大宮エリーが、私たちに残してくれたものは…おおはた雄一・原田郁子・小山登美夫が語る

今年4月、49歳の若さで突然この世を去った大宮エリー。作家/画家など幅広く活躍していた彼女がJ-WAVEで過ごした思い出と音声アーカイブをオンエア。また、おおはた雄一、原田郁子、小山登美夫など生前、親交のあった方々がコメントを寄せた。

この内容をお届けしたのは、11月24日(月・振休)放送のJ-WAVE『J-WAVE SPECIAL A Tribute to Ellie Omiya「生きているということ」』(ナビゲーター:クリス智子)。大宮の人生と感性に触れる特別プログラムだ。

ここでは、おおはた雄一、原田郁子、小山登美夫のコメントをテキストでお届けする。

「この人がいると空気がすごく変わるな」強烈な第一印象

大宮エリーは、自身の体調についてほとんど誰にも語らなかったため、多くの人にとっては突然の別れとなった。生前は舞台、映像、詩、エッセイ、ラジオナビゲーター、アート作品などさまざまなフィールドで表現。J-WAVEへの出演も多く、局には音声アーカイブが数多く残されている。

今回の番組は、彼女がこの世界に何を残して旅立ったのかを見つけていく時間となった。

まず、シンガーソングライターのおおはた雄一がコメントで登場。大宮とは、2014年に行われた音楽と朗読のセッションイベント「物語の生まれる場所」や、2016年の青森県十和田市でのライブペインティングと音楽のコラボなど、多くの作品や空間を生み出してきた。ふたりの初めての出会いは2012年だったという。

おおはた:沖縄で会ったんですけど、ハナレグミのツアーで沖縄のライブのあとに打ち上げで。僕が先に着いちゃって、その座敷にエリーがいたんですよ。僕、知らないから「誰?」ってなって、向こうも僕以上に「誰?」とびっくりしてて(笑)。彼女はライブを観てなかったみたいで、「インドから直接来たけどライブに間に合わなかった」って話をされて。それで、みんながわらわら入ってきて、レキシの池ちゃん(池田貴史)とかもいたのかな。みんなが「エリー!」「エリー!」って言って、その場がすごく盛り上がって「この人がいると空気がすごく変わるな」って強烈な第一印象でしたね。あとから、エリーは脚本を書いてたり、コマーシャルを作ってたり、映画も作ったり、そういういろんなことをやってた人だって知りました。恵比寿にカチャトラっていう、ミュージシャンのみんなが集まってはセッションしたりとか、そういうお店があったんですね。そこに彼女が観に来てたり、飛び入りしていくなかで、目黒にあったホテルクラスカでのイベントで初めてエリーと一緒にやったと思いますね。

行動力あふれる大宮だが、意外な一面もあったとおおはたは振り返る。

おおはた:緊張しいだったと思いますね。すごく緊張して「できるかな?」みたいになって、いま思えば、けっこうそういうことはありましたね。人前に出れば、大宮エリー節全開なんですけど。エリーとの思い出を一つひとつ振り返っても、えらい目にあったなって思いますね(笑)。ライブペインティングをやるとき、僕がギターで音を出して、エリーはいちばん前で聴いてるんですよ。「それで(どう描くか)思い付くからって。そうしたら、そのあとに世界堂の袋を持って来て、新品の絵の具を出すところから始めて「いま、そこ?」っていう(笑)。本当に型破りっていうか、そのときは大変でしたけど思い返すと面白いですね。考え方とかは僕にすごく影響を与えたところがあるし、頼りになるっていうか。そんな人だから、よく「エリーだったらどういうふうにするかな」ってよく考えますね。

なぜ、音楽イベントをやってみたかったのか。生前、大宮はこう語っている。

大宮:2013年にJ-WAVE主催でプラネタリウムの作・演出をやらせてもらって、個展もやって25,000人の方が来てくださって。「また、やって」ってけっこう言っていただいたんですけど、なかなかやれないじゃないですか。今度は音楽ライブで戻って来たいなと思っていたので、実際に劇場でやれてよかったんですけど。最初、音楽イベントはおおはたくんと一緒にやり始めたんですよ。すごくシンプルに、私が朗読しておおはたくんが音楽をやってくれたり、おおはたくんが音楽を勝手にやって、それを聴きながら私も即興で物語を考えたりとかして。40人のレストランから始めて、ホテルクラスカでやったり、「ARABAKI ROCK FEST.」に出てみたりとかやってたんですけど、だんだん積み重ねてきたものを大きな劇場でみなさんに観てもらえないかなって思って、銀河劇場でできました。集大成というか、始まったかのようなね。

原田郁子が見た、大宮エリーがものを生み出す瞬間

続いて、原田郁子がコメントで登場した。

原田と大宮は2013年に、J-WAVEのアートプロジェクトの作品として「プラネタリウムのためのソナタ」で共演。構成・演出は大宮、音楽・ナレーションは原田。言葉と音楽で星空のもとでの出来事を描く“プラネタリウムストーリー”だった。さらに、ふたりで作った音楽『変わる』と『つぼみ』は、2015年にJ-WAVEの番組『THE HANGOUT』で生演奏を披露した。共作したことで見えてきた、大宮がものを生み出す瞬間とは。

J-WAVE THE HANGOUT 大宮エリー 2015年2月18日 with 原田郁子

原田:山梨県の小淵沢という、クラムボンがそのころに合宿をしていたスタジオがあって。そこで私は作業をしていて、エリーはいろんな仕事を抱えながらはうようにやってきたんですよ。「なんとか来た」って。でも、見るからにへとへとだから、「いったん温泉に入ろう」って言って、ふうってしてごはんを食べようって感じにしてたら、次の日には帰らなきゃいけなくて。だから1泊はしたけどとんぼ返り。そこでどんなことをやるとか、リハーサルとか、そういうことをやろうとしてたんだけど、とてもやれる状況ではないからいったん疲れが取れて、また東京に帰ってからでもいいかなって私は思ってたんですけど。「もう、帰らなきゃ」みたいなときに、「やっぱり一緒に曲を作ろう」ってなって、一気にノートパソコンの前でぶわって文章を書き始めて。ちょっと近づけない雰囲気だったんですよね。動物で言うと全部の毛が逆立ったみたいな(笑)。すごい集中で。

圧倒的な集中力でパソコンに向かう大宮。しばらくして「これ、見てほしい」と原田に声をかけたという。

原田:パソコンに文章があって、でもそれは歌詞っていうよりは散文みたいで。それを読んでいて歌い出しのメロディーが聴こえてくる感じだったから、「これ、できるかも」ってピアノのところに行って、そのノートパソコンを見ながら曲を作りました。そんなことってあんまりないけれど、それを聴きながらエリーは私の足元にうずくまって寝て(笑)。パッと見たら涙を流していて、それを見て私も涙が出て。『変わる』は誰かがオファーしてくれたとか、何々のためにってことではなく、もちろんライブがあったけれど、もう少し内側から出てきたみたいな言葉というか。エリーがそのとき感じていたことなんじゃないかなと思って。それですごく特別な曲だなと思いました。

原田にとって、大宮とはどんな人間だったのだろうか。

原田:「どういう人だったんだろう」ってことを私は一生をかけて思いながら何かにしていくのかなと思うんだけど。亡くなったって知らせを聞いて、もちろんのように実感を持つことが難しい。いまもずっと「何かできたことがあったんじゃないかな」と思っているんだけど、ずっとエリーの声が聴こえてきていて。「SNSに早く上げろ」と(笑)。そういうのをものすごく気にする人で、告知とかをいつも急かされていたので、エリーのあのハチャメチャさと面白さと、まわりが巻き込まれるものすごい風速。「大宮ヘクトパスカル」って呼んでた。どんなふうに旅立っていくのかっていうのがその人を表すなって思うんですよね。心配かけないようにとか、自分のことより相手の人とか、自分に頼んでくれた人のことをいつも考えていて。その人が喜んでくれるようにとか、自分自身が無理をしていてもきっとそっちを優先してきてたから、ゆっくりできてるといいなとは思うけど。それは本心として思うんだけど、大騒ぎしてるところも想像ができるというか(笑)。いろんな人と再会して、むちゃくちゃ飲んでるのかなって、そんなことも思ったり。いつかまた会えるといいなと思ってる。

画家として描いた絵は、今後も旅をしていく

さまざまな活動をするなかで、大宮は次第に画家の活動へとシフトしていった。2022年12月にJ-WAVE『JUST A LITTLE LOVIN'』(毎週月曜〜木曜 5:00-6:00)に出演した際、その理由をこう話している。

大宮:沖縄の久高島っていう聖なる島に行ったことがあって。そのあとに描いた海の絵があるんですけど、その絵を展示したら、絵の前でたくさん人が倒れてぐうぐう寝てたんだって。そんな不思議なことがあるんだと思って、そのときに、もしかしたら言葉じゃ伝えられない波動とか、エネルギーみたいなものを絵は伝えられるのかもって。だから、私は文章じゃなくて絵の仕事に旅するようにシフトしてきたのかな、なんて思って。絵を描くことはエネルギー、波動を転写するようなことっていうか。絵の原画を見ると、この人の筆致って言うのかな、筆の厚みとかがわかるわけで、そういう目に見えないものが、これから一層大事になっていくんじゃないかなって思ってます。

朗読、言葉の表現を経て、絵を描くという表現へ軸足を移していった大宮。2016年に青森県・十和田市現代美術館での個展「シンシアリー・ユアーズ ― 親愛なるあなたの 大宮エリーより」は、画家としての大きな転機となり、その後、小山登美夫ギャラリーに所属。個展や新作の発表を精力的に行ってきた。

国内外の最前線で活躍する作家を知り尽くし、日本の現代アート界を牽引している小山は、ギャラリストとして大宮をどのように見ていたのか。こうコメントを寄せた。

小山:「なんで絵をやるの?」って、大宮さんがやってきたメディアにしてみたらすごい地味なエリアなんですね。でも、大宮さんはすごく自分の持ってることがダイレクトに出せるらしく、自分の表現として最終的にはすごくよかったみたいなんです。文章のこだわりは彼女にとって大事だっていうのは言ってたんですけど、絵というものに最終的にいったっていうのは面白いなと思いますね。絵を描くことは孤独な作業だと思うんです。人と一緒に作るとか、そういうことはできなかったりするので。でも、そこにいったっていうのも面白いなと。普通の美術家は、美術を勉強して、自分はどういう画家とか美術家になりたいかっていうことを考えながらやってることが多いと思うんです。こういう絵が描けたらいいなっていうかたちで、技術を学んで絵を描いていく。そうやって美術作品を作っていくんですけど、大宮さんの場合は、もちろん描きたいものはあって、いろんな機会があって、その機会に対して反応していく大宮さんもいるわけですよ。どこどこで展覧会をやるとか、そういうことに関して反応していく大宮さんって、サービス精神がめちゃくちゃある人なので、その場所に行って、そこから得たものを描いていくっていうこともいっぱいやってたと思うんですね。たとえば、いっぱい旅行してそこからのインスピレーションみたいのもあったと思うんですけど、そういったいろんなものから影響とか経験をしながら、それをダイレクトに発表していくっていうのは、その速度とか直接さとか、すごく面白いですね。あんまりいないですよ。

さらに、小山は1月に大宮と交わした言葉を教えてくれた。

小山:今年の1月くらいに話したときに言ってたのは、グループ展とか他人と一緒に絵を飾るとか、そういったことをやっていったら面白いかなみたいなことも話していて。そうすると、どういう位置に自分の絵があるかということも、わかるじゃないですか。そういうことによって大宮さんの絵の特異さとか面白さとか、そういったところがちゃんとわかってくるようになるといいかなって思うんですよね。この前のお別れの会のときも話していたんですけれど、「絵は残るからいいですね」ってみんな言ってたんですよ。残ってしまうこともあるんですけど、その残ることによって、いろんなところへ絵が旅することもできたりする。音楽はいろんな人が聴きに行くことができるけど、絵は物理的にいろんなところに行けるじゃないですか。それが今後できていったら面白いかなっていうふうには思います。そのなかで、大宮さんの代表的な作品がちゃんと見えてくると思うし、それでまた画家・大宮さんというものの、ちゃんとしたかたちっていうのが見えてくると思うんですよね。そういうふうに今後も追っていけたらいいかなって感じはありますね。

大宮エリーの情報は大宮エリー事務所の公式サイトまで。
番組情報
J-WAVE SPECIAL A Tribute to Ellie Omiya「生きているということ」
2025年11月24日(月・振休)
20:00-21:30

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