YUKI、エレカシ、米津玄師…音楽プロデューサー・蔦谷好位置が語る「転機となった楽曲」

音楽プロデューサーの蔦谷好位置。YUKI、ゆず、エレファントカシマシ、back number、米津玄師、Official髭男dismなど数々のアーティストの楽曲を手がけてきた彼が、J-WAVEで自身のターニングポイントを振り返った。

蔦谷がリモートでゲスト出演したのは、J-WAVEの番組『TOKYO M.A.A.D SPIN』の1月13日、20日(ともに水曜)のオンエア。同番組では、東京のダンスミュージック・シーンにまつわるカルチャー、アート、ファッション、ニッチなニュースなどをお届けしている。

ここでは13日のオンエア内容の一部をお届けする。話を聞いたのは、水曜日のナビゲーターであるfrascoのタカノシンヤ、峰らる。

今の活動につながる、小学4年から始めた“打ち込み”

蔦谷はagehasprings所属の音楽プロデューサー・作曲家。アーティストへの楽曲提供やプロデュースを手がけるほか、『SING/シング』『キャッツ』などをはじめ、多数の映画音楽にも携わる。今回は、そんな蔦谷を深堀りすることに。

frascoはまず、幼少期について質問。ピアノを始めたのは、3、4歳の頃だったという。

タカノ:クラシックという感じですよね。
蔦谷:クラシックっていっても、まだ最初のバイエルとかブルグミュラーとか基礎的なことを、半ば強引に習わされてた感じですね。最初は自分の意思ではないですよね、当然。
タカノ:じゃあ、そんなに楽しんでやっているという感じじゃなかったんですか?
蔦谷:楽しくはなかったですね。練習は嫌だったけど、でも音楽自体は好きだったと思いますね。耳はけっこうよくて、聴いたらすぐメロディとかは弾ける感じだったので。「自分に向いてるのかな」なんてことは、思ってはいたんじゃないですかね、きっと。

小学4年生の頃からは、親が買ってくれた「MSX」を用いて打ち込みを始めたという。ゲームパソコンのようなもので、プログラミング言語で打ち込む方式だった。

タカノ:小4で、そんな(笑)。めちゃくちゃ理系というか。
蔦谷:理系っていうか、ファミコンを買ってもらえなくて、なぜかそれを買い与えられたので、やるしかなかった感じですね(笑)。

蔦谷の両親は音楽、文学など芸術全般を好み、3人きょうだいは全員ピアノを習っていたそうだ。当時から演奏がうまかった姉は今、ピアノの先生になっているという。蔦谷は両親について「僕は弾くのは全然ダメだったけど、楽曲を作ったり、耳がよかったりすることを見抜いてくれてたんだと思う。のびのびとやらせてくれたイメージはありますね」と語った。

タカノ:小4で、すでに作曲をしてたっていうのはすごいですよね。
蔦谷:作曲っていう感じじゃないですよ。M NETWORKとかYMOとか、そういうものを耳コピーして打ち込んでる感じでしたね。
タカノ:パソコンの中で、シンセみたいな感じで音を鳴らすことができるという?
蔦谷:そうそう。昔のファミコンの曲みたいな感じ。たしか3和音と、リズムでビープ音しか出せなかった。「メロディーで1個使っちゃうから、残り2つはどうするか」みたいなことを、当時から。「和音でどの音を使うのが重要か」みたいなことを、いろいろ考えながらやってたとは思う。

リバーブやディレイがないため、「音を並べて、小さくしたやつを後ろに並べていくと、ディレイっぽく聴こえる」などの工夫を生み出していたそうだ。

峰:すごっ。手動ディレイ。
タカノ:そうか、エフェクトもないっていうのは、なんか新鮮な。音楽との向き合い方が変わりますね。
蔦谷:不便なところでいかに工夫するかみたいなのは、その頃からじゃないかなと思います。

「初めて作曲したのはいつですか?」というタカノの問いには、「覚えてるのは小2か、小3ぐらいで、鼻歌でメロディーを作った」と回答。「サンデーマジック」という、大人びたタイトルだったそうだ。

3つのターニングポイントを振り返る

蔦谷の子ども時代のエピソードを聞いたタカノは「小さい頃からプロデューサー的な動きをしてたっていうのが、すごく面白い」とコメント。ここからは、3つのターニングポイントを振り返ってもらった。

蔦谷:こういった質問をたまにしていただけることがあって、思い返したら3回ぐらいあるなと思って。1個は、作曲家としてのターニングポイント。もう1個は、プロデューサーとしてのターニングポイント。3つ目は、キャリアを重ねてきた中でのターニングポイントみたいなのがあるんですけど。

ひとつめに挙げたのは、YUKIが2005年にリリースした楽曲『JOY』。

蔦谷:あれは、けっこう昔に作った曲だけど、YUKIさんが歌ってくれたことで仕事がすごく増えたし、いろんな人に知ってもらえて、「この人のメロディーは面白い」とお仕事いただくことも多かったので。やっぱり間違いなくターニングポイントではあります。

「これはいろんなところで話しているので、そうじゃないエピソードとして思いついたのが」と次に名前を挙げたのは、エレファントカシマシ。

蔦谷:プロデューサーとして、自分が信頼を得られるようになったきっかけって何かなと思ったら、いろいろやってきたんですけど、エレファントカシマシだなと思ったんですよ。

メンバーは蔦谷より10歳年上で、彼らと出会ったときの蔦谷は29歳。当初は「大ベテランの偉大なバンドっていうイメージだった」「まさか、そんな仕事いただけると思ってなかった」と感じていたが、それから長く仕事をともにすることになった。

蔦谷:すごく気に入っていただけるサウンドの部分もあったので、10年ぐらい一緒にプロデュースをさせてもらったり、ライブをやったりしていたことで、けっこういろんなアーティストが、「あの宮本浩次に信頼されてる男だったら」と仕事をくださることが多かったんですよ。例えば、米津(玄師)くんなんかも最初に出会った頃、人に誰かプロデュース頼みたいっていうときに、「宮本さんに信頼されてる人だったら大丈夫だと思う」みたいなところがあったみたいです。
タカノ:すごいですね。

「プロデューサーというよりは、むしろすごく教えてもらった」と、宮本浩次への思いを語る。

蔦谷:「プロデューサーとしてこの立ち位置でやる場合は、いったいどういう動き方をしたらいいのか」とか。僕もハッタリでやってたところもあるから、宮本さんがそれを全部大きく包んでくれて、プロデューサーとして成長させてくれた人だなと思いますね。

キャリアを重ねていった蔦谷が30代後半になって出会ったのが、先ほども名前に挙がった米津玄師だ。『アイネクライネ』のプロデュース/編曲を経て、『LOSER』のプロデュースを手がけた。

蔦谷:(そのときすでに)僕は若い子たちから見たら、大御所とまではいかないけど、中御所ぐらいのキャリアがあったと思うんだけど、(『LOSER』で)「蔦谷さんの音がめっちゃ新鮮! すげえいいじゃん!」みたいなふうに思ってくれたんですよ。最新のサウンドだったりとかいうのは、もちろん若い子がどんどん更新していくことだと思うんです。僕はそんな中で、長くやっている分、経験や知識、技術はあるかもしれない。そこに自分のエッセンスとして新鮮なサウンド感というのを出せたかなと思うのが『LOSER』なんです。もちろん、米津くんの曲があっての話で、彼が導いてくれた部分もすごく大きい。だから彼と出会って『LOSER』という曲を一緒に作れたっていうのは、その後のOfficial髭男dism(との作品制作)とかにもつながっていくし、いろんなアーティストから「あの『LOSER』の感じが」と言われることも今までけっこうありました。

それまでのキャリアとして、自身のイメージが「生バンドのロックの人」「生の肌触りの人」というイメージも強かった中で『LOSER』のプロデュースを手がけたことは大きな経験だったと述べた。

このトークの前に、タカノは「蔦谷さんのターニングポイントとなった曲をかけたいんです」と伝えていた。数多くの楽曲から選んだのは……?

蔦谷:といった話を踏まえて、何を聴きますかね?
峰:あははは(笑)。どれにするか。
タカノ:やっぱりプロデューサーとしてのターニングポイントになった曲が気になりますね。
蔦谷:これは僕、非常に思い入れもある曲なので聴いてください。エレファントカシマシで『笑顔の未来へ』。



蔦谷好位置の最新情報は、agehaspringsの公式ページにて。

東京のダンスミュージック・シーンを盛り上げるJ-WAVEの番組『TOKYO M.A.A.D SPIN』は、月曜から土曜に日替わりでナビゲーターが登場。オンエアは27時から29時。

※記事の初出時、内容に誤りがありました。記事を訂正して、お詫びいたします。(J-WAVE NEWS編集部/2021年2月8日)
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2021年1月20日28時59分まで

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番組情報
TOKYO M.A.A.D SPIN
月・火・水・木・金・土曜
27:00-29:00

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