ビヨンセから衣装の依頼が…パリコレの影響力を、「ANREALAGE」デザイナー・森永邦彦が語る

ファッションブランド「ANREALAGE」のデザイナー・森永邦彦さんが、同ブランドのシンボルであるパッチワークに可能性を見出した学生時代の体験や、パリコレ初参戦時に絶体絶命のピンチに陥ったエピソードなどを語った。

森永さんは1980年生まれの43歳。最新テクノロジーを積極的に取り入れてファッション業界に新風を巻き起こしている「ANREALAGE」の創業者であり、サカナクションやビヨンセのステージ衣装も手掛ける新進気鋭のデザイナーだ。



森永さんが登場したのは、俳優の小澤征悦がナビゲーターを務めるJ-WAVEの番組『BMW FREUDE FOR LIFE』(毎週土曜 11:00-11:30)。同番組は、新しい時代を切り開き駆け抜けていく人物を毎回ゲストに招き、BMWでの車中インタビューを通して、これまでの軌跡や今後の展望に迫るプログラムだ。ポッドキャストでも楽しめる。

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高校時代にファッションに目覚める

森永さんを乗せて走り出した「BMW M850i xDriveグランクーペ」。車窓を流れる景色を眺めながら、まずは、「ANREALAGE」とはどんなブランドなのか。創設者本人に説明してもらった。

森永:「ANREALAGE」は、RealとUnreal、Ageという言葉を繋げてブランド名にしています。日常と非日常と、時代という3つのキーワードをコンセプトとし、2003年に立ち上げました。作っているのは、メンズ服とレディース服。最初10年は東京コレクションで発表を続け、2014年からはパリコレクションで作品を発表しています。ブランドの特徴は二方向ありまして。一つは、まだファッションに使われていないテクノロジーや新しい技術を積極的に洋服の中に取り入れていき、フューチャリスティックな表現をしていくというものです。もう一つは、手を使って時間をたくさんかけて行うアナログな服作り。一見対極に見える両方が共存していることが、「ANREALAGE」の特徴です。
森永さんがファッションに関心を持ち始めたのは高校生の頃。予備校の講師から、後に服飾レーベル「ケイスケカンダ」を立ち上げ、今も師匠・友人として親交の深い神田恵介さんを紹介されたことがきっかけだった。当時、先輩学生だった神田さんにインスパイアされた森永さんは、ファッションを通して表現活動をしてみたいというビジョンを描き始めたのだとか。

その後、神田さんが通っていた早稲田大学を受験し合格。日中は大学で講義を受け、夜は神田さんが勧めてくれたバンタンデザイン研究所でファッションについて学ぶこととなった。傍から見ると多忙そうに見えるダブルスクール生活。しかし、夢に向かって邁進していた若き日の森永さんにとって、何ら苦ではなかったようだ。

森永:昼は大学、夕方はアルバイト、夜は専門学校、その後、明け方まで服を作り、また大学へ行く……そんな毎日でした。当時は寝なくても全然平気で。服を作ることが楽しくて仕方がなく、「寝るなんてもったいない」くらいの感覚で、毎日パターンを引き、ミシンを踏んで服を作っていました。

生地屋でのバイトで見出した、パッチワークの可能性

寝る間も惜しんでファッションの勉強にのめり込んでいった学生時代の森永さん。彼がアルバイト先に生地の販売店を選んだのも、また必然だったのかもしれない。

森永:バンタンでファッションの勉強をしてはいましたが、夜間なので、昼間の学生よりも学べることが多くありません。そこで、どうせアルバイトをするのであれば、仕事を通して専門学生が学べないことを吸収しようと考え、生地屋さんで働き始めたんです。

お店さんには、日々、様々なお客さんが生地を裁断しにいらっしゃいました。その中で、必要とされない端切れや余りが、毎日結構な量出ていたんです。もちろん、そういった小さな生地では洋服を作ることが難しく、すべて捨てられてしまう。そこで、当時洋服を作るための生地を買う十分な資金がなかった僕は、店長に許可を得て、それらを持って帰ることにしました。そうなると、多種多様な素材が僕の家にどんどん溜まっていくことになる。一つひとつが小さく、一枚のテキスタイルにするのは相当な時間を要します。しかし、時間をかけて縫っていけば、どうにか服を作れることがわかりました。そんなふうにしてこのとき、今の「ANREALAGE」のパッチワークの原型のようなものが出来上がったんです。

フリクションボールペンから生まれた洋服のアイデア

ファッションの世界には「流行色」が存在し、毎シーズン、各ブランドやメーカーがその色を取り入れた新作を作っている。つまり今年流行の色は、来年になると古い色になってしまう……というわけだ。「色に新しいも古いもない」。そう考えた森永さんは、一着の服を多様な色へ変化させられないかと思案するようになる。

森永:空の色が朝から夜にかけて変わるように、葉の色が緑から紅葉を経て枯れていくように、色が変わる洋服を作れないかと考えました。ちょうどそのとき、フリクションボールペンを使っていたんです。フリクションはこすると消えるのではなく、こすることで発生した摩擦熱により、インクが色付きのものから無色透明に変わるという原理を採用しています。このフリクションのインクと洋服の染料が似ていると感じた僕は、「フリクションのボールペンを割ってインクを集めて服を染めたらどうなるか?」と考え、実験してみたんです。ただ、それはあまりうまくいきませんでした(笑)。その次に、フリクションのインクを作っている製造元へ「このインクを用いて服の染色をしたい」と問い合わせをしました。そのあたりから協力者が現れるようになりましたね。そんな中で、摩擦熱を用いるのではなく、人が室内から外に出て光を浴びるなど、ファッションに起こり得る現象で色が変わるようにしようという方向になり、今のフォトクロミックの洋服が出来上がりました。

初のパリコレで絶体絶命のピンチに

ファッションの世界にあった「流行色」という概念に疑問を持ったことから、森永さんは、光に反応して発色する素材「フォトクロミック」へたどり着く。2014年には、この素材で染色した糸により織られた服で初のパリコレに挑むことになる。テーマは「SHADOW=影」。白いドレスが光を当てると黒に変化するという画期的な演出だ。
事前に日本でテストを繰り返して万全の体制でパリに渡ったのだが、パリの会場リハーサルでは、なぜか色が十分に変化しないという絶体絶命のピンチに追い込まれてしまう。そんな窮地を救ったのは、森永さんがファッションへの道へ進むきっかけとなった神田恵介さんだった。

森永:僕は顔面蒼白で、声も出ないくらい追い詰められていました。だから、神田さんに「ダメかもしれません。この服自体を出すのをやめます」と言ったんです。当然「えー!?」みたいになって(笑)。そのとき、実際に光を当ててみたのですが、本来、白から真っ黒になるはずの洋服が、ほんのりうすいグレーにしかならない。淡いグレーであれば誰も、ビフォア/アフターの差に気付かないからやめると切り出したのが、ちょうどショーが始まる1時間くらい前のことでした。リハーサルももうできない状態だったのですが、そんなときに神田さんが「黒にすることがテーマじゃない。影を表現することに挑戦したらどうか?」と提案してくれたんです。

そこで、モデル2人をぴったり背中合わせに重ね、外から強い光を当てることにしました。2人が離れた際、身体や手など、光が遮られた箇所に陰がもしかしたら映るかもしれない――。そんな可能性にすがり、本番に挑んだんです。ショーが始まって1分くらい、モデルに光を当てている間は、静寂の時間でした。僕がいたのは、表の様子が見えないバックステージ。「まったく伝わらなかったらどうしよう……」「結局、白い服が白い服のままだったら……」と不安が募ったのですが、1分後に大きな歓声と拍手が沸き起こりました。戻ってきたモデルの服にはくっきり影の跡が残っていて、見ているお客さんからしたら「影を焼き付けるってどんな洋服なんだ!?」と思ったようで、結果的に大成功したんです。というわけで、神田さんの一言によって、生き延びられたわけです。

パリコレにこだわる理由とは?

後から判明したのだが、服の色がしっかりと変化しなかった原因はフランスで用意した照明にあったという。何でも、日本でテストした照明と同じモデルを使用したのだが、型番が新しく、紫外線をカットするタイプだったため、フォトクロミックがうまく反応しなかったのだとか。

こうして恩人・神田さんの助言もあって、どうにか初のパリコレで成功を収めた森永さんは、以来、10年間毎シーズンパリコレに参加している。

それにしても、ファッションの世界ではパリのほかにもミラノ、ロンドン、ニューヨーク、そして東京を含めた5大コレクションが存在するが、なぜ彼はパリコレにこだわっているのだろうか?

森永:都市でいえば、もちろん、ミラノやニューヨークも引けを取りません。しかし、時代を変えていくエポックメイキングなコレクションは、パリから生まれることが多いんです。その10日間には、ファッションに命を懸けているような人たちが集まってきますし、そもそも、フランス自体が文化的にパリコレクションを軸に国の経済を回している側面さえありますからね。たとえば、東京を発信基地として自分の作ったものを世界中の人に届けることは難しい。ですが、パリコレクションで発表すれば、その日のうちにどのブランドがどんな服を発表したかという情報が全世界に届きます。そんなふうに、大きなファッションの渦を生み出すことができる大変価値のある場所なのです。

世界中のファッション関係者が注視するパリコレ。森永さんはその反響の凄まじさを、最近届いた世界的歌姫からのオーダーで思い知らされたようだ。

森永:先月9月末には24年の春夏コレクション、その半年前の3月には23年の秋冬コレクションを発表したのですが、3月のときは様々な反響をいただきました。実際にコレクションが行われたのは300~400人を収容する程度の小さな会場だったんですけど、話題がグローバルに駆け巡り、その翌日にはビヨンセからワールドツアーの衣装を作ってほしいというオファーを頂戴したんです。そういうところにまで届くような影響力を持っている場は、なかなかないと思います。

ビヨンセチームと話し合った結果、出来上がったのは、一着で二着の表情を持つローブです。衣装を着替えるのではなく「色を着替えていく」という発想のもと、僕らが手掛ける特殊な糸で、肉眼では真っ白に見えるものの、光が当たるとステンドグラスのようにカラフルに色が変化するという衣装を作りました。つまり、実際は着替えていないけど、光を当てて着替えたように見せる……という演出ですね。ビヨンセのワールドツアーは2023年5月10日~2023年10月1日に実施され、会場ごとに衣装を変えているのですが、このANREALAGEの衣装はすべての会場で着用していただけました。

ANREALAGE流パッチワークの特徴

そうこうしているうちに、森永さんを乗せた「BMW M850i xDriveグランクーペ」は、東京・国立にあるANREALAGEのアトリエに到着。ここでは、ブランドのアイコンとなっているパッチワークが作られている。
森永:ANREALAGEでは毎回テーマを設けています。そのテーマに合わせて、毎回、コレクションの内容をガラっと変えるのがブランドの特徴です。その中でも、ブランドを始めた当初から今までずっと続けているものがパッチパークです。普通のパッチワークであれば、四角や三角など決められた形の型紙を作って、ある程度の規則の中でパズルのように縫い合わせていく。一方で、ANREALAGEが志向するのは、そういうルールを超えたパッチワークです。まずパターンがない。たとえば、100パーツ縫われていたとしたら、100パーツすべてが違う形となっています。一つのパーツの大きさは、通常10cm程度でも小さいと言われますが、僕らは3cmくらいで、細かいものだと1cmくらいのものさえある。このため、一着を作るパッチワークのパーツ数としては、多いものだと4000枚くらいを要します。なので、パッチワークという名前ではあるのですが、パッチワークのイメージを超えていくような極端なものを作っていると言えるかもしれません。一つのパッチワークの中で様々な質感や色合いを持った素材、つまり、全然違う世界からきたものを一つに繋ぎ合わせていく。それこそが、ANREALAGEが表現してきたブランドテーマの根本であると、最近になって感じますね。

ANREALAGEブランドのアイコンでもある手作業のパッチワークはとにかく工程が多く、完成するまでに時間のかかるアナログな作業。ブランド立ち上げから現在まで20年間、森永さんの中学生時代の友人・真木大輔さんが担当しているそうだ。
そんな飽くなき探求心と情熱を持って、ファッションアイテムを作り続ける森永さんにとって「未来への挑戦=FORWARDISM」とは何か?--尋ねると、こんな答えが返ってきた。

森永:毎回新しいコレクションを発表することで、これからの時代の洋服を作りたいと考えています。近年は、自分の中で、進めば進むほどむしろ回帰していくような感覚が強くなっています。それはブランドを始めた頃かもしれないし、まだ、ファッションを知らない頃かも知れない。パッチワークが色濃くなってきているのもそうです。何か、一直線に進んでいくのではなく、もっと同じ場所を何回も回りながら、それでいて、高くなったり、深くなったり。らせん的な進み方をするようなところに未来があってほしいと思います。

(構成=小島浩平)
番組情報
『BMW FREUDE FOR LIFE』
毎週土曜
11:00-11:30

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