作画は本田さんっていう名アニメーターが描いているので、動きは滑らか。角野さんの音楽が、そこに哀愁というか、子どものころを思い出すようなイメージで。子どものころ、友だちの家の玄関口で、もう遊ぶ時間も終わりだし……という光景が思い出されて。「これ、いいなあ」と思いました。

愛・地球博記念公園でジブリ音楽のピアノコンサートを開催

9月7日、角野は愛知県の愛・地球博記念公園 大芝生広場にて、「角野隼斗 ピアノコンサート ~ジブリパークの風にのせて2025~」を開催。コンサートは、久石 譲が手がける『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』の楽曲をはじめ、フィリップ・グラスやJ.S.バッハといったクラシック作品も盛り込んだプログラムとなった。

角野:めちゃくちゃ楽しかったです。

中島:すばらしかったですね。まず、野外でピアノひとつ、しかも芝生の広場でやられるということで、どんなコンサートになるんだろうと思っていたんですよ。やってみたら、「ピッタリな場所だ!」と思いました。

角野:そうなんですよ! 虫や犬の鳴き声が聞こえてくる空間にジブリの音楽が溶け込むというか、とてもいい時間だと思いました。

中島:夕方から涼しい風が吹き始めて、日が暮れるぐらいの18時からスタートしましたね。夕日を見ながらコンサートが始まって、最後は満月で終わるという。すごいですよね。

角野:ちょうど皆既月食の日でしたね。

中島:広場には5,000脚の椅子が並んで、それも初めて見る光景で圧巻でしたし、聴いている人はすごく静かじゃないですか。それもすばらしいなと思いました。

角野:すごい集中力で聴いてくださいました。

角野が「ジブリパーク」で気に入った展示は?

愛・地球博記念公園内にある「ジブリパーク」を初めて訪れた角野は、「この機会に見ることができて本当にうれしかったです」と声を弾ませた。



角野:細かいところも緻密に作られているので、見るところがめちゃくちゃ多かったです。

中島:「ジブリの大倉庫」の中に『千と千尋の神隠し』の湯婆婆の部屋があったり、ロボット兵がいたり、アリエッティの庭もありますが、どこがいちばん気に入りました?

角野:“ジブリ飯”を展示しているコーナーでテンションが上がりましたね。

中島:「食べるを描く。」という企画展示ですね。

角野:ジブリは日常を描くシーンを大切にされていて、日常の大部分を占めるのが「食べる」であると。そこに、どのように情熱を持って作られているのかがわかって、グッときました。

中島:食べるシーンにも必ず演出的意図があるんですよね。ただ食べるために描いているんじゃなくて、食べることを通じて、たとえばパズーとシータが心を通わせ合うとか、そういう演出意図があるんです。大変面白い展示です。そのあとの「ジブリがいっぱい展」で世界各国のビデオグラムが並んだところ、全部見ていましたよね(笑)?

角野:言語が好きなんですよね。単なる翻訳ではなく、タイトルをどういうふうにすれば、その国の方たちに伝わるかを考えていらっしゃるじゃないですか。その違いを観察するのが、めちゃくちゃ楽しかったです。

中島:しっかりと見ていただけてすごくうれしかったです。

角野:たとえば『千と千尋の神隠し』は、英語だと『Spirited Away』ですけど、フランス語だと「千尋の旅」といったニュアンスになって「千尋」という名前が入ってる。韓国は日本語のほぼ直訳で、中国語はもう少し説明的になっていて。そういう違いが面白かったです。

当初は銀行員の立場としてスタジオジブリに関わる

続いて角野は、中島さんがジブリに入ることになった転機を尋ねた。

中島:住友銀行に入行したのが1987年、ちょうどバブルが上がっていくときだったんですね。だけど、バブルが弾けたタイミングに私は融資担当で、担保なしでお金をなんとかしないといけない時代がきたわけですよ。要するに、(融資先に)なんとかして取り立てたり回収したり、しょうがないから会社を清算したりと、そういうことをしている部署にいてしまったんですね。

角野:大変そうですね。

中島:そんななか、徳間書店という会社がありまして。創業者がいろんなことをプロデュースするんだけど、借金だけが増えていった人だったんですね。徳間書店は借入過多になっていて、それをなんとかしようとなったときに、お金を返せそうだったのが徳間書店グループの中でスタジオジブリだけだったんですよ(笑)。本も出版不況で右肩下がりでしたし、CDもピークを終えて下がっていく、映画もなかなか当たらない。そんななか、ヒットを続けていたのがスタジオジブリでした。

角野:それは1990年代前半ですか?

中島:そうですね。僕がスタジオジブリの門を叩くのは1995年のことでした。『もののけ姫』の制作に入ったタイミングですね。

角野:なるほど。

中島:僕は鈴木敏夫プロデューサーに「次の作品ではいくらほどお返しいただけますでしょうか」っていう話をしに行かなきゃいけない立場だったんですよ(笑)。

角野:そうなんですね(笑)。

当時のスタジオジブリは、『おもひでぽろぽろ』や『紅の豚』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、さらに『耳をすませば』と、立て続けにスマッシュヒットを生み出していた。そうした勢いのなかで、従来の作品のおよそ2倍もの制作費を投じた大作『もののけ姫』に挑むことになったという。

中島:そうすると、いままでのスマッシュヒットだとお金が回収できないんですよ。鈴木さんに「どうやって採算を取るんでしょう?」とやり取りをしたのが、僕と鈴木さんとの仕事のはじまりです(笑)。

角野:そんなところからだったんですね!

中島:そうしたら「中島くんさ、映画ってのは“水物”だよ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。結果を先に予測できるはずがないじゃん!」と鈴木さんに言われて、「それだと銀行はダメなんですけど!」みたいな話をしていたのが『もののけ姫』のころです(笑)。

成り行きで「三鷹の森ジブリ美術館」の館長に

『千と千尋の神隠し』の公開時期に徳間社長が逝去し、その後、銀行から派遣された社長が就任した際、中島さんは同行するかたちで徳間書店に2年間、出向することになった。ちょうど『千と千尋の神隠し』や『猫の恩返し』が制作されていた時期であり、経営面に携わることとなった結果、再び鈴木プロデューサーとの密接な関わりがはじまった。

中島:実は、鈴木さんと話していくうちに、だんだんと銀行の仕事が嫌になっちゃったんですね(笑)。銀行の仕事よりも、BtoCで大衆向けにやる仕事をしたいなって思ったんです。なので、銀行から「戻れ」って言われた3日後、部長に「辞めます」と伝えました。

角野:おお~!

中島:後先考えずに辞めて、そこから1年ほど浪人していたんですけど、それを見かねた鈴木さんが「ジブリ美術館で働かないか?」と声をかけてくださったんです。その後、館長をやらせていただくことになりました。なんの脈絡もなく、流れに身をまかせるまま、ここまで来ちゃいました。

角野:結局、館長にまでなられるわけですから、面白いですね(笑)。

中島:当時、館長を務めていたのは宮﨑吾朗で、映画『ゲド戦記』の制作にあたり、監督を引き受けることになったんです。僕としては「館長代行で十分だ」と思っていました。でも当時、日本テレビの氏家会長がジブリ美術館の理事長を務めていて、「監督と館長の二足のわらじではいけない。吾朗くんは監督に専念しなさい。館長は中島がやっとけ」と言われまして、結果的に僕が館長に就くことになったんです。つまり、館長になるべくしてなったわけではないんですよ(笑)。

宮﨑 駿と、どんなやりとりをする?

宮﨑 駿との交流について訊かれた中島は、「最近はあまりないんですけども、ジブリ美術館にちょくちょく来て展示を直したり、アトリエで毎日のように制作物を作ったりしていましたね」と明かす。

中島:宮﨑さんって面白くって、何か思いつくと絵に描くんですよ。「どうだ? すごいだろ」と見せるわけです(笑)。絵がうまい小学生が自慢するみたいな様子でした(笑)。『ハウルの動く城』の舞台挨拶で、木村拓哉さんが宮﨑さんのことを称して「白髪の生えた少年」と言ったんですよ。僕はそれを聞いて「そのとおりだな」と思いました(笑)。宮﨑さんは「中島さん、今度はお金をかけずに作るからやらせて」と、いろんな工作物を作るわけですよ。だんだん作っていくうちに「ここからは業者にやってもらおう」って話になって、結局お金がかかるじゃんってなったこともあります(笑)。ものを作っているときや、考えていることを絵に描いて見せてくれるときは、本当に無邪気な少年のようですよ。

角野:へええ! 大変だったこともいろいろありますか?

中島:直接的なことではないですけど、出てきたものが違うってなったときは「そういうのはやっちゃいけない!」とやっぱり怒りますよね。いろいろ“ご指導”をいただきました(笑)。

対談記事の後半では、角野にとって久石 譲の音楽の魅力や、スタジオジブリが海外へと広がっていった経緯を語ります。

『ACROSS THE SKY』のコーナー「TOKYO TATEMONO MUSIC OF THE SPHERES」では、角野隼斗が音楽を通したさまざまな“出会い”をもとに選曲と語りをお届けする。オンエアは毎週日曜11時30分ごろから。 スタジオジブリの最新情報は公式サイトまで。
番組情報
ACROSS THE SKY
毎週日曜
9:00-12:00

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